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第一章
海の底で見たもの
しおりを挟むそのニュースを見たのは、夕食の時間だった。
居間のテレビは、食卓から少し離れた位置に置かれている。古い集合住宅の、六畳と四畳半を無理に繋げたような部屋だ。台所と居間の境目には、背の低いカウンターがあり、そこに母親の形見のマグカップが置かれている。中身はインスタントコーヒーだったが、天川黎人はほとんど口をつけていなかった。
画面の中では、湾岸地域の倉庫群が映し出されている。
『――本日未明、○○港第七倉庫付近で、作業員の男性が死亡しているのが発見されました』
落ち着いた声の女性アナウンサーが、事実だけを淡々と読み上げる。
事故死。
そう結論づけられた言葉が、画面の右下に白いテロップで表示されていた。
天川は箸を止めたまま、テレビを見ていた。
画面が切り替わる。
夜の港。
作業灯に照らされた倉庫の外壁。
立入禁止の黄色いテープの向こうで、警察官が動いている。
何度も、何度も、同じ映像が繰り返される。
——おかしい。
それは言葉になる前の感覚だった。
論理でも直感でもない。
ただ、胸の奥に小さな石が落ちたような、重さだけが残る。
『警察は、足を滑らせて海に転落した事故と見て捜査しています』
事故。
その言葉が、やけに軽く聞こえた。
天川は、無意識のうちにリモコンを手に取っていた。
録画。
再生。
一時停止。
画面の中で、倉庫の壁に沿って設置された作業灯が止まる。
光の当たり方を、じっと見る。
そして——その瞬間だった。
世界が、反転する。
テレビ画面の向こう側に、空間が生まれた。
平面だった映像が、奥行きを持って立ち上がる。
見えているはずのない場所。
カメラが向けられていない死角。
画面の端で切り取られた「外側」。
そこに、男が立っていた。
正確には、立っていたはずの位置が、はっきりと分かった。
倉庫の壁から、約一・八メートル。
海へ向かって半身を向け、右足に重心をかけている。
作業灯の光が、直接当たらない位置。
——どうして、そこに立つ?
事故なら、そんな場所に立つ理由がない。
天川は息を止めていた。
映像が進む。
警察官の背後で、波打つ水面が一瞬だけ映り込む。
その反射。
天川の視界が、ぐらりと揺れた。
暗い。
冷たい。
水の中。
ガラスがきしむ音。
耳の奥で、金属が歪む音が鳴り続ける。
——だめだ。
天川は目を閉じ、すぐに開いた。
過去の映像を、意識的に切り離す。
今は、目の前の事件だ。
水面の反射。
そこに映っている光は、作業灯の位置と一致しない。
本来、そこに反射が生まれるはずがない。
天川は、ノートを開いた。
高校で使っている、ただの大学ノートだ。
そこに、倉庫の簡単な見取り図を書き始める。
作業灯の位置。
被害者の立ち位置。
カメラの角度。
線と線が、少しずつ繋がっていく。
数日後。
同じ港で、二人目の死者が出た。
今度は感電死。
老朽化した配線に触れた事故、と報道された。
だが、天川には分かっていた。
——同じだ。
被害者の立ち位置。
作業灯。
誘導。
誰かが、人を殺していない。
ただ、死ぬ位置に立たせている。
テレビの特集番組は、専門家を呼び、原因不明を強調した。
「偶然が重なった悲劇」
「港湾労働の危険性」
そのどれもが、核心を避けている。
天川は、教師に話した。
信頼できる、大人だった。
理路整然と、感情を挟まず、事実だけを。
数日後。
週刊誌が、その内容をほぼそのまま掲載した。
——事故ではない。
——作業環境を操作した連続殺人。
犯人は、港湾設備の点検業者。
過去に起きた労災事故を隠蔽された人物。
警察が、動いた。
数週間後、容疑者は逮捕された。
ニュースは、こう締めくくられた。
『高校生の推理が、事件解決の糸口となりました』
天川は、その放送を見なかった。
代わりに、玄関のチャイムが鳴った。
ドアの向こうに立っていたのは、警察官だった。
穏やかな顔。
だが、目は笑っていない。
「天川黎人くん。少し、お話を聞かせてもらえますか」
天川は、頷いた。
その瞬間、胸の奥で、冷たい海の感触が蘇る。
——また、見てしまった。
第一章は、まだ終わらない。
だが、事件はもう、解決していた。
取調室は、思っていたよりも狭かった。
机と椅子が向かい合い、壁には何もない。時計すら外されているのか、時間の感覚が曖昧になる。蛍光灯の光は白く、影を作らない。天川黎人は、背もたれの硬い椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置いた。
正面に座る刑事は二人だった。
一人は五十代前後。髪には白いものが混じり、背筋が妙に伸びている。もう一人は若く、三十代に入ったばかりに見えた。若い方が記録係なのだろう。ノートを開いたまま、まだ一文字も書いていない。
年配の刑事が口を開いた。
「緊張しなくていい。今日は、あくまで参考人として話を聞くだけだ」
参考人。
その言葉は柔らかいが、含んでいる意味は決して軽くない。
「君が、今回の港湾事故について、かなり詳しい推理をしていたと聞いている」
天川は、静かに頷いた。
「テレビで見ました」
それ以上でも、それ以下でもない事実だった。
刑事は、しばらく天川の顔を観察するように見てから、続けた。
「普通の高校生が、だ。
専門家でも気づかなかった点に、どうして辿り着けた?」
質問は、率直だった。
同時に、それはすでに“疑い”を含んでいる。
天川は一瞬、言葉を選んだ。
能力のことは言えない。
言ったところで、理解されない。
理解されなければ、別の名前をつけられる。
——虚言。
——妄想。
——あるいは、共犯。
「……映像です」
天川は、視線を落としたまま答えた。
「繰り返し、見ました。
違和感があったので」
「違和感?」
刑事は、ゆっくりと問い返す。
「事故だと説明されていましたが、
被害者の立ち位置と、照明の配置が合わなかった」
若い刑事のペンが、初めて動いた。
「それは、現場を見ないと分からないはずだ」
天川は、首を横に振った。
「映像に、全部ありました。
映っていないだけで」
空気が、わずかに張り詰める。
年配の刑事は、机の上で指を組んだ。
「君は、港に行ったことは?」
「ありません」
「港湾関係者に、知り合いは?」
「いません」
「警察関係者は?」
天川は、ほんの一瞬だけ、間を置いた。
「……いません」
それは嘘ではなかった。
だが、刑事はその間を見逃さなかった。
「高校生が、テレビ映像だけで、
連続性を見抜き、犯行手口を言い当てた」
刑事は、低い声で言う。
「正直に言おう。
我々は、少し不思議に思っている」
天川は、胸の奥が冷えるのを感じた。
——やはり、来た。
「内部情報を、どこかから聞いた可能性。
あるいは、犯人と何らかの接点があった可能性」
若い刑事が、ちらりと天川を見る。
その視線には、敵意よりも困惑があった。
「否定しますか?」
天川は、顔を上げた。
「否定します」
即答だった。
「僕は、誰とも繋がっていません。
ただ……」
言いかけて、止める。
言葉にすればするほど、危うくなる。
刑事は、その沈黙をどう解釈すべきか、測りかねているようだった。
「ただ?」
「……ただ、
見えるものを、整理しただけです」
取調室の蛍光灯が、微かに唸る。
年配の刑事は、椅子の背にもたれ、息を吐いた。
「君の推理は、結果的に正しかった。
それは認める」
その一言に、天川は救われたような気持ちになる。
だが、続く言葉が、それを打ち消した。
「だが、“正しすぎる”。
それが問題だ」
天川は、何も言えなかった。
「今回の件は、これ以上追及しない。
無関係であることも確認した」
刑事は、淡々と告げる。
「だがな、天川くん」
視線が、まっすぐに突き刺さる。
「君の名前は、記録に残る」
その瞬間、天川は理解した。
——疑いは、消えたのではない。
——“保留”されたのだ。
取調室を出ると、外はもう暗くなっていた。
警察署の廊下は長く、白く、静かだった。
自分の足音だけが、やけに大きく響く。
玄関を出たところで、若い刑事が追いかけてきた。
「……君」
呼び止められ、天川は振り返る。
若い刑事は、少し言いづらそうに言った。
「忠告だ。
その……目立つことは、しない方がいい」
天川は、答えなかった。
警察署の外に出ると、夜風が頬を打つ。
遠くで、波の音がした気がした。
——見えることは、
——必ずしも、救いじゃない。
天川黎人は、そのとき初めてはっきりと悟った。
自分はもう、
普通の“外側”には戻れない。
事件は終わった。
だが、警察の中で、
彼という存在を示す小さな印は、確かに刻まれた。
それは、後に彼自身を縛り、
同時に、逃がさなくなる。
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