1 / 15
第一章「シャッターの向こう側」
しおりを挟む
第一章「シャッターの向こう側」
十月の夕暮れは、宇部の街に斜めに差し込む。
西の空がオレンジから深い紅へと変わっていく時間、藤原蒼は商店街の入り口に立って、ノートを開いた。A4判のキャンパスノート。左のページには手書きの地図、右のページには数字の列。シャッターが下りている店舗を黒く塗りつぶしていくと、地図はじわじわと暗くなっていった。
銀南街。宇部市の中心部を東西に貫くアーケード商店街。最盛期には百軒を超える店が軒を連ね、週末になると人が肩をぶつけ合いながら歩いたという。今は、その面影がどこにあるのか探す方が難しい。
蒼は歩きながら数えた。開いている店。閉まっている店。開いているふりをしている店——シャッターは下りていないが、ガラス越しに見える店内には明かりひとつない。
四十三。
百十二店舗中、シャッターが下りているか実質的な空き店舗になっているのが四十三軒。開口率にして六十一・六パーセント。自分が卒業論文で使おうとしているデータが、今、目の前の現実として広がっていた。数字で見ると冷静でいられる。だが実際に歩いてみると、なぜか胸のあたりが重くなる。それが何なのか、蒼にはうまく言語化できなかった。
アーケードの天井から、一枚の告知チラシがぶら下がっていた。「第十四回 銀南街秋まつり」。日付を見ると、五年前のものだった。誰も外すことを思いつかなかったのか、それとも外す必要すら感じなくなったのか。
蒼は足を止めて、そのチラシをしばらく眺めた。
山口大学工学部建築学科の四年生。専門は都市計画。卒業論文のテーマとして「地方都市中心市街地の空洞化と再生可能性」を選んだのは、指導教員の勧めでも流行のテーマだからでもなかった。ただ、幼いころから見続けてきたこの街の変化を、何か言葉にしておきたいという、それだけの理由だった。
言葉にすれば、距離を置ける気がした。
データにすれば、感情を切り離せる気がした。
そのはずだったのに。
商店街の端まで歩いたとき、蒼は一軒のシャッターの前で足を止めた。
特別に気になったわけではない。ただ、他のシャッターと少し違う気がした。
錆が浮いている。縦に一本、細い亀裂が入っている。グレーに塗り直された表面が、雨と風で少しずつ剥がれかけている。そしてその剥がれの下に、何かが透けて見えた。
古い文字。
元の塗装の下に残る、かつての屋号。塗り重ねられた灰色の向こうに、ぼんやりとした輪郭が浮かんでいる。蒼は目を細めて見たが、何と書いてあるのかは読めなかった。一文字目は「坂」か「板」のような形。二文字目は「本」か「木」のような。それ以上は判読できない。
蒼はスマートフォンを取り出して写真を撮った。なんとなく、そうしたかった。論文の資料になるかもしれない。そう思ったが、実はそれほど理由は明確ではなかった。ただ、消えかけているものを消えないうちに残しておきたい、という感覚があった。
撮った写真を一度だけ確認し、アルバムフォルダの「商店街調査」に入れた。スマートフォンをポケットに仕舞い、ノートに「⑳ 空き店舗・シャッター閉鎖・旧屋号痕跡あり」と書き記した。
そして歩き続けた。
調査を終えて大学に戻ったのは夜の八時過ぎだった。
工学部の研究棟は静かだった。廊下の蛍光灯が一本、チカチカと点滅している。蒼の指導教員、都市計画研究室の橘教授は、まだ自室の電気をつけていた。
「戻りました」とドアをノックすると、「入れ」と低い声が返ってきた。
橘教授は五十代半ば、白髪交じりの短い髪に丸眼鏡。机の上に論文の束と赤ペンを並べ、コーヒーを飲んでいた。蒼がノートを開いて調査結果を報告すると、教授はコーヒーカップを置いて腕を組んだ。
「開口率六十一・六か」
「はい。五年前の調査データと比べると、八・二ポイント下がっています」
「下がった、というのは」
「開いている店が減った、ということです」
教授はしばらく黙っていた。それから「それで」と言った。
「それで、お前は論文に何を書くつもりだ」
「空洞化のメカニズムと、国内外の再生事例の比較分析を……」
「そうじゃなくて」
蒼は言葉に詰まった。教授の眼鏡の奥の目が、静かにこちらを見ていた。
「データを集めて分析するのは、それはもちろん論文の仕事だ。でも俺が聞いているのは、お前は何をしたいのか、ということだ。今日あそこを歩いて、何を感じた」
蒼はノートの余白に視線を落とした。
「……重かったです」
「重かった」
「胸が。理由がよくわからないんですけど。自分はあそこで生まれ育って、ずっとあの商店街を見てきたのに、何もしてこなかったんだなって」
教授は「ふむ」と言って、コーヒーをもう一口飲んだ。
「論文だけじゃなく、実際にプロジェクトをやってみたい、と思ったりするか」
蒼は顔を上げた。
「……思います」
「単位には入れられないがな」
「わかってます」
「失敗しても、俺には責任が取れないぞ」
「わかってます」
教授は少し笑った。机の上の論文束をトントンと揃えて、「好きにしろ」と言った。「ただし論文は絶対に出せ。プロジェクトを優先して卒業できませんでしたでは困る」。
「はい」
蒼は研究室を出て、廊下の窓から外を見た。夜の宇部市街地。街灯がぽつぽつと並んでいる。あの商店街も、今頃は静まり返っているだろう。シャッターの前を、人が通ることもなく。
自分にできることなんて、たかが知れている。
それでも、何かしなければという感覚が、胸の奥でじわじわと燃えていた。
その夜、アパートに帰った蒼はシャワーを浴びてから、スマートフォンを手に取った。
SNSのアプリを開く。普段はほとんど投稿しない。建築や都市デザインの情報を眺めるために使っているだけのアカウントだった。フォロワーは百三十人ほど。内訳は大学の同期と後輩、高校時代の友人、それと何かのきっかけでフォローされた見知らぬ人々。
蒼は投稿の入力欄をタップして、しばらく画面を見つめた。
何を書けばいい。
何から始めればいい。
迷った末に、こう打ち込んだ。
「宇部のシャッター通りを何とかしたいと思っている人、集まれ。大学で調査をしているが、論文を書くだけでは意味がないと気づいた。一緒にプロジェクトをやりたい。学部学科は問わない。本気の人だけ」
投稿する前に三回読み返した。「本気の人だけ」という最後の一文が、少し気恥ずかしかった。でも消さなかった。消したら嘘になる気がした。
投稿ボタンを押した。
翌朝、目が覚めてすぐにスマートフォンを確認した。
いいねが七件。コメントは一件。「頑張れ!」という絵文字だけのもの。リプライはゼロだった。
そうか、と思った。落ち込んでいるわけではなかったが、「そうか」以外の感想が出てこなかった。朝食を食べながら、昨夜の投稿が少し恥ずかしくなってきた。「本気の人だけ」。ひとりで何を言っているんだ。
大学に向かう途中、小野田線の車内でもう一度スマートフォンを開いた。
通知が一件増えていた。
DMの受信。
アカウント名は「むらた_さき_高専建築」。プロフィール写真は手書きのスケッチ。フォロワー数は蒼より少ない。投稿は建物のスケッチと宇部周辺の写真ばかり。
メッセージを開いた。
「こんにちは。宇部高専専攻科の村田咲といいます。建築デザインを勉強しています。投稿を見て連絡しました。私もずっと同じことを考えていました。シャッター通りに建物として関わりたくて、何度もスケッチを描いてきたんですが、一人ではどうにもできなくて。もしよかったら話を聞かせてください」
電車が小さなカーブを曲がり、宇部の街が車窓の向こうに広がった。
高専生か、と蒼は思った。建築デザインを学んでいる。自分は都市工学、向こうは空間デザイン。見ている角度が違う。それは邪魔になるかもしれないし、補い合えるかもしれない。
蒼は返信を打った。「連絡ありがとうございます。来週、商店街で会いませんか」。
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
数秒後に返信が来た。「行きます。楽しみにしてます」。そのあとに、家の絵文字と炎の絵文字が並んでいた。
蒼は思わず口の端が上がった。
「楽しみにしてます」か。
俺も、少しだけ、楽しみにしている。
三日後の夕方、蒼はもう一度商店街を歩いた。
今度は調査のためではなく、ただ歩くために。数字を数えず、ノートも持たず、ただ歩いた。
夕方の商店街は、昼間より少しだけ人が多い。仕事帰りの人が一人、二人。弁当屋の前に小さな行列。居酒屋の看板に明かりが入り始める時間。それでも全体に漂う静けさは変わらない。声よりも、足音よりも、シャッターの錆の音の方が大きい気がする。
蒼はあのシャッターの前に、また立ち止まった。
昨日撮った写真を出して、現物と見比べた。写真の中でも、塗りつぶされた文字の輪郭はぼんやりとしている。画像処理をすれば、少し鮮明になるかもしれない。でも今はまだ、そこまでする必要を感じなかった。
このシャッターは何年前から閉まっているのだろう。オーナーはどこにいるのだろう。店が閉まった日、最後にシャッターを下ろした人は、どんな気持ちでその金属の取っ手を引いたのだろう。
蒼が思い出したのは、子供のころに母親に連れられて来たこの商店街のことだった。まだ賑やかだったころ。魚屋のおじさんが大きな声で「今日のサバは最高だよ!」と叫んでいた。八百屋の前に野菜が山積みになっていた。コロッケの揚がる匂いが漂っていた。
あのころも、今も、同じ場所に立っている。
ただ、音が違う。匂いが違う。人の数が違う。
蒼は胸ポケットにスマートフォンをしまい、シャッターに背を向けた。
来週、村田咲に会う。そこから何かが始まるかもしれないし、何も始まらないかもしれない。でも少なくとも、自分はもう「ただ数える人」ではいられなくなったと思った。
商店街の出口に向かって歩き始めると、風が後ろから吹いてきた。
アーケードの天井に引っかかっていた五年前のチラシが、ふわりと舞い上がった。
蒼は振り返らなかった。
でも、その風の音を、ずっと覚えているような気がした。
つづく
十月の夕暮れは、宇部の街に斜めに差し込む。
西の空がオレンジから深い紅へと変わっていく時間、藤原蒼は商店街の入り口に立って、ノートを開いた。A4判のキャンパスノート。左のページには手書きの地図、右のページには数字の列。シャッターが下りている店舗を黒く塗りつぶしていくと、地図はじわじわと暗くなっていった。
銀南街。宇部市の中心部を東西に貫くアーケード商店街。最盛期には百軒を超える店が軒を連ね、週末になると人が肩をぶつけ合いながら歩いたという。今は、その面影がどこにあるのか探す方が難しい。
蒼は歩きながら数えた。開いている店。閉まっている店。開いているふりをしている店——シャッターは下りていないが、ガラス越しに見える店内には明かりひとつない。
四十三。
百十二店舗中、シャッターが下りているか実質的な空き店舗になっているのが四十三軒。開口率にして六十一・六パーセント。自分が卒業論文で使おうとしているデータが、今、目の前の現実として広がっていた。数字で見ると冷静でいられる。だが実際に歩いてみると、なぜか胸のあたりが重くなる。それが何なのか、蒼にはうまく言語化できなかった。
アーケードの天井から、一枚の告知チラシがぶら下がっていた。「第十四回 銀南街秋まつり」。日付を見ると、五年前のものだった。誰も外すことを思いつかなかったのか、それとも外す必要すら感じなくなったのか。
蒼は足を止めて、そのチラシをしばらく眺めた。
山口大学工学部建築学科の四年生。専門は都市計画。卒業論文のテーマとして「地方都市中心市街地の空洞化と再生可能性」を選んだのは、指導教員の勧めでも流行のテーマだからでもなかった。ただ、幼いころから見続けてきたこの街の変化を、何か言葉にしておきたいという、それだけの理由だった。
言葉にすれば、距離を置ける気がした。
データにすれば、感情を切り離せる気がした。
そのはずだったのに。
商店街の端まで歩いたとき、蒼は一軒のシャッターの前で足を止めた。
特別に気になったわけではない。ただ、他のシャッターと少し違う気がした。
錆が浮いている。縦に一本、細い亀裂が入っている。グレーに塗り直された表面が、雨と風で少しずつ剥がれかけている。そしてその剥がれの下に、何かが透けて見えた。
古い文字。
元の塗装の下に残る、かつての屋号。塗り重ねられた灰色の向こうに、ぼんやりとした輪郭が浮かんでいる。蒼は目を細めて見たが、何と書いてあるのかは読めなかった。一文字目は「坂」か「板」のような形。二文字目は「本」か「木」のような。それ以上は判読できない。
蒼はスマートフォンを取り出して写真を撮った。なんとなく、そうしたかった。論文の資料になるかもしれない。そう思ったが、実はそれほど理由は明確ではなかった。ただ、消えかけているものを消えないうちに残しておきたい、という感覚があった。
撮った写真を一度だけ確認し、アルバムフォルダの「商店街調査」に入れた。スマートフォンをポケットに仕舞い、ノートに「⑳ 空き店舗・シャッター閉鎖・旧屋号痕跡あり」と書き記した。
そして歩き続けた。
調査を終えて大学に戻ったのは夜の八時過ぎだった。
工学部の研究棟は静かだった。廊下の蛍光灯が一本、チカチカと点滅している。蒼の指導教員、都市計画研究室の橘教授は、まだ自室の電気をつけていた。
「戻りました」とドアをノックすると、「入れ」と低い声が返ってきた。
橘教授は五十代半ば、白髪交じりの短い髪に丸眼鏡。机の上に論文の束と赤ペンを並べ、コーヒーを飲んでいた。蒼がノートを開いて調査結果を報告すると、教授はコーヒーカップを置いて腕を組んだ。
「開口率六十一・六か」
「はい。五年前の調査データと比べると、八・二ポイント下がっています」
「下がった、というのは」
「開いている店が減った、ということです」
教授はしばらく黙っていた。それから「それで」と言った。
「それで、お前は論文に何を書くつもりだ」
「空洞化のメカニズムと、国内外の再生事例の比較分析を……」
「そうじゃなくて」
蒼は言葉に詰まった。教授の眼鏡の奥の目が、静かにこちらを見ていた。
「データを集めて分析するのは、それはもちろん論文の仕事だ。でも俺が聞いているのは、お前は何をしたいのか、ということだ。今日あそこを歩いて、何を感じた」
蒼はノートの余白に視線を落とした。
「……重かったです」
「重かった」
「胸が。理由がよくわからないんですけど。自分はあそこで生まれ育って、ずっとあの商店街を見てきたのに、何もしてこなかったんだなって」
教授は「ふむ」と言って、コーヒーをもう一口飲んだ。
「論文だけじゃなく、実際にプロジェクトをやってみたい、と思ったりするか」
蒼は顔を上げた。
「……思います」
「単位には入れられないがな」
「わかってます」
「失敗しても、俺には責任が取れないぞ」
「わかってます」
教授は少し笑った。机の上の論文束をトントンと揃えて、「好きにしろ」と言った。「ただし論文は絶対に出せ。プロジェクトを優先して卒業できませんでしたでは困る」。
「はい」
蒼は研究室を出て、廊下の窓から外を見た。夜の宇部市街地。街灯がぽつぽつと並んでいる。あの商店街も、今頃は静まり返っているだろう。シャッターの前を、人が通ることもなく。
自分にできることなんて、たかが知れている。
それでも、何かしなければという感覚が、胸の奥でじわじわと燃えていた。
その夜、アパートに帰った蒼はシャワーを浴びてから、スマートフォンを手に取った。
SNSのアプリを開く。普段はほとんど投稿しない。建築や都市デザインの情報を眺めるために使っているだけのアカウントだった。フォロワーは百三十人ほど。内訳は大学の同期と後輩、高校時代の友人、それと何かのきっかけでフォローされた見知らぬ人々。
蒼は投稿の入力欄をタップして、しばらく画面を見つめた。
何を書けばいい。
何から始めればいい。
迷った末に、こう打ち込んだ。
「宇部のシャッター通りを何とかしたいと思っている人、集まれ。大学で調査をしているが、論文を書くだけでは意味がないと気づいた。一緒にプロジェクトをやりたい。学部学科は問わない。本気の人だけ」
投稿する前に三回読み返した。「本気の人だけ」という最後の一文が、少し気恥ずかしかった。でも消さなかった。消したら嘘になる気がした。
投稿ボタンを押した。
翌朝、目が覚めてすぐにスマートフォンを確認した。
いいねが七件。コメントは一件。「頑張れ!」という絵文字だけのもの。リプライはゼロだった。
そうか、と思った。落ち込んでいるわけではなかったが、「そうか」以外の感想が出てこなかった。朝食を食べながら、昨夜の投稿が少し恥ずかしくなってきた。「本気の人だけ」。ひとりで何を言っているんだ。
大学に向かう途中、小野田線の車内でもう一度スマートフォンを開いた。
通知が一件増えていた。
DMの受信。
アカウント名は「むらた_さき_高専建築」。プロフィール写真は手書きのスケッチ。フォロワー数は蒼より少ない。投稿は建物のスケッチと宇部周辺の写真ばかり。
メッセージを開いた。
「こんにちは。宇部高専専攻科の村田咲といいます。建築デザインを勉強しています。投稿を見て連絡しました。私もずっと同じことを考えていました。シャッター通りに建物として関わりたくて、何度もスケッチを描いてきたんですが、一人ではどうにもできなくて。もしよかったら話を聞かせてください」
電車が小さなカーブを曲がり、宇部の街が車窓の向こうに広がった。
高専生か、と蒼は思った。建築デザインを学んでいる。自分は都市工学、向こうは空間デザイン。見ている角度が違う。それは邪魔になるかもしれないし、補い合えるかもしれない。
蒼は返信を打った。「連絡ありがとうございます。来週、商店街で会いませんか」。
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついた。
数秒後に返信が来た。「行きます。楽しみにしてます」。そのあとに、家の絵文字と炎の絵文字が並んでいた。
蒼は思わず口の端が上がった。
「楽しみにしてます」か。
俺も、少しだけ、楽しみにしている。
三日後の夕方、蒼はもう一度商店街を歩いた。
今度は調査のためではなく、ただ歩くために。数字を数えず、ノートも持たず、ただ歩いた。
夕方の商店街は、昼間より少しだけ人が多い。仕事帰りの人が一人、二人。弁当屋の前に小さな行列。居酒屋の看板に明かりが入り始める時間。それでも全体に漂う静けさは変わらない。声よりも、足音よりも、シャッターの錆の音の方が大きい気がする。
蒼はあのシャッターの前に、また立ち止まった。
昨日撮った写真を出して、現物と見比べた。写真の中でも、塗りつぶされた文字の輪郭はぼんやりとしている。画像処理をすれば、少し鮮明になるかもしれない。でも今はまだ、そこまでする必要を感じなかった。
このシャッターは何年前から閉まっているのだろう。オーナーはどこにいるのだろう。店が閉まった日、最後にシャッターを下ろした人は、どんな気持ちでその金属の取っ手を引いたのだろう。
蒼が思い出したのは、子供のころに母親に連れられて来たこの商店街のことだった。まだ賑やかだったころ。魚屋のおじさんが大きな声で「今日のサバは最高だよ!」と叫んでいた。八百屋の前に野菜が山積みになっていた。コロッケの揚がる匂いが漂っていた。
あのころも、今も、同じ場所に立っている。
ただ、音が違う。匂いが違う。人の数が違う。
蒼は胸ポケットにスマートフォンをしまい、シャッターに背を向けた。
来週、村田咲に会う。そこから何かが始まるかもしれないし、何も始まらないかもしれない。でも少なくとも、自分はもう「ただ数える人」ではいられなくなったと思った。
商店街の出口に向かって歩き始めると、風が後ろから吹いてきた。
アーケードの天井に引っかかっていた五年前のチラシが、ふわりと舞い上がった。
蒼は振り返らなかった。
でも、その風の音を、ずっと覚えているような気がした。
つづく
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
うちの幼馴染がデレすぎてて俺の理性はもう限界。でも毎日が最高に甘いからもうどうでもいいや
静内燕
恋愛
相沢悠太の日常は、規格外の美少女である幼馴染、白石葵によって完全に支配されている。
朝のモーニングコール(ベッドへのダイブ付き)から始まり、登校中の腕組み、そして「あーん」が義務付けられた手作り弁当。誰もが羨むラブラブっぷりだが、悠太はこれを「家族愛」だと頑なに誤解(無視)している。
「ゆーたは私の運命の相手なんだもん!」と、葵のデレデレは今日も過剰の一途。周囲の冷やかしや、葵を狙う男子生徒のプレッシャーが高まる中、悠太の**「幼馴染フィルター」**はついに限界を迎える。
この溺愛っぷり、いつまで「家族」で通せるのか?
甘すぎる日常が、悠太の鈍感な理性を溶かし尽くす――最初からクライマックスの、超高濃度イチャイチャ・ラブコメ、開幕!
僕がここでカフェを始めた理由
バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川の細い路地に、カウンター八席だけの小さなカフェ「HUIT(ユイット)」がある。オーナーの桐島奏は自分のことを語らないが、その静かな佇まいと一杯のコーヒーが、街の人々を引き寄せてきた。
なぜ北向きなのか。なぜ八席なのか。なぜこの場所を、十年以上かけて探し続けたのか。
ある日、一人の女性がやってくる。彼女の名は宮本さくら。亡き父の手帳を胸に、ある人を探して横川へ来た。
二人の出会いが、二十年越しの縁をほどき始める。ほっこりと、静かに、確かに。
横川ガード下探偵団 結成篇 ~あの夏、僕らは名前をつけた~
バーガヤマスター
ライト文芸
広島・横川商店街のJR高架下に、五人の子供たちが集まった。正義感あふれるケンジ、グミ愛あふれるユイ、論理派のショウタ、足の速いテツ、情報通のミク。ある夏、古本屋から消えた一冊の本をめぐり、彼らは「横川ガード下探偵団」を結成する。人情と笑いと、少しの涙が交差する、昭和の香り漂う商店街のハートフルミステリー。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗@オートスキル第1巻発売中
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
至れり尽くせり!僕専用メイドの全員が溺愛してくる件
こうたろ
青春
普通の大学生・佐藤健太は目覚めると、自宅が豪華な洋館に変わり10人の美人メイドたちに「お目覚めですか、ご主人様?」と一斉に迎えられる。いつの間にか彼らの“専属主人”になっていた健太は戸惑う間もなく、朝から晩までメイドたちの超至れり尽くせりな奉仕を受け始める。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる