「瀧」 ―横川の小さなバーに棲む気の話―

バーガヤマスター

文字の大きさ
16 / 26

第四部 崩壊と証言 1

しおりを挟む
第十六章 奈緒が来た夜

十一月の半ばだった。
その夜の「瀧」は、珍しく常連が揃っていた。美咲が来て、堀内が来て、ユウが来て、律子が来て、少し遅れて坂口が来た。五人がカウンターに並ぶことは滅多になかった。沖田が「今夜は賑やかですね」と言った。堀内が「たまにはいいだろ」と言った。
会話が弾んでいた。美咲が仕事で小さな成功があったと話した。堀内が職人の田中をようやく一人前と認める気になってきたと言った。ユウが来月小さなライブをすると言った。坂口が会社の整理がほぼ終わりに近づいていると話した。律子はそれぞれの話を静かに聞いて、時々相槌を打った。
端の席は空いていた。灰皿だけがあった。
八時を過ぎた頃、ドアが開いた。
律子が最初に気づいた。
入ってきたのは、見たことのない若い女性だった。二十代後半に見えた。紺色のダウンコートを着て、肩に小さなバッグを掛けていた。少し迷うような目をして、入り口に立っていた。
律子はその目を見た瞬間、わかった。この人は何かを探している。観光でもなく、ただ飲みに来たのでもなく、何かを探してここに来た。三十年間、教室のドアを開ける子どもたちの顔を見続けてきた律子には、その違いがわかった。
律子はさりげなく、自分の隣の席を少し空けた。バッグをずらして、席との間の空間を広げた。
「いらっしゃい」と沖田が言った。
女性が「あの、やってますか」と聞いた。
「やってます」と沖田が答えた。「どうぞ」
女性がカウンターに近づいた。律子の隣の席に、少し躊躇してから座った。
沖田がグラスと水を出した。それからジントニックを作って、女性の前に置いた。
女性が「あ」と言って、沖田を見た。「注文、まだ言っていないです」
「そうですね」と沖田は言った。「違いましたか」
女性は少し驚いた顔をして、それからグラスを見た。「いえ、これで」と小さく言った。
堀内が「マスターは時々そういうことをする」と言った。「気にしなくていい」
女性が「はあ」と言って、少し場の雰囲気に慣れてきた様子だった。
しばらく、女性は黙ってジントニックを飲んでいた。常連たちも自分たちの話を続けていた。無理に話しかけるでもなく、無視するでもなく、ただその場にいる、という感じで。
それが「瀧」の空気だった。
しばらくして、女性が「あの」と言った。
全員が自然に女性の方を向いた。
「祖父を、探しているというか」と女性は言った。「祖父が昔よく来ていたバーが横川にあると聞いて、探してきたんですけど」
「ここですか」と美咲が聞いた。
「わからないんです」と女性は言った。「祖父はもう亡くなっていて。でも遺品の中に、横川のバーに通っていたと書いたメモがあって。それで探してみようと思って」
「横川にバーは何軒かありますよ」と堀内が言った。「ここだけじゃない」
「ええ、他も少し見てきました」と女性が言った。「でも、ここに入った時に、何か、わかった気がして」
律子がその言葉を聞いた。何か、わかった気がした、という言葉を。
「辻奈緒といいます」と女性は続けた。「祖父を探して来ました」
「お祖父さんのお名前は」と律子が聞いた。
女性がバッグの中から、古い写真を取り出した。色褪せた、小さな写真だった。
「これが祖父です」と言って、写真の裏を見せた。
手書きの文字があった。インクが少し滲んでいたが、読めた。
横川の瀧によく行った
場が静まった。
沖田の手が、グラスを磨くのを止めた。
「瀧というのは」と美咲が言った。「この店のことですよね」
女性が「そう思って」と言った。「看板を見て、ここかなと」
「お祖父さんのお名前は」と律子がもう一度聞いた。
女性が写真の表を、カウンターに置いた。
白髪の老人だった。静かな目をしていた。
「祖父の名前は、瀧本誠一といいます」と奈緒は言った。
カウンターに、沈黙が落ちた。

つづく
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

背徳のミラールージュ(母と子 それぞれが年の差恋愛にのめり込んでいく鏡写し)

MisakiNonagase
恋愛
24歳の市役所職員・中村洋平には、自慢の恋人がいた。2歳年上の小学校教師、夏海。誰もが羨む「正解」の幸せの中にいたはずだった。 しかし、50歳になる母・美鈴が21歳の青年・翔吾と恋に落ちたとき、歯車は狂い出す。 ​母の恋路を「不潔だ」と蔑んでいた洋平だったが、気づけば自分もまた、抗えない引力に引き寄せられていた。  その相手は、母の恋人の母親であり、二回りも年上の柳田悦子。 ​純愛か、背徳か。4年付き合った恋人を捨ててまで、なぜ僕は「彼女」を求めてしまうのか。 交差する二組の親子。歪な四角関係の果てに、彼らが見つける愛の形とは――。

横川ガード下探偵団 結成篇 ~あの夏、僕らは名前をつけた~

バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川商店街のJR高架下に、五人の子供たちが集まった。正義感あふれるケンジ、グミ愛あふれるユイ、論理派のショウタ、足の速いテツ、情報通のミク。ある夏、古本屋から消えた一冊の本をめぐり、彼らは「横川ガード下探偵団」を結成する。人情と笑いと、少しの涙が交差する、昭和の香り漂う商店街のハートフルミステリー。

梵珠山に、神は眠らない ―八峰 遥の豪運―

事業開発室長
ミステリー
神の気まぐれか、何かの意思か―― 八峰 遥が遭遇する不可思議な出来事と強運の連続。 彼女を呼ぶ声は一体? 現実とオカルトが交錯する、 全10話完結の短編ミステリー。 シリーズ第2弾【十二湖は、今日も蒼い ―八峰 遥の天運―】 公開中

僕がここでカフェを始めた理由

バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川の細い路地に、カウンター八席だけの小さなカフェ「HUIT(ユイット)」がある。オーナーの桐島奏は自分のことを語らないが、その静かな佇まいと一杯のコーヒーが、街の人々を引き寄せてきた。 なぜ北向きなのか。なぜ八席なのか。なぜこの場所を、十年以上かけて探し続けたのか。 ある日、一人の女性がやってくる。彼女の名は宮本さくら。亡き父の手帳を胸に、ある人を探して横川へ来た。 二人の出会いが、二十年越しの縁をほどき始める。ほっこりと、静かに、確かに。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

**俺、東大院生の実験対象にされてた。**同居している美人家庭教師のやばい秘密

まさき
青春
 俺は今、東大院生の実験対象になっている。  ある雨の夜、アパートの前にずぶ濡れの美女が立っていた。  「家庭教師です。住まわせてください」  突然すぎる申し出に困惑しながらも、なぜか断れなかった。  桐島咲楽、東大大学院生。成績は天才、料理は壊滅的、距離感はおかしい。毎日転ぶ、焦がす、なぜか距離が近い。そのくせ授業は鬼のように丁寧で、俺のことを誰よりもよく見ていた。  偏差値42だった俺の成績は、気づけば上がっていた。でも、それより気になることがある。  咲楽さんが、研究ノートに何かを書いている。「被験者」という文字が、見えた気がした。  距離が近いのは、データのためか。褒めてくれるのは、実験のためか。でも、あの顔は。あの声は。  「データじゃなくて、私がそう思っています」  嘘をついているような顔じゃなかった。  偏差値42の俺に、東大院生の美女が押しかけてきた。ドタバタな毎日の中で、俺の心臓が休まる暇がない。これはドキドキなのか、心配なのか。それとも、もう恋なのか。  不器用な天才と、鈍感な高校生の、やばい同居生活。

『新橋スクランブルと、横川のハイボール』

バーガヤマスター
ライト文芸
突然の東京異動で理不尽な組織の壁にぶつかる53歳の聡子と30歳の結衣。新橋で再会した同郷の二人は、故郷・広島の横川で語り合った夜を胸に会社という鎧を脱ぎ捨てる。数々の裏切りや困難を乗り越え、自分たちだけの居場所である小さなバーを作り上げる。世代を超えた友情と本当の仲間の絆が胸を打つ、痛快な人生逆転ストーリー。

秘められた薫り

La Mistral
恋愛
エブリスタにて、トレンド#恋愛で最高位 55位を獲得した作品です。 「愛しているよ」という夫の言葉が、今の美咲には虚しい空気にしか聞こえない。 欠けていたのは、理性を焼き尽くすような衝動。 ​クライアントの慎吾と交わす視線。ビジネスという仮面の下で共有される、剥き出しの欲望。 指先が触れる。名前を呼ばれる。ただそれだけで、美咲の積み上げてきた「良き妻」としての世界は音を立てて崩れ去る。 ​完璧なアリバイ、塗り固めた嘘。 夫の隣で微笑みながら、心は別の男の指先を求めている。 一度知ってしまった濃厚な「薫り」は、もう彼女を元の場所へは戻してくれない。 ​守るべき家庭と、抗えない本能。 二つの世界の境界線で、美咲が選ぶ「最後の一線」とは――。 欲望の熱に浮かされた女の、美しくも残酷な堕落の記録。

処理中です...