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第一部 常連たちの夜 1
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第一章 横川の路地
太田川の支流が街を分けるように流れ、その水音が古い商店街の端まで届く夜がある。横川という街は、広島の中心部からほど近い場所にありながら、観光客がほとんど来ない。原爆ドームへ向かう路面電車は、ここを素通りしていく。
商店街のアーケードを抜けると、川沿いの道に出る。街灯が等間隔に並んでいるが、どれも光が弱く、路面をぼんやりと照らすだけだ。その道を少し歩いて右に折れると、古い雑居ビルが密集した路地がある。昼間でも日当たりが悪く、夜は建物の影が重なって、どこか違う時間の中に迷い込んだような感覚になる。
その路地の突き当たり近く、雑居ビルの一階に、小さなバーがある。
看板は控えめだ。木の板に白い文字でただ一文字、「瀧」と書いてある。文字の縁がわずかに擦れていて、何年もそこに掛かっていることがわかる。ドアは重い木製で、磨りガラスの小窓がはまっている。その窓から、夜になるとほのかに光が漏れる。知っている人間しか来ない。知っている人間は、それでいいと思っている。
沖田正がカウンターの内側に立ったのは、今夜も六時を少し過ぎた頃だった。
六十七歳になった今も、沖田の動きに無駄がない。グラスを棚から出して、柔らかい布で丁寧に磨く。光に透かして確認する。曇りがあれば、もう一度磨く。それを一つずつ、全部のグラスに対してやる。急ぐ必要はない。最初の客が来るまで、まだ時間がある。
氷を割る。砕けた氷が金属のバケツの中で音を立てる。その音がバーの中に広がって、消える。沖田はそれを聞きながら、カウンターを布巾で拭いていく。左の端から右の端まで、一度で拭き切る。
それから沖田は、カウンターの一番右端の席の前で少し立ち止まった。
棚の下から小さな灰皿を取り出した。深みのある緑色をした、ガラスの灰皿だ。傷はない。いつも丁寧に洗って、乾かして、棚の同じ場所に戻してある。沖田はそれを、右端の席の前のカウンターに、そっと置いた。
バーは全席禁煙になって久しい。客もそれを知っている。誰もここで煙草を吸わない。だからこの灰皿に気づく客は、ほとんどいない。気づいたとしても、何も言わない。マスターの習慣というものは、客が口を挟むものではない、と皆が思っている。
沖田は灰皿を置いたまま、少しの間そこを見た。それから何も言わずに、奥のレコードプレーヤーに近づいて、古い盤を載せた。針を落とすと、かすかなノイズの後に、ピアノの音が流れ始めた。音量は小さい。会話の邪魔にならない程度の、部屋の底に敷くような音楽だ。
バーの中を、もう一度確認する。
カウンターは八席。木の天板は年季が入って、表面が滑らかになっている。スツールの高さは均一で、どれも少しずつ傷がある。壁には手書きのメニューが貼ってある。字は沖田の字ではなく、もっと古い、丸みのある字で書かれている。誰の字かを、沖田は聞かれても答えない。
照明は暗め、と客はよく言う。でも沖田は暗いとは思っていない。これが正しい明るさだと思っている。明るすぎる場所では、人は自分の顔を意識する。このくらいの明るさがちょうどいい。顔を気にしなくていい。
奥の棚には酒のボトルが並んでいる。高価なものも、そうでないものも、区別なく並んでいる。沖田は見栄えのために酒を並べない。飲まれるために置いてある。
沖田はカウンターの内側の定位置に戻った。腕を軽くカウンターの縁に載せて、ドアの方を向く。
今夜も誰かが来る。それだけが確かなことだ。
この路地に「瀧」が開いてから、三十年が経った。沖田がここで何を見てきたか、何を聞いてきたか、それは沖田の中にだけある。語ることは少ない。でも忘れたことも、ほとんどない。
ピアノの音が部屋の中を漂っている。
ドアの向こうで、路地の風が小さく鳴った。
つづく
太田川の支流が街を分けるように流れ、その水音が古い商店街の端まで届く夜がある。横川という街は、広島の中心部からほど近い場所にありながら、観光客がほとんど来ない。原爆ドームへ向かう路面電車は、ここを素通りしていく。
商店街のアーケードを抜けると、川沿いの道に出る。街灯が等間隔に並んでいるが、どれも光が弱く、路面をぼんやりと照らすだけだ。その道を少し歩いて右に折れると、古い雑居ビルが密集した路地がある。昼間でも日当たりが悪く、夜は建物の影が重なって、どこか違う時間の中に迷い込んだような感覚になる。
その路地の突き当たり近く、雑居ビルの一階に、小さなバーがある。
看板は控えめだ。木の板に白い文字でただ一文字、「瀧」と書いてある。文字の縁がわずかに擦れていて、何年もそこに掛かっていることがわかる。ドアは重い木製で、磨りガラスの小窓がはまっている。その窓から、夜になるとほのかに光が漏れる。知っている人間しか来ない。知っている人間は、それでいいと思っている。
沖田正がカウンターの内側に立ったのは、今夜も六時を少し過ぎた頃だった。
六十七歳になった今も、沖田の動きに無駄がない。グラスを棚から出して、柔らかい布で丁寧に磨く。光に透かして確認する。曇りがあれば、もう一度磨く。それを一つずつ、全部のグラスに対してやる。急ぐ必要はない。最初の客が来るまで、まだ時間がある。
氷を割る。砕けた氷が金属のバケツの中で音を立てる。その音がバーの中に広がって、消える。沖田はそれを聞きながら、カウンターを布巾で拭いていく。左の端から右の端まで、一度で拭き切る。
それから沖田は、カウンターの一番右端の席の前で少し立ち止まった。
棚の下から小さな灰皿を取り出した。深みのある緑色をした、ガラスの灰皿だ。傷はない。いつも丁寧に洗って、乾かして、棚の同じ場所に戻してある。沖田はそれを、右端の席の前のカウンターに、そっと置いた。
バーは全席禁煙になって久しい。客もそれを知っている。誰もここで煙草を吸わない。だからこの灰皿に気づく客は、ほとんどいない。気づいたとしても、何も言わない。マスターの習慣というものは、客が口を挟むものではない、と皆が思っている。
沖田は灰皿を置いたまま、少しの間そこを見た。それから何も言わずに、奥のレコードプレーヤーに近づいて、古い盤を載せた。針を落とすと、かすかなノイズの後に、ピアノの音が流れ始めた。音量は小さい。会話の邪魔にならない程度の、部屋の底に敷くような音楽だ。
バーの中を、もう一度確認する。
カウンターは八席。木の天板は年季が入って、表面が滑らかになっている。スツールの高さは均一で、どれも少しずつ傷がある。壁には手書きのメニューが貼ってある。字は沖田の字ではなく、もっと古い、丸みのある字で書かれている。誰の字かを、沖田は聞かれても答えない。
照明は暗め、と客はよく言う。でも沖田は暗いとは思っていない。これが正しい明るさだと思っている。明るすぎる場所では、人は自分の顔を意識する。このくらいの明るさがちょうどいい。顔を気にしなくていい。
奥の棚には酒のボトルが並んでいる。高価なものも、そうでないものも、区別なく並んでいる。沖田は見栄えのために酒を並べない。飲まれるために置いてある。
沖田はカウンターの内側の定位置に戻った。腕を軽くカウンターの縁に載せて、ドアの方を向く。
今夜も誰かが来る。それだけが確かなことだ。
この路地に「瀧」が開いてから、三十年が経った。沖田がここで何を見てきたか、何を聞いてきたか、それは沖田の中にだけある。語ることは少ない。でも忘れたことも、ほとんどない。
ピアノの音が部屋の中を漂っている。
ドアの向こうで、路地の風が小さく鳴った。
つづく
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