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26. 光の波
しおりを挟む久しぶりに足を踏み入れた塔の中は、相変わらず薄暗く湿っていた。階段を上りながら、血で描いた陣が隅にまだ残っていることを確認する。
「申し訳ございませんアイリス様、室内の掃除もままならず……」
「構いません。ひとまず"祈り"を済ませるだけです」
「祈り……?」
リオが後ろで首を傾げる気配がした。どこから説明したものかと頭を悩ませつつ、口を開く。
「私に課せられた儀式をそう呼んでいます」
「儀式って……」
「……それは、イシュタリアとの盟約に関係することかしら?」
聡明な公爵夫人が核心を突く。
それに頷きを返して、階段の先にある扉に手を掛けた。
ぎぃ、と軋んだ音を立てて開いた扉の先には、相変わらずの簡素な光景が広がっている。私の身辺を調査する為か、人が入った形跡はあったけれど、活けたままの白い花は、枯れることなく咲き誇っていた。
「アイリス様……」
リオが明るい水色のドレスをぎゅっと握りしめて、躊躇いがちにこちらを窺った。
「本当に、この場所に住まれてたんですか……?」
「……そうですね」
「…………っ」
どうやら彼女は知ってしまったらしい。けれどそもそも、私にリオを責めるつもりはなかった。
「貴女が自分を責めることはありません。私に此処を宛てがったのは陛下のご判断です」
「でも……っ」
大きな目を涙で濡らした彼女は言い募る。
「私、何も知ろうとしなかった……! ヴァンの言葉を鵜呑みにして、何も……!」
「リオ……」
「私のことでいろいろ言われてるのも聞いてたのに、王妃様なんだから大丈夫って、勝手に安心して……こんな、ここまでアイリス様が追いつめられてたのに……っ」
その瞳に深い悔恨を滲ませて彼女は叫ぶ。どこまでも真摯なリオの姿を見て、この国に来てくれたのが彼女で良かったと思った。
「……どうか泣かないで、リオ。本当に気にしていないのです。私には、儀式に必要な環境さえあれば良かったから」
「……?」
寝台に近づいて、埃の被ったシーツを剥ぐ。その下には、乾いて黒ずんだ血文字で描かれた陣が形を変えることなく残っていた。
「少し、長くなりそうです。カトレア、おふたりをお願い」
「かしこまりました」
手にしたシーツをカトレアに渡し、そのまま陣の上に横になる。
リオや夫人が戸惑う気配を感じながら、私は目を閉じた。
クレルシェンドの精霊よ。
いま一度、私の命を捧げます。
どうかこの大地が、再び潤わんことを────
◇ ◇ ◇
「光、が……」
思わず呟けば、夫人とカトレアは怪訝そうに私を振り返った。
私以外には、見えていない……?
突然剥き出しのベッドの上に横になって目を閉じたアイリス様。しばらくすると、彼女に変化が現れた。
光が、広がっていく。
まるで眠っているようなアイリス様の身体から仄かな光が生まれ、不思議な紋様の一つひとつにじわりと伝っていった。それはベッドから床に、そしてそのまま部屋の外に出て階段へと続いていく。
音もなく流れる光の波があんまり美しくて、私はまた泣きそうになった。
何が起きてるのかはよく分からない。
ただ、彼女の大切なものが流れ出ていっているように思う。
アイリス様は、それを「祈り」と呼んでいた。
「……詳しいことは、アイリス様ご自身の口からお聞きになる方が良いと思います」
「カトレア……」
「ただ、どうか覚えておいていただきたいのです。この方が、国の盟約に縛られて、それでもそのためにすべてを投げ出してしまえるのだということを」
カトレアは、痛みを堪えるような表情でアイリス様を真っ直ぐに見つめている。
カトレアや夫人が口にした盟約というのを私は知らない。
だから、ちゃんとアイリス様に聞こうと思った。
今度こそ、知らないままで終わらせないように。
それからしばらくの間、光の波に照らされながら、祈る彼女を見守り続けた。
◇ ◇ ◇
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