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プロローグ
沈む光
しおりを挟む雨は、いつ降り始めたのか分からなかった。
フロントガラスに当たる水滴が、ヘッドライトの光を歪ませる。夜の山道は、ガードレールの外側が闇に溶け込み、どこまでが道で、どこからが空なのか、判然としない。
後部座席で、天川黎人は眠っていた。
窓の外を流れていく光が、夢の中にまで入り込んでくる。遠くで、波の音のようなものが聞こえた気がした。
その音が、急に近づいた。
衝撃は、音よりも先に来た。
身体が前に投げ出され、次の瞬間、世界が裏返る。金属が悲鳴を上げ、ガラスが砕ける音が、耳の奥を突き刺した。
暗転。
浮遊感。
そして——冷たさ。
水が、車内になだれ込んでくる。
重力の向きが分からない。
どちらが上で、どちらが下なのか。
誰かが叫んでいる。
声は、すぐに泡に変わった。
「黎人——!」
母の声だった。
父の手が、腕を掴む。強く、離さない。
シートベルトが引きちぎられる音がした。
水の中で、光が揺れている。
ヘッドライトだ。
その光が、海中の闇を切り裂き、ありえない景色を照らし出す。
沈んでいく車。
開いたドア。
泡の軌跡。
そして、見えるはずのないものが、見えた。
車の外側。
崖の岩肌。
夜の海に広がる、黒い空間。
——広い。
幼い黎人の意識に、そう浮かんだ。
世界は、思っていたよりも、ずっと広かった。
父と母が、必死に彼を押し出す。
水流が、身体を引き離そうとする。
「行け」
父の口が、そう動いた。
声は届かなかったが、意味だけは、はっきりと分かった。
黎人の身体が、外へと放り出される。
視界が回転する。
その瞬間、また見えた。
自分の背後。
沈み続ける車。
その中で、両親がこちらを見ている位置。
——違う。
本来、そんなものは見えない。
だが、確かに見えた。
手を伸ばせば届きそうな距離で、
届かないことも、同時に理解していた。
水面が近づく。
肺が焼けるように痛む。
誰かに引き上げられた感覚があった。
空気。
光。
波の音。
岸に打ち上げられた身体が、砂を噛む。
吐き出した水の中に、夜が混じっていた。
振り返る。
海は、何事もなかったかのように静まり返っている。
そこに、車はない。
人も、いない。
ただ、広がる闇だけがあった。
——見えない。
その事実が、ひどく恐ろしかった。
黎人は、泣かなかった。
声も、出なかった。
ただ、見えてしまったものだけが、頭の中に残っていた。
後に、病院の天井を見上げながら、目を覚ましたとき。
彼は、自分が生きている理由を、まだ知らなかった。
だが一つだけ、確信していた。
あの夜、
何かが終わり、
同時に、何かが残った。
それは、
忘れられるものではなく、
手放せるものでもなく、
そして——
隠しきれるものでもなかった。
世界は、あのときから、
少しだけ、裏側を向いている。
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