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第十二章
第一部 再起動する事故
しおりを挟むその違和感は、静かすぎた。
天川黎人は、二階の事務所の窓辺に立ち、夕暮れの路地を見下ろしていた。
一階の駄菓子屋からは、相変わらず子どもたちの声が聞こえてくる。
笑い声。
紙袋の音。
駄菓子を選ぶ時間特有の、ゆるやかな幸福。
——平穏すぎる。
それが、最初の兆候だった。
これまで、事故の前には必ず“ざらつき”があった。
空気が重くなる。
時間の流れが、微妙に歪む。
何かが、起きるために整っていく感触。
だが今日は、それがない。
それなのに——
天川の視界には、別のものが浮かび上がっていた。
事故の映像ではない。
血も、破壊も、悲鳴もない。
代わりに見えるのは、条件だった。
・午後六時十二分
・自転車
・路地の合流点
・一瞬の視線逸らし
・「大丈夫だろう」という判断
——それだけで、成立する。
天川は、目を細める。
「……雑だな」
呟きは、独り言だった。
事故そのものが見えないのに、
事故が起きる“道筋”だけが、やけに鮮明だった。
まるで、設計図の骨組みだけを突きつけられているような感覚。
同じ頃。
別の場所では、焦燥が会議室の空気を満たしていた。
窓のない部屋。
蛍光灯の白さ。
資料の束。
B派の中枢にいる男は、机を指で叩きながら言った。
「成功率が落ちすぎている」
誰も反論しない。
事実だった。
事故は起きていない。
正確には——成立していない。
「大規模な案件は避けろ」
「露見は絶対に許されない」
「小さく、早く、確実に」
それが、今回の方針だった。
対象は、要人ではない。
警察関係者でもない。
ただ——内部告発に、ほんの一歩、近づいた人物。
事故の種類も単純だ。
自転車の転倒。
信号のない路地。
軽い接触。
搬送されるほどでもない怪我。
「不運だったね」で終わる。
それでいい。
それでなければならない。
男は言った。
「成功率を取り戻す。まずはそれだ」
だが、その声には、確信がなかった。
迷いが、混じっていた。
天川は、ノートを開いていた。
未来を描くためのものではない。
条件を崩すための、整理だ。
・時間
・人の流れ
・視線の交差
・判断の分岐点
事故は、偶然ではない。
だが、必然でもない。
成立するためには、驚くほど多くの前提が必要だ。
天川は、それを一つずつ消していく。
未来視は使わない。
使えないのではない。
使う必要がない。
「自転車は、来る」
「人は、曲がる」
「判断は、迷う」
ならば。
迷わせなければいい。
曲がらせなければいい。
来る理由を、失わせればいい。
天川の視界には、一本の線があった。
事故へ向かう線ではない。
事故が成立しなくなる線。
それは、これまで見てきたどんな未来よりも、静かだった。
夕方。
対象の人物は、何も知らずに自転車に乗る。
その背後で、条件は一つずつ崩れていく。
・いつもより五分遅れる
・路地に立つ、見知らぬ人影
・声をかけられる
・一瞬、足を止める
事故は、起きない。
だが——
B派の監視役は、違和感を覚えていた。
「……おかしい」
事故が失敗したのではない。
事故が“始まらなかった”。
成立条件が、最初から揃っていなかったかのように。
誰かが、触った。
誰かが、壊した。
だが、痕跡がない。
犯人も、介入も、未来の改変も——見えない。
ただ一つ、確かなのは。
「また、だ」
同じ名前が、頭をよぎる。
天川黎人。
事故を見ない男。
事故を壊す男。
その夜。
天川は、窓を閉めた。
街は何事もなかったように動いている。
事故は起きなかった。
誰も死ななかった。
ニュースにもならない。
だが——
均衡は、確かに揺れた。
天川は、理解していた。
もう、戻れない。
相手は、事故を起こさなければならない。
自分は、事故を起こさせない。
これは、追う者と追われる者の物語ではない。
成立条件を巡る戦いだ。
そして今、
最初の歯車が——確かに、外れた。
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