『風よ、商店街を吹き抜けろ』 ――いつかきっと、誰かが答えてくれる――

バーガヤマスター

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第十三章「街が動く日」

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第十三章「街が動く日」

 一月の第三週の土曜日、「ウベ・マーケット」が開催された。
 準備は二週間前から始まっていた。商店街の空き店舗を五軒、一日だけの「期間限定ショップ」として開放する。地元農家の直売、宇部高専生のプロダクト展示、学生のアートショー、地元飲食のポップアップ、そして起業家グループによる「はじめての一歩」相談ブース。UBELABはその拠点として、朝から夜まで開け続けた。
 古賀副会頭が動かした予算の一部が、会場設営費用に充てられた。商工会議所が公式に後援することになり、市の広報誌にも掲載された。健太のSNS発信と合わせて、告知は想定以上に広がった。
 当日の朝、蒼は商店街に七時に来た。
 まだ店が開く前の時間。設営スタッフが荷物を運び込み始めていた。冬の朝の空気が冷たく、息が白くなった。
 蒼は商店街の端まで歩いた。
 元「坂本食堂」の前。
 坂本はまだそこにいた。今日も早く来ていた。
 蒼はゆっくりと近づき、隣に立った。
 しばらく、二人でシャッターを見ていた。
 「……ここが、お父さんのお店だったんですね」
 坂本が振り返った。驚いた顔をした。しかし怒った顔ではなかった。
 「……いつから分かっていましたか」
 「昨日、写真の処理をしたら文字が浮かんできました。坂本食堂、って」
 坂本は少し目を伏せた。
 「……そうですか」
 二人の間に、しばらく沈黙が流れた。冬の朝の商店街に、遠くから設営の声が聞こえてきた。
 「話してもらえますか」と蒼は言った。「お父さんのこと」
 坂本が話し始めた。
 静かな声だった。感情を押し込めているのではなく、長い年月をかけて整理してきた言葉のように、落ち着いていた。
 父・義雄のこと。坂本食堂のこと。毎朝六時の仕込みの音。出汁の匂い。それが商店街の朝の合図だったこと。
 郊外にモールができてから、少しずつ客が減ったこと。それでも義雄は続けたこと。借金が増え、笑顔が少なくなっていったこと。
 「俺が二十五歳の時の秋に、親父が逝きました。五十五歳でした」
 蒼は黙って聞いた。
 「葬儀が終わって、翌朝、宇部を出ました。誰にも行き先を告げずに。この街が嫌いになったんじゃない。この街を見ていられなかった。親父がいなくなった後の商店街を、歩く自信がなかった」
 「二十七年間、帰らなかった」
 「一度も。でも……五年前に戻りました。二十七回忌でした。節目の年に、やっと足が動いた」
 「その時に、日記を見つけた」
 坂本が蒼を見た。「知ってるんですね」
 「清子さんから聞きました。それと……」蒼は折り畳んだ新聞紙をポケットから取り出した。「これが、UBELABの壁の中から出てきたんです。二十年以上前のものです」
 坂本は新聞紙を受け取り、訃報欄を見た。
 少し目を閉じた。
 「……親父がここの壁に入っていたのか」
 「そういうことになりますね」
 坂本はしばらくその紙を持ったままでいた。それから静かに蒼に返した。
 「日記を見せてもらえますか」と蒼は言った。
 坂本は内ポケットに手を入れた。
 古い革の手帳が出てきた。
 表紙を開くと、最初のページに親父の字で名前が書いてあった。「坂本義雄」。父が生前、何年もかけて書き続けた日記帳だった。残された荷物の中から見つけた時、坂本は一晩かけて読んだ。
 「最後のページを見てください」
 蒼は手帳を受け取り、最後のページを開いた。
 インクが少し滲んでいた。最後に書かれた日付は二十数年前。最後の言葉は——
 「この街は、まだ死んでいない。誰かが火をつければ、必ず燃える。俺にはもうできないが、いつかきっと——」
 そこで途切れていた。
 蒼は顔を上げた。
 どこかで聞いた言葉だ、とずっと思っていた。マスターが呟いたのか。清子さんが言ったのか。それとも夢の中で誰かが言ったのか。うまく思い出せないまま、ずっと頭の片隅にあった。
 この手帳の言葉だったのか。
 「親父がここで諦めた言葉の続きを」と坂本は言った。「誰かが書いてくれると思って、ずっと待っていたんだと思います。俺じゃなくていい。俺には、直接はできなかった。でも火をつける人間を、傍で見ていることはできると思って」
 「それで、来たんですか」
 「……蒼くんのあの投稿を見た時、親父の日記の言葉が重なったんです。親父の日記にこう書いてあった。学生がたくさんいるのに、商店街には若者の声がない——なぜだろう、と。その疑問に親父は答えられなかった。でも蒼くんは、答えようとしていた。だから来た。」
 その時、清子がUBELABから出てきた。
 手にしているのは、古いコーヒーメーカーだった。今日のマーケットで使うために、朝から運んできていたのだ。
 清子は蒼と坂本が並んでいるのを見て、立ち止まった。
 坂本も清子を見た。
 二十七年の時間が、その一瞬に圧縮されていた。
 「……隆ちゃん」
 清子の声は、震えていなかった。穏やかだった。
 坂本は一歩進み「清子さん、ご無沙汰しました」と言った。声が少しかすれた。
 「来てくれてよかった」と清子は言った。「大将も喜んでると思うよ」
 清子がコーヒーメーカーを少し前に差し出した。「今日、これで一杯淹れてあげるから。来なさい」
 坂本はコーヒーメーカーを見た。
 二十七年以上前に父が使っていたもの。父が客に出し続けたコーヒーを淹れ続けてきたもの。
 「……はい」と坂本は言った。
 マーケットが始まった。
 商店街に人の流れが生まれた。久しぶりに。本当に久しぶりに。
 五軒の期間限定ショップからそれぞれの声がこぼれてきた。農家の夫婦が野菜の説明をし、高専生が自分のプロダクトを緊張しながら紹介し、地元の飲食店のポップアップからいい匂いが流れてきた。
 アーケードの天井の下に、人の声が戻ってきた。
 そして田中清子が、自分のシャッターを開けた。
 七年ぶりだった。
 婦人服店の跡地。棚はなく、什器は何もない。ただ広い空間があるだけ。清子はそこにプラスチックのテーブルを一つ置き、古いコーヒーメーカーをセットし、豆を量り始めた。
 「また店をやろうというわけじゃない。ただ……開けてみたかった」
 訪れた人にコーヒーを一杯ずつ配った。無料で。声をかけた人、通りすがりの人、懐かしそうな顔をした人。
 蒼はその光景を遠くから見ていた。
 データでも、数値目標でも、論文の事例でもない何かが、胸の奥から込み上げてきた。
 涙が出そうになって、上を向いた。アーケードの天井の向こうに、冬の白い空があった。
 会場に坂本の姿を探したのは夕方だった。
 人混みの中を見回したが、いなかった。
 スマートフォンに短いメッセージが届いていた。
 「今日は、よかった。——坂本」
 それだけだった。
 続けて、もう一通。
 「今日、誰が一番嬉しそうでしたか」
 蒼は迷わず返信した。
 「清子さんです」
 少し間があって、返信が来た。
 「では、次は誰を笑顔にしたいですか」
 蒼は商店街を見渡した。まだ人が歩いている。笑っている人がいる。話している人がいる。子供を連れた親がいる。老夫婦が並んで歩いている。
 次は誰を。
 蒼はスマートフォンをポケットに入れ、歩き始めた。

つづく
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