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第三章「商工会議所という壁」
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第三章「商工会議所という壁」
宇部商工会議所のビルは、商店街から徒歩三分のところにある。
四階建ての古いビル。外壁はベージュのタイル張りで、一部にひびが入っている。エントランスに入ると、正面に「創立七十五周年記念」と書かれた額縁が飾られている。その下に、歴代会頭の顔写真が並んでいた。全員が中年以上の男性だった。
松下凛は毎週月曜の朝、このビルの二階にある事務所に来る。青年部の会議があるためだ。会議と言っても、実際には連絡事項の確認と、イベントの準備作業が中心だった。「青年部」という名前だが、最年少が凛の二十五歳で、最年長は四十二歳だった。
集会の翌週の月曜日、凛は会議の後に副会頭・古賀文雄の部屋をノックした。
「失礼します。少しよろしいですか」
古賀は六十七歳。がっしりした体格に白髪。宇部で建設業を営む会社の会長職にあり、商工会議所では二十年以上役員を務めている。地元では顔が広く、一言声をかければ大抵のことは動くと言われる人物だった。
「学生たちのプロジェクトに、青年部として関わりたいんです」と凛は切り出した。「シャッター通りを何とかしようという活動で、大学生と高専生が動き始めています。商工会議所として何か後押しできないかと思って」
古賀は机の上で指を組んだ。
「ほう。どんな学生たちかね」
「山口大学の工学部と医学部、それと宇部高専。七、八人のグループです。まだ始まったばかりですが、熱意はあります」
「いいねえ。若い子の熱意は大事だよ」
古賀はにこやかに言った。凛はその「いいねえ」に、かすかな違和感を覚えた。本当にいいと思っているのかどうか、顔から読み取れない。二十五年かけて作り上げたような笑顔だと思った。
「具体的にどういう形で関わるかだな」と古賀は続けた。「補助金の話なら、うちの担当に相談させてみよう。ただ実績のない団体への支援は、審査が通りにくい。書類も相当な量になる」
「どのくらいかかりますか」
「採択まで早くて八ヶ月、下手すると一年以上だな」
凛は内心で舌打ちした。わかってはいた。商工会議所の補助金というのは、常にそういうものだった。申請する前から結果が見えているような手続きを、膨大な書類とともに踏ませる。それが「支援」の実態だった。
「それと」と古賀が付け加えた。「商工会議所の看板を使う以上は、手順というものがある。活動内容の審査、役員への報告、定期的な進捗確認。ご理解いただかないと困る」
「もちろんです」
凛は頷きながら、この会話があと十分続けば完全に何も動かないまま終わると感じていた。
部屋を出た凛は、廊下の窓から外を見た。
商工会議所のビルの窓からは、商店街のアーケードの屋根が見える。あの屋根の下に、今も動かないシャッターが並んでいる。
凛が商工会議所の青年部に入ったのは、三年前のことだ。父の文具店「マツシタ文具」の跡を継ぐつもりで、地元の人脈を作るためだった。父は「商売の基本は人づきあいだ」と言い、青年部を勧めた。
入ってみると、確かに人脈はできた。しかし同時に、組織の論理というものの重さも知った。何かをしようとするたびに「前例がない」「リスクが高い」「誰が責任を取るのか」という言葉が出てくる。結果として、動けないまま時間が過ぎる。
それでも凛は「内側から変えよう」と思っていた。組織の中にいながら、少しずつ変えていく。それが現実的だと信じていた。
でも最近、その信念が少しずつ揺らいでいる。
父の文具店は、この五年間で売上が三割落ちた。近所のコンビニが文具コーナーを充実させ、百円ショップが出店し、インターネットで何でも買える時代になった。父は「まあ何とかなる」と言い続けているが、帳簿を見た凛には、「何とかなる」の根拠が見えない。
「内側から変える」なんて言い続けて、気づいたら一緒に沈んでいくだけじゃないか。
そう思う夜がある。
その夜のミーティングで、凛は正直に言った。
「補助金は望み薄です。採択まで一年近くかかる可能性があるし、実績のない団体には厳しい」
蒼が「やっぱり」という顔をした。咲は特に驚いた様子がなかった。拓海は「他の資金調達手段を考えましょう」と静かに言った。
「でも」と凛は続けた。「商工会議所の人脈は使えます。空き店舗のオーナーへの交渉、役所への許可申請のノウハウ、地元業者との繋ぎ。そういうことなら俺が動ける」
「それで十分だ」と蒼が言った。「まず物件を探すことから始めよう。借りられる空き店舗があれば、そこをベースにできる」
凛は頷いた。大して役に立てるかわからない、と思っていた。でも「そういうことなら俺が動ける」と言った瞬間、自分の中に小さな火が灯った気がした。
会議が終わり、全員が解散した後、凛はもう一度喫茶ニシキに寄った。
カウンターに座ってコーヒーを頼むと、マスターが「今夜も会議だったか」と言った。凛がよく来ることを知っている。「まあそんなとこです」と答えると、マスターは静かに珈琲を淹れた。
「若いのにお疲れさんだな」
「そんなでもないですよ」
「商工会議所も大変だろう。ここ何年も、ろくに動いとらんし」
凛は苦笑した。「ご存知ですか」
「長年この場所で商売しとると、いろいろ見えてくるよ」とマスターは言った。それから少し間を置いて「古賀さん、今でも副会頭か」と聞いた。
「はい」
マスターは何も言わず、コーヒーカップを凛の前に置いた。その顔に、何か言いたいことがあるような、でも言わないと決めているような表情が浮かんでいた。
凛はコーヒーを一口飲んだ。深い苦みが、喉の奥に沈んでいった。
ふと思い出したのは、会議室を出る直前のことだった。古賀副会頭が、独り言のようにつぶやいたのだ。凛が立ち上がって荷物を手にした瞬間に。
「……坂本食堂のことを思い出すな」
凛が「え?」と聞き返すと、古賀は「何でもない」と顔を背けた。
坂本食堂。聞いたことがある名前だったが、どこで聞いたかは思い出せなかった。
凛はカップを置いて、その言葉の意味を考えようとした。しかし疲れていたせいか、うまく考えが続かなかった。
また今度、と思った。
でもそういう「また今度」が積み重なって、街はこうなったのかもしれない、とも思った。
つづく
宇部商工会議所のビルは、商店街から徒歩三分のところにある。
四階建ての古いビル。外壁はベージュのタイル張りで、一部にひびが入っている。エントランスに入ると、正面に「創立七十五周年記念」と書かれた額縁が飾られている。その下に、歴代会頭の顔写真が並んでいた。全員が中年以上の男性だった。
松下凛は毎週月曜の朝、このビルの二階にある事務所に来る。青年部の会議があるためだ。会議と言っても、実際には連絡事項の確認と、イベントの準備作業が中心だった。「青年部」という名前だが、最年少が凛の二十五歳で、最年長は四十二歳だった。
集会の翌週の月曜日、凛は会議の後に副会頭・古賀文雄の部屋をノックした。
「失礼します。少しよろしいですか」
古賀は六十七歳。がっしりした体格に白髪。宇部で建設業を営む会社の会長職にあり、商工会議所では二十年以上役員を務めている。地元では顔が広く、一言声をかければ大抵のことは動くと言われる人物だった。
「学生たちのプロジェクトに、青年部として関わりたいんです」と凛は切り出した。「シャッター通りを何とかしようという活動で、大学生と高専生が動き始めています。商工会議所として何か後押しできないかと思って」
古賀は机の上で指を組んだ。
「ほう。どんな学生たちかね」
「山口大学の工学部と医学部、それと宇部高専。七、八人のグループです。まだ始まったばかりですが、熱意はあります」
「いいねえ。若い子の熱意は大事だよ」
古賀はにこやかに言った。凛はその「いいねえ」に、かすかな違和感を覚えた。本当にいいと思っているのかどうか、顔から読み取れない。二十五年かけて作り上げたような笑顔だと思った。
「具体的にどういう形で関わるかだな」と古賀は続けた。「補助金の話なら、うちの担当に相談させてみよう。ただ実績のない団体への支援は、審査が通りにくい。書類も相当な量になる」
「どのくらいかかりますか」
「採択まで早くて八ヶ月、下手すると一年以上だな」
凛は内心で舌打ちした。わかってはいた。商工会議所の補助金というのは、常にそういうものだった。申請する前から結果が見えているような手続きを、膨大な書類とともに踏ませる。それが「支援」の実態だった。
「それと」と古賀が付け加えた。「商工会議所の看板を使う以上は、手順というものがある。活動内容の審査、役員への報告、定期的な進捗確認。ご理解いただかないと困る」
「もちろんです」
凛は頷きながら、この会話があと十分続けば完全に何も動かないまま終わると感じていた。
部屋を出た凛は、廊下の窓から外を見た。
商工会議所のビルの窓からは、商店街のアーケードの屋根が見える。あの屋根の下に、今も動かないシャッターが並んでいる。
凛が商工会議所の青年部に入ったのは、三年前のことだ。父の文具店「マツシタ文具」の跡を継ぐつもりで、地元の人脈を作るためだった。父は「商売の基本は人づきあいだ」と言い、青年部を勧めた。
入ってみると、確かに人脈はできた。しかし同時に、組織の論理というものの重さも知った。何かをしようとするたびに「前例がない」「リスクが高い」「誰が責任を取るのか」という言葉が出てくる。結果として、動けないまま時間が過ぎる。
それでも凛は「内側から変えよう」と思っていた。組織の中にいながら、少しずつ変えていく。それが現実的だと信じていた。
でも最近、その信念が少しずつ揺らいでいる。
父の文具店は、この五年間で売上が三割落ちた。近所のコンビニが文具コーナーを充実させ、百円ショップが出店し、インターネットで何でも買える時代になった。父は「まあ何とかなる」と言い続けているが、帳簿を見た凛には、「何とかなる」の根拠が見えない。
「内側から変える」なんて言い続けて、気づいたら一緒に沈んでいくだけじゃないか。
そう思う夜がある。
その夜のミーティングで、凛は正直に言った。
「補助金は望み薄です。採択まで一年近くかかる可能性があるし、実績のない団体には厳しい」
蒼が「やっぱり」という顔をした。咲は特に驚いた様子がなかった。拓海は「他の資金調達手段を考えましょう」と静かに言った。
「でも」と凛は続けた。「商工会議所の人脈は使えます。空き店舗のオーナーへの交渉、役所への許可申請のノウハウ、地元業者との繋ぎ。そういうことなら俺が動ける」
「それで十分だ」と蒼が言った。「まず物件を探すことから始めよう。借りられる空き店舗があれば、そこをベースにできる」
凛は頷いた。大して役に立てるかわからない、と思っていた。でも「そういうことなら俺が動ける」と言った瞬間、自分の中に小さな火が灯った気がした。
会議が終わり、全員が解散した後、凛はもう一度喫茶ニシキに寄った。
カウンターに座ってコーヒーを頼むと、マスターが「今夜も会議だったか」と言った。凛がよく来ることを知っている。「まあそんなとこです」と答えると、マスターは静かに珈琲を淹れた。
「若いのにお疲れさんだな」
「そんなでもないですよ」
「商工会議所も大変だろう。ここ何年も、ろくに動いとらんし」
凛は苦笑した。「ご存知ですか」
「長年この場所で商売しとると、いろいろ見えてくるよ」とマスターは言った。それから少し間を置いて「古賀さん、今でも副会頭か」と聞いた。
「はい」
マスターは何も言わず、コーヒーカップを凛の前に置いた。その顔に、何か言いたいことがあるような、でも言わないと決めているような表情が浮かんでいた。
凛はコーヒーを一口飲んだ。深い苦みが、喉の奥に沈んでいった。
ふと思い出したのは、会議室を出る直前のことだった。古賀副会頭が、独り言のようにつぶやいたのだ。凛が立ち上がって荷物を手にした瞬間に。
「……坂本食堂のことを思い出すな」
凛が「え?」と聞き返すと、古賀は「何でもない」と顔を背けた。
坂本食堂。聞いたことがある名前だったが、どこで聞いたかは思い出せなかった。
凛はカップを置いて、その言葉の意味を考えようとした。しかし疲れていたせいか、うまく考えが続かなかった。
また今度、と思った。
でもそういう「また今度」が積み重なって、街はこうなったのかもしれない、とも思った。
つづく
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