モラハラ夫との離婚計画 10年

桐谷 碧

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「ねえ、三階に住んでる大っきい人見た事ある?」

 晩酌しながら野球中継を見る夫に話しかけると興味なさそうに「ねえよ」と答えた。あれから少し考えた。あの男は確かに私の名前を呟いた。それに。

 こんな綺麗な奥さん一一。

 どうして私が既婚者だと分かるのだろうか、娘と一緒の所を見られたのか。どちらにしても気味が悪かった。

「そーいや、エレベーターで三階のボタン押す奴に会ったことねえなあ」

 テレビを真っ直ぐに見たまま夫が呟いた、どうやら今日は機嫌がいい。巨人が勝っているからだろうか。

「え、ほんと?」

「ああ、一回もない」

 言われてみて私もあの男以外が三階のボタンを押す所を見た事がない。他の階はだいたい満遍なく見ているがあの階だけはない。

 三階にはあの男しか住んでいない?

 まさか、一つの階に六世帯あるこのマンションで住人が一人なんてあり得ない。そう考えてガレージに収まるベンツを思い出した。

 いやいや、金があったとしても六部屋借りる馬鹿はいないだろう。すぐに考えを改めた。

「わりぃ、タバコ買ってきて」

 キッチンの前で固まっていると夫からお使いを頼まれる。洗い物してるんだからテメーで行けよ、なんてもう思わない。すぐに手を拭いて支度した。

 サンダルをつっかけて玄関を出るとムッとした真夏の空気が体に纏わりついた。パタパタと廊下を歩いてエレベーターの前に立つ。階段の方が早いけどやっぱりこの薄暗い階段が少し怖い。

 エレベーターが降りてきて扉が開いた、その瞬間小さな悲鳴をあげそうになって口を手で押さえる。エレベーターの中には子供部屋おじさんが乗っていた。

「ああ、こんばんは」

 気味の悪いハスキーボイス、しかし回れ右して引き返すわけにもいかない。

「こんばんは」

 俯き加減で乗り込んだ。

 偶然?

 そうに決まってる。ただ私はやたらとこの男と遭遇する気がする。気のせいじゃない。今までは何も考えてなかっただけで意識するとその確率は異常とも言える。

 とてつもなく長い閉塞感を味わった後に扉が開くと逃げるようにマンションを出た。

 コンビニは目の前にある、明るい店内はそれだけで安全地帯のような開放感があった。せっかく来たから自分の分のスイーツを選んでレジに向かった。

「えっと、タバコ……」

 そこまで言って夫が吸うタバコの銘柄をド忘れしてしまった。私は吸わないから余計に覚えが悪い。

「何番ですか?」

 店員に詰められて狼狽していると背後からハスキーボイスがこだまする。

「マルボロライト 七十五番ですよ」

「え?」

 びっくりして振り返ると子供部屋おじさんがいつの間にか私の後ろに立っていた。全身に鳥肌が立つ。

「七十五番ですかー?」

 カタコトの日本語で話しかけられて我に帰る、確かに言われてみたらマルボロライト、そうだ、そんな銘柄だった事を思い出した。

「はい、お願いします」

「ありがとうござましたー」

 店員に頭を下げられると小走りでコンビニを出た。

 なんで、なんで、なんで。

 言い得ぬ恐怖が足元から這い上がってくる。もしかして付けてきた?

 いやいや、違う。あのマンションの住民ならば絶対にこのコンビニを使う。なにもおかしくない。

 なんでタバコの銘柄を?

 エレベーターを待っていると肩をポンと叩かれた。今度は悲鳴が口から漏れた。

「忘れてますよ」

 男は私の眼前にコンビニ袋を差し出した。慌ててタバコだけを受け取っていたらしい。

「あ、すみません、ありがとうございます」

 私は恐怖のあまり声が震えた、到着したエレベーターに乗りたく無かったが後ろからの圧力で中に押し込まれていった。

「以前、購入しているところをお見かけしたものですから、旦那さんのですよね?」

「あ、ああ、そうだったんですか」

 納得いきましたー。となるほど楽観的じゃない。普通そんな事を覚えているだろうか。

「おやすみなさい」

 エレベーターが開いた瞬間に飛び出した私の背中に、いつまでも男のハスキーボイスが纏わりついて離れなかった。
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