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12. 必ず貴女を、
しおりを挟むまずは、陣が必要だ。
ただいつも血を採る手伝いをしてくれるカトレアはおらず、注射針もない。まして罪人として囚われた私に刃物など与えられるはずがなかった。
這うように牢内をくまなく見て回り、ようやく見つけたのは、苔生した壁の一部の鋭く尖った石だけだった。
……背に腹は変えられない。
私はその先端に手首を当て───勢いよく横に引いた。
「っ……く、ぅ……っ」
今まで感じたことのない激しい痛み。それと引き換えに、思惑通り引き裂かれた手首からは鮮血が溢れている。
腕を抑えながら、血を指先に垂らすようにして床に膝をついた。
「×××××、×××──…」
古代イシュタリア語を口の中で唱えながら、少しずつ陣を描いていく。血が乾く度に石の先端に手首を宛てがった。
視界が霞む。立ち上がると意識が遠のく。
それでも、この儀式を絶やすわけにはいかない───
どれくらい時間が過ぎただろうか。
地下深くで推し量ることすら出来ないけれど、以前塔で描いた時の倍以上の時間をかけて、陣は完成した。
石床をなぞり続けた指先と何度も傷つけた手首は見るも無残な有様だが、見ないふりをしつつ陣の上に横たわる。
クレルシェンドの精霊よ。
我が力を捧げます。
どうか御身が満たされんことを、
そしてこの地が栄えんことを───
目を閉じ、いつものように生命力を陣を通して伝えようとして──ぶつりと、その流れが途絶えた。
「…………、やはり……っ」
瞼を持ち上げて歯噛みする。
陣は描いたが、それは今大地のどこにも私の血が触れていない状態だ。
仮にも大地の中なのだからもしかしたら……と期待したけれど、やはり人工物に遮られては意味がないらしい。
どうにか、どうにかしないと。
焦る気持ちとは裏腹に、視界は徐々に白んでいく。
血を流し過ぎてしまった──そう考えながら、私の意識は闇に落ちていった。
───それから。
目を覚ます度に、私は手首を石に滑らせた。
血を流し続けて、陣の下……石床のもっと下まで浸み込めば、あるいは"祈り"が届くかもしれないと思ったからだ。
ひとたび。
ふたたび。
みたび。
繰り返していくうちに、少しずつ頭がぼんやりしてくる。
どうしてこうなったのか。
なぜここにいるのか。
ああだけど、私はやりとげなければ。
そのための命。
この国で死ぬために、私はうまれてきたの───
◇ ◇ ◇
陛下は私に食事すら与えるつもりがないらしい。逃亡することは出来ないと踏んでいるのか、兵が見回りに来ることもない。
沙汰は追って下すと言っていたが、いったいいつになるのだろう。
もはや、意識を保っている時間の方が短くなっているというのに。
「…………、……」
血が、足りない。
もう立ち上がることすら叶わず、陣の上に身体を横たえることしかできなかった。
未だに"祈り"が届かない。
魂を捧げる儀式の準備すらままならない。
この状態で死ぬわけにはいかないのに……抗う力も残されていないなんて。
霞む思考の隅で、この国に来てからの光景が閃く。
若く聡明な王。婚儀の日、先王は懐かしむように私を見ていた。王城での穏やかな日々。私は病弱だという理由で王城を離れることはなかったけれど、王都を眺めたり各地の様子を伝え聞くのは好きだった。──やって来た少女。彼女になら陛下を託せると思った。冷たくなっていく使用人達の視線。それでも王妃として立ち続けなければならなくて。そうして出会った──真紅の瞳。
人生最期に友を得られるなんて、私はきっと恵まれている。これ以上は望むべくもない───だから、聴こえて来るこの声も、きっと幻聴なのだ。
「……リス、アイリス! しっかりするんだ!」
遠いところで声が響く。
呼ばれていることをようやく理解して、ぼんやりと視線を持ち上げた。
「…………」
「アイリス……っ、どうしてここまで……! それにこの血の匂い、貴女はどれだけ……」
霞む視界では彼の表情すら見て取れない。
ここが牢獄の中であることも忘れて、ただ彼がまた来てくれたのだ、と思った。
「……エド、ウィ…………」
「喋らないでくれアイリス、くそ、もう少し早ければ……!」
「もぅ、こない、で、て……」
「……それは聞けない話だ」
貴女に触れる無礼を許してくれ。
一言そう言った彼は、壊れ物を扱うように恭しく私の手を取った。血で汚れた、傷だらけの醜い手に、じわりと優しい熱が伝わる。
「これは、俺の我儘だ。だけどアイリス、どうかもう一度、問わせてくれ」
祈るように私の手を握り締めて、彼は言う。
「貴女を、攫わせてくれないか───」
ふいに。
幼い頃の記憶が蘇った。
母は優しい人だったけれど、王妃教育に関しては苛烈で、物心がついたばかりの私はそれがつらかった。
そして一度だけ、逃げ出したことがある。一人で城を抜け出し、近くの小高い丘まで駆け上がって。──そうして、独りきりで泣いていた。
そう、私はあの時、誰かに連れ出してほしかった。
眦から一筋、涙がこぼれ落ちる。
「さらって、くれるの……?」
幼い夢の続きのような、温かな熱に包まれて、自分でも何を言っているのか分からないままに言葉が溢れた。
「───たすけて、」
そこで、私は完全に意識を手放した。
◆ ◆ ◆
「……ああ」
灯りさえろくにない地下牢の中。
自らの血に塗れ、ぐったりと動かなくなった友を抱きかかえて、俺は言い聞かせるように口にする。
「必ず、貴女を助ける。この国から解放してみせる。だから───」
どうか、生きることを諦めないでくれ。
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