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怪しい江戸者
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「あそこにいる夷人――いや、若いアイヌは何者だ」
「若いアイヌ? ああ、あそこに突っ立てる小僧のことか。エカシハユイだよ――確かあいつも留吉に金を借りてたクチだな」
「えかし……なんだって?」
「エ・カ・シ・ハ・ユ・イ! あんた、やっぱりこの辺の者じゃないな。アイヌの名前に不慣れだ。さては江戸から来た余所者――」
「まあ、それはそれとして……」
余所者という部分に言葉を被せるようにしてはぐらかし、会話を遮る。
そして、もう一度その目を広げて、騒ぎの源となったらしきそこから少し遠くの場所を見遣った。罪人を捕まえるための六尺棒という長い棒を持った二人の役人から問い詰められる、白い木綿服の少年。やはりそれは、昨日の若きアイヌであった。
こう見えてこの男、旅慣れているせいか遠目がよく利くのである。
(初めて聴く音の並びの名前――。やはりここは蝦夷地なのだ)
初めて聞いた和人とは明らかに違うアイヌ風な名前の音に、男は妙な部分で納得した。ようやくと言ってもいいかも知れないほどに今、この男の中に「自分は蝦夷地にいる」という実感がずしりと響いたのだ。
「……あのエカシハユイという者が、死んだ留吉に金を借りていた、と」
「ああ、俺はそう聞いているが。それにしても、哀れな奴よ。見た目はアイヌだが、噂では父親は松前藩の御役人様で――って、おっといけねえ、今のは聞かなかったことにしてくれ」
「ほお……今のはなかなか興味の湧く話だ。だが、今はそれよりも目の前の事だな。それで、どうしてあのエカシハユイが松前藩の捕吏に囲まれているのだ?」
「どうしてって……。そりゃおめえ、決まってるだろ。悪人とはいえ、人は人だ。その人を殺めた下手人と疑われてるからよ」
「下手人だって? あの、まだほんの子どものような者が?」
「俺に言うなよ。役人がそうだって言うなら、そうなんじゃないのか? 疑うんならテメエで直接聞いてみたらいいじゃねえか――って、おいっ! 本当に行く奴があるか! 戻って来い!」
騒動好きらしい人足の止める言葉など途中で耳に入らなくなっていた男は、その頑丈そうな足でずかずかと河川敷を歩いて行った。
雪解け水を多く含んでいる春先の北国の川は、水量が多い。
だが、アッサブ川のやや濁り気味の水は河川敷を飲み込むまでは水量を増やしていなかった。
そこは石のごろごろするような河原ではなく、夏ならば背の高い草木で覆われそうな場所だ。けれど雪が解けたばかりの春先では、夏には生命力溢れんばかりに生い茂る雑草もまだ生い茂るまでには至っていない。水分を含んだ柔らかめの黒土が、その場所を覆っている。
男が歩を進めるたび、そこに草鞋の形をした足跡が刻まれていった。
「うむ……。これは酷いな」
水を湛えた川岸から、二間ほど距離の離れた陸地。
そこに横たわっている筵を無造作に被された骸の前で足を止めたその男は、しゃがみこんで筵を勝手に捲り取り、顔をしかめた。そして、目を閉じると僧侶の如く手を合わせ、何やら念仏を唱え始めた。
暫くの後、再び目を開けた男は、骸の傷の様子をじっくりと眺めた。
死んだ男の左の額部分に、何か堅いもので殴られたような跡がある。
額の骨が凹むほどで、受けた衝撃の強さが如実にわかる。額から流れた夥しい血は既に固まっており、殺められたのが、もう幾時も前であることがわかった。
「こら、そこの者。何をしている!」
そう言って、二人の捕吏役人の内の一人が、血相を変えて旅人に駈け寄って来た。
二人の中では背も高く体も肥えた感じの捕吏だったが、そんな捕吏の上背よりもかなり長い六尺棒は如何にも迫力があり、旅人は仕方なく筵から手を放して元の状態に戻した。
筵の端から死人の骨ばった両足がかなりはみ出している。死んだ男は、なかなかの大男なのであろう。
「ああ、これはすまぬ。気になったゆえ、『仏様』の様子を見せていいただいた。今は還俗したが、私もかつては僧侶でしてな。弔いをさせていただきたくて――」
「弔いだと? とにかく、勝手に触れるでない! だが、それにしてもお主の言葉遣い……さては、江戸者だな? ならばなおの事、ここに居させるわけにはゆかぬわ。即刻、ここから立ち去られよ」
松前藩の捕吏役人が江戸の人間――江戸者に辛く当たるのには、訳があった。
実はこの松前藩、一度幕府により北方警備という名目の元で領地を召し上げられ、奥州梁川九千石に移封されたという、苦い経験を持っているのだ。
だが、その幕府直轄統治も上手くいかず、結局、お手上げ状態で幕府は蝦夷地を再び松前藩の領地とした。そして、松前藩が蝦夷地を領地に取り戻して二十年余り――江戸幕府に再び領地を奪われてはなるものかと、松前藩士は江戸者をまるで幕府からの密偵扱いして警戒するのである。
だが、そんな尖った言葉にも動じる様子の無い旅人。
捕吏の言葉には答えずに、徐に目線を筵から離して顔を上げると、悠々と周りを見渡し始めた。亡くなった男が倒れていた位置から凡そ十間ほど川上の方向に行った場所に、粗末な漁小屋のような建物がある。どうやら、下手人として疑われているアイヌの若者――エカシハユイが、そこを住居としているらしい。
小屋の前で痩せたもう一人の捕吏に激しく抗う、エカシハユイの姿があった。
「だから、もう一度言うぞ。朝起きたら、その亡骸が川の畔に横たわっているのを見つけた。だから、それをあんたら役人に知らせに行ったまでだ」
「ふん、あくまでシラを切るか。知らせた者が実は真の下手人、などということはざらにあるのだ。ワシらは騙されんぞ」
「違うと言っておるのに」
「だが、ワシらがここに来たとき、留吉の周りには、留吉自身の足跡とこの小屋へと続くお前の足跡しかなかった。それは、お前が下手人だという証ではないか」
「そんなことは知らん。とにかく、オレはやってない」
厳しい役人の物言いにも、決して折れようとはしないアイヌの若者。
旅装の男は、その遠目の利く目で彼の者の瞳を覗いてみた。そこに宿る光は透き通った純粋な光であり、決して鈍く濁ったものではなかった。
「……」
足跡。
今は役人たちが踏み荒らしてしまったことで、留吉の周りにはたくさんの足跡がある。だが確かに、今できたばかりの自分のものを除けば、あと四種類が確認できた。
留吉の亡骸の周りにあるのは、エカシハユイの裸足の足跡と、捕吏の二人、そして留吉自身らしき草鞋の足跡。
ならば、やはり下手人はエカシハユイなのか――。
だが、若者の目の輝きは、決して嘘を吐いているようにどうしても思えない。
旅の男は水の悠々と流れる川面をじっと見つめた。
と、その刹那。
何かを閃いたらしい男が、自信ありげに何度か頷いた。そして、傍にいる役人が制止するのを無視して粗末な小屋に悠然とした歩みで近づくと、よく響く声で言った。
「さて、お役人の面々。そこのエカシハユイは下手人ではありませぬな」
「若いアイヌ? ああ、あそこに突っ立てる小僧のことか。エカシハユイだよ――確かあいつも留吉に金を借りてたクチだな」
「えかし……なんだって?」
「エ・カ・シ・ハ・ユ・イ! あんた、やっぱりこの辺の者じゃないな。アイヌの名前に不慣れだ。さては江戸から来た余所者――」
「まあ、それはそれとして……」
余所者という部分に言葉を被せるようにしてはぐらかし、会話を遮る。
そして、もう一度その目を広げて、騒ぎの源となったらしきそこから少し遠くの場所を見遣った。罪人を捕まえるための六尺棒という長い棒を持った二人の役人から問い詰められる、白い木綿服の少年。やはりそれは、昨日の若きアイヌであった。
こう見えてこの男、旅慣れているせいか遠目がよく利くのである。
(初めて聴く音の並びの名前――。やはりここは蝦夷地なのだ)
初めて聞いた和人とは明らかに違うアイヌ風な名前の音に、男は妙な部分で納得した。ようやくと言ってもいいかも知れないほどに今、この男の中に「自分は蝦夷地にいる」という実感がずしりと響いたのだ。
「……あのエカシハユイという者が、死んだ留吉に金を借りていた、と」
「ああ、俺はそう聞いているが。それにしても、哀れな奴よ。見た目はアイヌだが、噂では父親は松前藩の御役人様で――って、おっといけねえ、今のは聞かなかったことにしてくれ」
「ほお……今のはなかなか興味の湧く話だ。だが、今はそれよりも目の前の事だな。それで、どうしてあのエカシハユイが松前藩の捕吏に囲まれているのだ?」
「どうしてって……。そりゃおめえ、決まってるだろ。悪人とはいえ、人は人だ。その人を殺めた下手人と疑われてるからよ」
「下手人だって? あの、まだほんの子どものような者が?」
「俺に言うなよ。役人がそうだって言うなら、そうなんじゃないのか? 疑うんならテメエで直接聞いてみたらいいじゃねえか――って、おいっ! 本当に行く奴があるか! 戻って来い!」
騒動好きらしい人足の止める言葉など途中で耳に入らなくなっていた男は、その頑丈そうな足でずかずかと河川敷を歩いて行った。
雪解け水を多く含んでいる春先の北国の川は、水量が多い。
だが、アッサブ川のやや濁り気味の水は河川敷を飲み込むまでは水量を増やしていなかった。
そこは石のごろごろするような河原ではなく、夏ならば背の高い草木で覆われそうな場所だ。けれど雪が解けたばかりの春先では、夏には生命力溢れんばかりに生い茂る雑草もまだ生い茂るまでには至っていない。水分を含んだ柔らかめの黒土が、その場所を覆っている。
男が歩を進めるたび、そこに草鞋の形をした足跡が刻まれていった。
「うむ……。これは酷いな」
水を湛えた川岸から、二間ほど距離の離れた陸地。
そこに横たわっている筵を無造作に被された骸の前で足を止めたその男は、しゃがみこんで筵を勝手に捲り取り、顔をしかめた。そして、目を閉じると僧侶の如く手を合わせ、何やら念仏を唱え始めた。
暫くの後、再び目を開けた男は、骸の傷の様子をじっくりと眺めた。
死んだ男の左の額部分に、何か堅いもので殴られたような跡がある。
額の骨が凹むほどで、受けた衝撃の強さが如実にわかる。額から流れた夥しい血は既に固まっており、殺められたのが、もう幾時も前であることがわかった。
「こら、そこの者。何をしている!」
そう言って、二人の捕吏役人の内の一人が、血相を変えて旅人に駈け寄って来た。
二人の中では背も高く体も肥えた感じの捕吏だったが、そんな捕吏の上背よりもかなり長い六尺棒は如何にも迫力があり、旅人は仕方なく筵から手を放して元の状態に戻した。
筵の端から死人の骨ばった両足がかなりはみ出している。死んだ男は、なかなかの大男なのであろう。
「ああ、これはすまぬ。気になったゆえ、『仏様』の様子を見せていいただいた。今は還俗したが、私もかつては僧侶でしてな。弔いをさせていただきたくて――」
「弔いだと? とにかく、勝手に触れるでない! だが、それにしてもお主の言葉遣い……さては、江戸者だな? ならばなおの事、ここに居させるわけにはゆかぬわ。即刻、ここから立ち去られよ」
松前藩の捕吏役人が江戸の人間――江戸者に辛く当たるのには、訳があった。
実はこの松前藩、一度幕府により北方警備という名目の元で領地を召し上げられ、奥州梁川九千石に移封されたという、苦い経験を持っているのだ。
だが、その幕府直轄統治も上手くいかず、結局、お手上げ状態で幕府は蝦夷地を再び松前藩の領地とした。そして、松前藩が蝦夷地を領地に取り戻して二十年余り――江戸幕府に再び領地を奪われてはなるものかと、松前藩士は江戸者をまるで幕府からの密偵扱いして警戒するのである。
だが、そんな尖った言葉にも動じる様子の無い旅人。
捕吏の言葉には答えずに、徐に目線を筵から離して顔を上げると、悠々と周りを見渡し始めた。亡くなった男が倒れていた位置から凡そ十間ほど川上の方向に行った場所に、粗末な漁小屋のような建物がある。どうやら、下手人として疑われているアイヌの若者――エカシハユイが、そこを住居としているらしい。
小屋の前で痩せたもう一人の捕吏に激しく抗う、エカシハユイの姿があった。
「だから、もう一度言うぞ。朝起きたら、その亡骸が川の畔に横たわっているのを見つけた。だから、それをあんたら役人に知らせに行ったまでだ」
「ふん、あくまでシラを切るか。知らせた者が実は真の下手人、などということはざらにあるのだ。ワシらは騙されんぞ」
「違うと言っておるのに」
「だが、ワシらがここに来たとき、留吉の周りには、留吉自身の足跡とこの小屋へと続くお前の足跡しかなかった。それは、お前が下手人だという証ではないか」
「そんなことは知らん。とにかく、オレはやってない」
厳しい役人の物言いにも、決して折れようとはしないアイヌの若者。
旅装の男は、その遠目の利く目で彼の者の瞳を覗いてみた。そこに宿る光は透き通った純粋な光であり、決して鈍く濁ったものではなかった。
「……」
足跡。
今は役人たちが踏み荒らしてしまったことで、留吉の周りにはたくさんの足跡がある。だが確かに、今できたばかりの自分のものを除けば、あと四種類が確認できた。
留吉の亡骸の周りにあるのは、エカシハユイの裸足の足跡と、捕吏の二人、そして留吉自身らしき草鞋の足跡。
ならば、やはり下手人はエカシハユイなのか――。
だが、若者の目の輝きは、決して嘘を吐いているようにどうしても思えない。
旅の男は水の悠々と流れる川面をじっと見つめた。
と、その刹那。
何かを閃いたらしい男が、自信ありげに何度か頷いた。そして、傍にいる役人が制止するのを無視して粗末な小屋に悠然とした歩みで近づくと、よく響く声で言った。
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