神楽坂探偵社の妖怪事件簿

中野莉央

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「鉛弾をなくせば良いって分かりきってるのに……。生態系を元に戻せば少なくとも環境破壊の状況は改善する可能性が高いって分かってるのに……。私には何もできない……!」

「おまえが鉛弾をなくしたい。生態系を元に戻したいと考えたことは、この広い世界の中で小さな蝶が一度、羽を動かした程度の物だ」

「そんな……」

 兄の冷淡な言葉に私はうつむき唇を噛んだ。まだ学生に過ぎない無力な自分が鉛弾や環境について現状を変えるべきだと思ったところで、何も変えられる訳がない。小さな蝶が羽を動かしたからって、世の中は何も変わらないのだ。私は自分の無力さが情けなくて涙が込み上げてきた。

 その時、正面から強い突風が吹いてきて思わず目を閉じた。雪山を吹き抜ける刺すような冷たい風が顔や耳、首元から体温を奪っていった。涙を流した頬が北風に冷やされ痛いほどだと思った時、首元に驚く程のぬくもりを感じた。まぶたを開けて見ると眼前の兄が自分の巻いていた白いカシミアのマフラーを外して、私の首元を温かく包み込んでくれていた。

「……『バタフライ効果』という言葉がある」

「え?」

「遠い場所で起こった『蝶の羽ばたき』は嵐や竜巻になるか? というカオス理論における予測困難性を表した言葉だ」

「悪いけど何を言ってるのか、全く分からないわ……」

 真面目な顔で脈絡もなく『カオス理論』などという聞きなれない単語を持ちだし、語り始めた兄に当惑してしまう。

「つまり……。おまえが今この場所にいることは、本来ありえないことなんだ。神楽坂の探偵社に沖原沙織が訪ねて来た時、偶然おまえが居合わせ北海道行きが決定した。そしてここで 以津真天イツマデと出会って、鉛弾や鹿の食害について知ることも本当ならなかった」

「うん。それは分かるわ」

「おまえが鉛弾やエゾ鹿の増加による環境破壊について知り、このまま現状を放置していてはいけないと思った時点で蝶の羽ばたきは始まっているんだ。そしてその羽ばたきは本来なら、起こることのなかった小さな風をすでに起こしている」

「私が思ったことで、羽ばたきが嵐や竜巻になるの?」

「今、心の中で少し思った程度ではどうにもならないだろう……。だが、ずっと思い続けて知ったことや感じたことを他の誰かに話し、それを聞いた人間が同じような思いを抱き、それが連鎖していって多数の人間が同じように現状のままではいけないと考えれば、小さな蝶の羽ばたきは強い風になり将来、嵐や竜巻になっていく可能性があるはずだ」

「うん……。うん……!」

 私は両目から溢れて来る涙を手の甲でぬぐいながら何度も頷いた。そうだ。今ちょっと思っただけでは、何も変わる訳がない。でも私が知った鉛弾のこと、鉛毒や鉛中毒の恐ろしさ、鉛弾の条例がこのままでは充分ではないということ。

 北海道のみ鉛弾を禁止するだけでは抑止効果が弱いということ。エゾ鹿の増加問題に歯止めをかけないと環境破壊も続いてしまうということ。このままではオオワシやオジロワシのような絶滅危惧種の数が減る一方だということ。

 私が知ったことや感じたことを他の人に伝えて、他の人も同じように思ってくれれば遠い将来になるかも知れないけど、事態は今より良くなる可能性があるんだ。
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