山椒大夫なんか知らん。陸奥でスローライフ始めます。

希臘楽園

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 私は、アラサーのOLだった。
 最後に覚えているのは、深夜のオフィスでデスクに突っ伏したまま意識が飛んだこと。過労死か、ただの睡眠不足による脳卒中か。
 どっちにしても、死因は「会社が悪い」で決まりだ。
 目が覚めたら、十四歳の少女の体になっていた。
 長い黒髪、粗末だけど上質な着物、囲炉裏の煙が立ち込める古い家。
 隣の部屋から、十二歳の弟の声が聞こえてくる。
「……お姉ちゃん、今日もお母様泣いてるよ……」
 その瞬間、頭の中に大量の記憶が流れ込んできた。
『安寿と厨子王』の世界。
 陸奥国の元領主の娘、安寿姫に転生したらしい。
 ちょうどその時、囲炉裏の前に座った母親が、ため息混じりに口を開いた。
「もう十二年も経ったわね……。
 お父様は筑紫でどんな暮らしをしておられるのかしら。
 何の音沙汰もないけれど、もうこれ以上待っていても仕方ない。
 都へ上って許しを請い、筑紫まで訪ねてみようかしら。
 安寿、厨子王も、もう大きくなったし……一緒に連れて行ってあげたいの」
 厨子王が目を輝かせて、
「お父様に会えるの? 本当に?」と喜ぶ。
 私は囲炉裏の火を見つめたまま、静かに口を開いた。
 心臓が早鐘を打っていた。
(……冗談じゃない)
 転生したばかりのこの瞬間に、すでに運命の分岐点が来ている。
 このまま母親の言葉に流されたら、越後で人買いに騙され、家族バラバラ。
 私は山椒大夫に売られ、塩汲みでこき使われ、最後は自害か性奴隷。
 そんな結末、絶対に許せない。
 私は立ち上がり、声を低く抑えて言った。
「お母様、それだけは絶対にやめてください。筑紫へ行くなんて、冗談じゃないんです」
 母親が驚いた顔で私を見る。
「安寿、どうしたの? 急にそんな……」

 私は深呼吸して、一気にまくし立てた。
「理由は六つあります。全部、ちゃんと聞いてください」
 一つ。
「お父様は、自分から何もしてくれない人です。
 左遷されて十二年、手紙一通、使い一人、寄こさない。
 生きているなら、私たちを捨てたってこと。
 死んでいるなら、もう終わりです。
 そんな人に会いに行くために、家族全員で命を賭ける価値なんてありません」
 二つ。
「距離と危険が異常です。
 陸奥から筑紫まで、歩きと舟で最低半年。
 女子供だけで行ったら、確実に人買いに捕まります。
 お母様は佐渡に売られて塩田でこき使われ、盲目になって乞食のような歌い手生活。
 私と厨子王は山椒大夫に売られて、塩汲みと柴刈りで酷使され、最悪は性奴隷です。
 厨子王だけが逃げて出世するかもだけど、家族が壊滅するんです」
  三つ。
「それに、お父様だって筑紫まで無事辿り着いたか分からないんです。
 何しろ便り一つ無いのだから。
 途中で夜盗に襲われて死んだかもしれないし、
 死んだことにして途中で女を囲って暮らしているかもしれない。
 とにかく男である父親でさえそうなのだから、
 私たち女子供だけで、危険な同じ行程を辿って、
 筑紫にいるかも分からない父親を訪ねるなんて、バカの極みです」
 こんな博打、ありえません」
 四つ。
「お父様の顔、ちゃんと覚えていますか?
 私は二、三歳の頃のぼんやりした記憶しかない。
 厨子王に至っては、生まれたてかお腹の中にいた頃に父がいなくなったのです。
 顔も声も知らない『お父様』のために、家族全員で死にに行くんですか?
 戦争で戦死したお父様ならまだしも、これはただのネグレクトですよ」
 五つ。
「旅費だって現実的に無理です。
 舟代、宿代、護衛、食い扶持……家財全部売っても足りないかも。
 着いたところで、お父様が貧乏左遷暮らしなら一家心中コース。
 金と命を無駄に捨てるだけです」
 六つ。
「総括として、もしこれが今の世なら、
『借金で蒸発したパパを探しに、母子で夜の街に探しに行く』みたいなものです。
 パパは連絡なしで新しい女と暮らしてるかも。
 行ったら人さらいに捕まって、母は風俗に売られ、子供は闇に消える……。
 そんな無謀を、誰も止めない親は親として失格です」

 厨子王はぽかんと口を開けたまま固まっていた。
 母親は顔を覆って、肩を震わせ始めた。
「……安寿、そんな怖い話、どこで……」
 母親が涙で濡れた目で私を見つめ、
「……その……『ネグレクト』とか、『パパ』とか……何なの?
 今のお前の言葉の中に、聞き慣れないものがたくさん入っていたけど……
 まるで、別の国の言葉みたいで……」
 私はハッとした。
(ああ、しまった。現代語がポロポロ出てた……)
 私は慌てて取り繕った。
「あ……それは、夢の中で見た、遠い国の言葉なんです。
 その夢の中では、家族を長く放置する親のことを『ネグレクト』って呼ぶんです。
『パパ』は……お父様のこと、親しみを込めて呼ぶ言い方みたいで……
 でも、意味は同じですよ。
 夢がとてもリアルで、悪い夢だったんです。
 それが現実になる前に、止めるべきだと思いました」
 母親は眉を寄せ、しばらく考え込んでいた。
「……夢、ねえ」
 彼女は囲炉裏の灰を軽くかき混ぜながら、ぽつりと続けた。
「確かに、お前の言う通りかもしれないわ。
 お父様は……私たちに何も知らせてこなかった。
 生きているなら、迎えに来てくれるはずなのに……」
 声が途切れた。
 厨子王が小さな声で言った。
「お母様……お姉ちゃんの夢、怖いけど……
 本当に行ったら、お姉ちゃんが死んじゃうとか、
 お母様の目が見えなくなっちゃうとか……
 僕、そんなの嫌だよ……」
 母親は厨子王の頭を優しく撫で、私の手を握った。
「……安寿の言う通りかもしれない。
 もう十二年も待ったのだから……
 これ以上、無理に追いかけなくてもいいのかもしれない」
 こうして、筑紫行きは中止になった。

 それから八年。
 私は二十二歳になった。
 前世の知識を活かした塩の改良製法、馬の仲介、薬草取引が軌道に乗り、
 家は立派な屋敷に建て替えられ、蔵は二つ増えた。
 私は地元の有力武士の息子と結婚し、子供も一人授かった。
 厨子王は二十歳になり、泣き虫を完全に卒業、地元の武士団で弓馬の腕を上げ、妻を迎えて子もできた。
 母親は五年前に再婚し、再婚相手の馬商人と穏やかに暮らし、孫たちに囲まれて毎日笑顔だ。
 
 ある雪の降る冬の日、門前にぼろぼろの老人が立っていた。
 杖をつき、痩せこけた体に古い衣をまとっている。
「……ここは、平正氏の旧宅か?
 私は……正氏じゃ。
 筑紫で罪を償い、ほとぼりが冷めるまで身を隠しておったが……
 もう二十年近く経った。許されたはずじゃ。家族は……どうしておる?」
 私は門の外からその顔をじっと見た。
 幼い頃のぼんやりした記憶の顔。
 でも、二十年経って、別人のように変わり果てている。
 母親が孫を抱いて出てきて、老人を見て一瞬息を飲んだ。
 厨子王も妻と子を連れて現れ、老人を凝視した。
 誰も口を開かない。
 老人(父親)が震える声で、
「……玉木……安寿……厨子王……お前たちじゃな……
 父じゃぞ……帰ってきたぞ……」
 母親が静かに、しかしはっきりと言った。
「……あなた、誰ですか?」
 厨子王が続けて、
「うちの父上は、二十年前に筑紫へ左遷されてから、
 手紙一通、使い一人、寄こさなかった人です。
 私たち、待つのに疲れて、もう諦めました。
 今は新しい家族で幸せに暮らしてますから」
 私は囲炉裏の暖かさを思い出しながら、ぽつりと言った。
「行方不明のままでいいんです。
 私たちが命懸けで探しに行かなくて、本当に良かった。もう、来ないでください」
 老人は肩を落とし、雪の中に消えていった。
 誰も追いかけなかった。
 誰も涙を流さなかった。
 外は雪が静かに積もっていた。
 囲炉裏の火は暖かく、家の中は孫たちの笑い声が響いている。

 山椒大夫なんか知らない。
 好意的だった次男の二郎も知らない。
 厨子王を匿ってくれた中山国分寺の親智和尚も知らない。
 私たちは、そんな悲劇の連鎖なんて一切関わらない。
 ここ陸奥で、スローライフを続けていく。
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