夏休みの夕闇~刑務所編~

苫都千珠(とまとちず)

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第五章 闇

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~灰谷ヤミの死刑まで残り10日~

月明かりはほとんどなく、消灯後の刑務所内は闇が深い。ベッドに寝転び天井を見上げて手をかざす。自分の手がぼやけて見える。指の先から闇の中に溶けていきそうだ。意識と体が切り離されていく感じがする。

瞼を下ろして自分が空気の中に溶ける想像をする。その想像を、闇の奥から伝わる振動がかき消していく。……足音?

足音は、コツ、コツと音を立てながら近づいてくる。僕の独房のドアの前で、その足音は止んだ。



……ヤミ、寝てる?



扉の向こうから聞こえる、控え目な火置ひおきさんの声。僕はベッドから立ち上がって扉を開ける。

「どうしたの、こんな夜更けに」

「話したくて」

「……どうぞ、入って」

「ありがとう」


もう寝るだけだというのに、彼女は初日に独房にやってきたときと同じ旅の装束に身を包んでいた。……どうしたというのだろう。別れの挨拶かな。


彼女は僕の横を抜けて、窓際のベッドに腰掛けた。一緒にこの部屋を使っていたときの、彼女の定位置。なんとなく窓際のベッドを使えずにいた僕は、彼女がいなくなった後も看守が以前届けてくれた予備のベッドで寝起きしている。

「珍しいね、話したいなんて。君はあまりお喋りが好きじゃないと思ってた」

「あんなに色々話してきたのに?あなたほどじゃないかもしれないけど、話すことはとても好きだよ」

「僕が会話に飢えすぎていただけか」

「そう思う」

彼女がクスクスと笑う。久しぶりに笑顔を見た気がする。
彼女は下を向いて、足をぶらぶらと動かしていた。そして、おもむろに話し始める。


「ヤミに、逮捕される前のいい思い出は一つもないの?」

いい思い出、か。僕は普段の生活の中で、過去のことを思い出すことが極端に少ない。聞かれれば細部まで答えられるから『忘れた』わけではないんだろうけど、ふと思い出すことはほとんどないと言っていい。

……それでもたった一つだけ、ときたま何かの拍子に出てくる風景があった。


「………………海」

「海?」

「……僕は千葉の勝浦の方で生まれたんだけど」

「へぇ」

「赤ん坊の頃は、そこで暮らしてたんだ。海の近くの、母の実家。小学校に上がるまではよく母の実家に泊まりに行っていた」

……僕が小学校に上がってからは、向こうの祖父母が亡くなって行かなくなってしまった。祖父母が死んだ時、自分の逃げ場所をひとつ奪われた感じがした。いつも潮風の匂いがしていた古い木造住宅。あの家の雰囲気が、僕は好きだった。


「……犬が海岸を走っていて、家族で散歩している、そんな風景がたまに思い浮かぶ。それが何というわけじゃないけど『きっとあの時は、幸せだったんだろうな』って思うことはある」

「素敵だね。私も見てみたいよ」

「なんというか、その風景自体が、僕のいい思い出かな。海岸の風景と波の音。僕にとっての幸せは、人よりも風景と結びついている」

「じゃあさ、一緒に房総の海を見に行こうよ」

…………何を言ってるんだ?君は僕が死ぬって知っているだろ?トンチンカンな彼女の言葉に、少しだけ顔をしかめてしまう。半分は呆れた気持ちもある。

「……だから、僕は死ぬんだって。仮釈放もないよ。もう刑務所の外には出られないんだ」

「私なら、あなたを出してあげられる。やっと時空の魔法を使えるようになったの。今すぐにでも、逃げられる」

思いがけない提案に絶句する。火置さんは、それを僕に伝えにきたのか?

「脱獄ってこと?…………いくらなんでもむちゃくちゃすぎやしない?」

「そうかな?あなたの死刑は正当なものじゃないと、私は思ってる。あの『カミサマ』は……異常者よ。直接話して、確信した。あなたはまだ死ぬべきではない」

カミサマがおかしいのは、僕にだってわかっている。でも、だから何だって言うんだ?カミサマがいるかどうかじゃない。重要なのは、僕の教義で示した正当な手続きを経て死に、天国に行くことだ。

もう天国に行くための条件は全て揃っている。あとは死刑になるだけなんだよ。なぜ大事なところで邪魔をしようとする?


「……だから、前も言ったけど……カミサマが何者だろうと僕には関係のない話だって。死にたい気持ちに変わりはないから、あまり変なことを言わないでくれよ」

「…………あなたが死にたいのは、あなたの『悲劇的な人生』が耐えられないほど苦痛だったからでしょ?生きていて一度も人と過ごすことの幸せを感じられてこなかったから」

「それもある。でも一番は、僕の信じる神様に早く会いたいからさ」

「私はこの1ヶ月弱であなたとたくさん話して、あなたのことを知って、とても楽しかった」

「……やめてくれよ」

「私、もっとあなたのことを教えてほしいの。まだ死ぬのは早いよ。もう少し待って欲しい」

「やめてって!」

「どうして」

「どうしてはこっちのセリフだ……なんで君は、僕を惑わせるようなことを言うんだよ。ずっとずっと僕は言っていただろ?僕は早く死にたかったんだ。君がそんなことを言うと、僕は苦しいよ。君は……悪魔みたいだ」

「……悪魔でもいい。早く天国においでって誘う神様よりいい。生きようよ、もう少しだけでもいいから。生きよう」



彼女の強くてまっすぐな視線が僕に突き刺さる。

……ああ、そんなに僕に死んでほしくないのか。なんだろうな、この気持ち。彼女の好意を彼女の目の前でぐちゃぐちゃにして、落として踏みつけているところを見せつけたくなるような、この気持ちは。



僕の死を厭う人間がいるという事実は、僕に単純な喜びをもたらしてくれない。『なんで僕のような男に死んで欲しくないと思うんだ?』という不信感と自暴自棄な思いがモヤモヤと湧き上がる。

嬉しいのは事実だ。でも、それ以上に許せない。僕に死んでほしくないなんて思うなよ。汚らわしいよ。

「はっ……君が悪魔なら、僕がなんとかしなきゃいけないな。悪魔なんて神様にとっては忌むべきものだ。僕は神様の忠実な下僕。君がどうなったって、文句は言えないよ?」

立ち上がって君に迫ろうとする。でも迫ったところで、その後どうする?もう、これ以上僕の心を煩わせるのはやめてくれよ。……頼むから、怖がって逃げて欲しい。そして、そのままどこかに行ってくれ。

……でも、彼女はそんなことじゃ怖がらないってこと、このひとつき近くで十分わかってる。

たとえ今日僕に無理やり犯されたとしても、自分の目的を達成するまで彼女はここを去らないだろう。そんな気がする。


「ヤミ」

「……」

無言でまた一歩近づく。君は微動だにしない。恐れる素振りも見せない。意思が強くて心の綺麗な君。僕とは違って、世界に求められている。


刑務所の周囲を照らす人工的な明かりが窓から忍び込み、君を背後から照らした。なぜかその光は、僕にはかからない。
床にできた、光と闇の境界線。いるべき場所の違いを思い知って、僕は闇側で立ち尽くす。

目の前の火置さんを見る。なんて小さい体なんだろう。よくこれで、一人で生きてこれたな。なぜか僕は今この状況と全く関係のないことに頭を巡らせる。彼女は静かな瞳で、僕のことを見ている。


すると彼女は自分から、僕の方に近づいてきた。彼女は床にできた光の境界線を越えて、僕の闇側にやってくる。

僕の目の前で立ち止まった彼女は、口を開いた。


「ヤミ、私だってあなたと一緒」

「……何一つ一緒じゃない」

「ひとりぼっちなの」


僕を映した火置さんの瞳だけが、光って見える。いつもの冬の一等星みたいな乾いた輝きではなくて、水気の多い濡れた輝き。


僕の心臓が、変な音を立てる。


「ずっとひとりぼっち。私とあなたは変わらない。だからもう少し、一緒に話そうよ」









僕は…………………………。




僕は、火置さんのことを好きになったのかな。


そう……なのかもしれない。

だから一人でいると火置さんのことが思い浮かぶし、シャワーの時には火置さんのことを考えてしまうんだ。


そうか、僕は火置さんのことが好きなんだ。



……。好き……?いや、この感情もホンモノかはわからない。シャワーのときに考えたみたいに、ただ欲求不満なだけかも。だってほら、現に今、僕の中の闇が僕に囁いてる。


『今がチャンスだ!せっかくだからいい思いをしてから死ねよ』
『彼女に何を思われても、死にゆくお前には関係ない』
『こんな男に手を差し伸べるのが悪いって、思い知らせてやれ』



……駄目に決まってるだろ、やめろ。『強姦』は地獄行きの禁忌。ここで目先の欲望に流されて自分で作ったルールを破るのは、馬鹿のすることだ。

それに……
たとえ彼女が嫌がらなかったとしても、しちゃいけない。だって、彼女を抱いたりしたら…………ここにきて、死にたくなくなりそうだから。

僕はもう、悲劇の中に生きるのはこりごりなんだ。

だって僕の『悲劇的な人生』のせいで君が死んでしまったら、どうする?それこそ生きていけない。君が死ぬ場面を目の当たりにするくらいなら、自分が先に死んだほうがどれだけ楽だろう。


「…………ヤミ?」

「………………申し訳ないけど、どこかに行って欲しい」

一度好きだと思うと、色々なことに気づいてしまう。
火置さんの肌の白さ、柔らかそうな髪、僕よりもずっと小さい肩幅、体の輪郭のなだらかさ。その一つ一つが僕を苦しめる。手が震えそうになるほど、触りたい。

やっぱり僕は最後の最後まで、悲劇的な人生に苦しめられている。『君に出会ってしまった』という人生最大の悲劇。

「……どうしても、だめなの?」

「………………行ってくれ。出ていってくれ。もう……この部屋に来ないでくれ。僕に、話しかけないで」

「………………………」

「……早く……!!!」

彼女は立ったまま僕をじっと見ていた。僕は、耐えきれなくなって目をそらす。

彼女が僕に向かって手を伸ばしたのを、目の端に捉える。でも、僕に触れる前に、その手は降ろされる。


彼女は何も言わずに、僕の部屋を出ていった。

そう、これでいい。これでよかったんだ。あとはもう、死ぬだけだ。静かに残りの時間を消化していくだけ。

僕は感情を冷静に処理するのが得意だから、大丈夫。今までだってそうやって生きてきた。まあ、僕の人生なんてこんなもんさって思って過ごせばいい。…………ただそれだけさ。
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