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第17話 怒らない人(She is Never Angry)
しおりを挟む私にはお姉ちゃんが一人いるんだけどさ。私の記憶にある限り、彼女はこれまでにただの一度も怒ったことがないんだよねえ。
怒りの感情がない、というわけじゃあないと思うの。
何故って。お姉ちゃんがムッとしたり、腹立たしそうと言うか苛立たしげな表情を浮かべたりしたことは、これまで何度も見たことがあるからね。
だけど彼女がそれを怒りに発展させることは絶対と言っていいほどないわけよ。たとえ不機嫌そうな顔になったとしても、それはほんの一瞬のことで。すぐに表情を和らげて、なにごともなかったかのようにいつもの、少し遠慮がちでおどおどとした笑みを浮かべるというわけ。
家族や親戚、お姉ちゃんの友人たちにそれとなく尋ねてみたこともあるんだけどさ。私がそれを訊くと誰もがみな例外なく『そういえば、あの娘が怒ったところは見たことがないなあ』って、口をそろえて応えるのよ。
一方、妹である私は自慢じゃないけどかなり怒りっぽいほうでさ。ちょっとしたことでもすぐにかんしゃくを起こすし、少しでも気に入らないことがあれば辺り構わず怒鳴り声をあげちゃうことが多いのよ。
悪いのは自分のほうだと分かっていたとしても同じこと。そういう場合は半ばわざと逆ギレして……時と場合によってはわんわん大げさに泣き喚いて相手を根負けさせたりげんなりさせたりすることによって、向こうから謝って来るように仕向けるってわけね。
我ながらはた迷惑な女だなあとは思うけれどさ、そういう性格なんだから仕方がないじゃない。多分、お姉ちゃんが生まれてくる時にお母さんのお腹の中に忘れてきた『怒り』を、私が生まれてくる時に一緒に持ってきちゃったんじゃないかなあ。
要するに私は自分の分とお姉ちゃんの分、二人分の『怒り』を持って生まれてきちゃったってことよ。したがって私が人一倍怒りっぽいのは私のせいじゃなくてお姉ちゃんのせいだってことだよね? ということは、私は全然悪くないじゃないの! 悪いのは全部お姉ちゃんだ。うん、決めた。いま決めた。私が決めた。異議は認めない!
もっともお姉ちゃんが全く怒ることがなく、逆に私が怒りっぽいのは生まれのためだけではなく、環境のせいということもあると思うんだよね。
こう言っちゃあなんだけどさ、はっきり言ってお姉ちゃんはかなり不細工な人なんだよね。お父さんはそれなりにハンサムで、お母さんもこれまで何度も女優と間違われたことがあったほどきれいな人なのに。何故かその二人の間に生まれたお姉ちゃんは美人とはほど遠い……よく言って下の中レベルの容姿しか持ち合わせていないのよ。
その上性格も暗くて、引っ込み思案。勉強が出来るわけではなく、かと言ってスポーツや芸術方面に優れているわけでもない。あらゆる面で日本人女性としての平均を大きく下回っていると言っても過言じゃないと思うのね。
多分本人も幼い頃から、イヤと言うほどそのことを自覚していたんじゃないかな?
自分をよく知っていて身の程をわきまえているというのは、お姉ちゃんの数少ないとりえの一つなのだ。だから不細工で、長所なんてほとんどない自分が他人さまに対して怒るなんていうのはおこがましいことだと分かっていてさ。それでお姉ちゃんは誰に対しても怒ることはないと。そういうことなんだと私は思っているわけよ。
ちなみに幸いにも私はお母さんそっくりの顔立ちをしていて、つまりかなりな美人なわけね。当然、お姉ちゃんとは全く似ていなくて。二人で並んでいると血のつながった姉妹と言うよりも、お姫さまと奴隷のように見える……いや、これは私が言っているんじゃなくて周りの人がこぞって言っていることなんだけど。
そういうわけだから、私は小さいころから周囲の人たちにちやほやされながら育ってきて。逆に、姉は馬鹿にされ嘲られ、蔑まれ続けてきたってわけ。
これじゃあ私が少しばかりわがままで怒りっぽくなり、お姉ちゃんが卑屈になり全く怒ることがなくなったとしても不思議じゃないよね。怒る美人は絵になりさまにもなるけど、怒る醜女なんてみっともないだけだもん。
と、まあ。大人になったいまだからそういうふうに自己分析も出来るけれど。子供の頃は当然そんなことは分からなかったから、なにがあってもお姉ちゃんが絶対に怒らないのが不思議でたまらなかったのよねえ。
同時に、それならなんとしても怒らせてやるぞなんて子供らしい意地悪さをもって、お姉ちゃんをよく挑発していたっけ。
もちろん子供のことだから、そんな大した悪さをしていたわけじゃないけどね。
せいぜいがお姉ちゃんの大事にしていたぬいぐるみをハサミでずたずたに切り裂いたり、可愛がっていた金魚を近所に住んでいる野良猫のエサにしたり。
ものやお金を借りたまま返さなかったり、自分のしたイタズラをお姉ちゃんのせいにして両親に言いつけたり。
お姉ちゃんの友人にお姉ちゃんの悪口をあることないこと吹き込んだり。お姉ちゃんの教科書やノートにマジックで『ブス!』とか『根暗』『キモイ』『死ね』などと落書きをしたり。
あるいは周囲に誰もいない時を狙って顔を棒で叩いたり石を投げつけたり、後ろからこっそり近づいてどぶ川に突き落としたりと。そんな、いま思い出してもくすりと笑ってしまうような、子供らしいほんの些細でほほ笑ましい行為ばかりだ。
もっともそんな取るに足らない小さな悪事でも、されたら怒るような心の狭い人間はいるもんだからね。いま思えば、それでお姉ちゃんが本当に怒ったらどうするつもりだったのだろう。幼かったとは言え、当時の自分の浅はかさには我ながら本当に呆れてしまう。
だけど前述の通り、私になにをされてもお姉ちゃんは決して怒らなかったのよ。ただ困ったような悲しそうな目をして私のほうを見るだけで。そのため私も調子に乗って、お姉ちゃんに対して可愛いいやがらせを続けていたような気がするな。
私はほら、昔からどちらかと言えば性格が良くて心が優しいほうじゃない? だからお姉ちゃんが一言でも『そんなことはしないで』『やめて』とお願いしてくれば、すぐにでもやめてあげていいと思っていたんだけどね。
でもお姉ちゃんは怒らなかっただけじゃなくて、文句の一つも言わなかったわけで。なにも言わないということは抗議の意思を示さないということ。抗議の意思を示さないと言うことは、私になにをされてもかまわないという暗黙の了解があったと考えるのは当然のことだもんね。
だから私は結構長い間、お姉ちゃんに対して罪のないいやがらせ……ううん、いやがらせじゃないよね。だってお姉ちゃんはいやがってなんかいなかったんだもん。まあ強いて言えば、軽いイジリみたいなもんかな? そういうイジリを続けていたわけよ。
なにせ私は成長するにしたがって、色々ストレスを覚えるようになってきたからね。特に就職してからはひどかったわ。なんの因果か美人なんかに生まれついてしまったせいで、男の社員たちからはしつこくつきまとわれるわ、女の社員からはやっかみの視線を受けたり陰口を叩かれたりするわで、気の休まる時もなかったくらいだし。
そんな時なんかにお姉ちゃんをイジると、気分がさっぱりするのよ。よし、いやなことは忘れて明日も頑張ろうっていう前向きな気分になれるわけね。そういう意味では私はお姉ちゃんにいつも感謝しているし、お姉ちゃんも私のストレス解消の役に立てて嬉しいと思っているんじゃないかな。
あ。そういえばお姉ちゃんの恋人を寝取っちゃったこともあったっけ。
私は就職しても実家から会社に通っていたし。お姉ちゃんはフリーのライターみたいな仕事をしていたけど、不細工なせいか仕事量の割に収入が少なかったから、少しでも生活費を節約するために家事手伝いもかねて実家暮らしをしていたのよ。だからお互い成人しても、一つ屋根の下で暮らしていたんだけどさ。
そういうわけで、お姉ちゃんに恋人が出来たことも割と簡単に知ることが出来たのね。正直、驚いたわあ。あの暗くて不細工でコミュ障気味なお姉ちゃんに彼氏が出来るなんて、正直夢にも思っていなかったし。
そうなるとほら、相手がどんな男か気になるのが人情ってもんじゃない? それでお姉ちゃんがその男とデートをする日にわざわざ有給をとって、こっそりお姉ちゃんの後を尾けていったのよ。
その時初めてその彼氏の顔を見たんだけどさ、これが大笑い。何故って。さすがお姉ちゃんの恋人になるだけあって、その男もひっどいブサメンだったの。
それでもお姉ちゃんはその男と仲良さそうに寄りそって歩いていてさ。幸せそうに笑ったりしているんだもん。顔面偏差値二十そこそこの男と女がイチャイチャデートなんかしている姿って、なんていうか喜劇と言うよりホラーだよね。心なしか、周囲の人たちもそんな二人を憐れみの視線で見ているみたいだったし。でも本人たちはそのことに気づいていなくて、それがまた哀れをもよおすんだけど。
そういうわけだからさ。後日、私はほんの気まぐれでその男を誘惑してみたわけよ。そうしたらまあ、面白いくらいに簡単に引っかかったこと、引っかかったこと。
考えてみれば当然だけどね。お姉ちゃんなんかの彼氏になるようなレベルの低い男が、私みたいな美女に誘われるなんてこと、本来なら絶対ありえないんだから。
それでまあ、詳細は省くけど。要するにその彼氏は私に夢中になって。必然的にお姉ちゃんなんかには目もくれなくなったわけよ。そうして私に命じられるままお姉ちゃんに別れ話を切り出して、当然のように二人は破局に至りましたとさ。めでたし、めでたし。
その後もちろん、親切な私は落ちこんでいるお姉ちゃんに真実を教えてあげたんだけどね。その時はさすがにお姉ちゃんも一瞬、目の色を変えたわ。だけどやっぱり怒ることはなかったのよねえ。ただいつもと同じように、寂しげで悲しげな表情を浮かべて見せただけ。
え? それでその後、わたしとそのお姉ちゃんの元彼とはどうなったのかって? 二人が完全に別れたのを確認してから、振ったに決まっているじゃない。なんで私があんな気の毒な顔をした男なんかと付き合い続けなきゃいけないのよ。正当な理由が一つでもあるなら教えて欲しいわ。
それから私は年収ン千万で、背も高く清潔感のある若手凄腕イケメン弁護士と付き合うようになって、当然のようにプロポーズされ結婚を決めたわ。もちろんお姉ちゃんはそれ以来彼氏のかの字も出来ずに、相変わらず稼ぎの少ないライターの仕事を続けながら、細々と生計を立てていたみたいだ。興味ないからよく知らないけど。
そうして時は飛ぶように過ぎていって、いまや私もお祖母ちゃんと呼ばれる年齢になった。それでも往来の美貌の面影は残っているらしくて『奥様はいくつになられてもお美しいですねえ』などと羨望まじりに言われることもよくあった。
一方お姉ちゃんは相変わらず不細工なまま年をとって、いまでは不細工なお婆ちゃんである。もちろん結婚もしておらず、当然子供も孫もいない。いまは県営だか市営だかの半分ボランティアでやっているみたいな格安のおんぼろ老人ホームで、ひっそり暮らしているらしい。
夫の遺してくれた都心の豪邸で子供や孫たちに囲まれ、悠々自適な老後を送っている私とはえらい違いだ。
そんなある日。私とお姉ちゃんは両親の法事の打ち合わせのため、とある高級ホテルのラウンジにある喫茶店で久しぶりに顔を合わせることになった。
何年かぶりに会ったお姉ちゃんは不細工ぶりにさらに磨きがかかっていて、身に着けている衣服も明らかに古くて貧乏臭い安物だった。一方の私は年をとっても化粧は完璧にこなし、ブランドものの洋服に外国製の高価な宝石、香水などでしっかりと身を飾っている。
同じ親から生まれた姉妹だというのに、こうまで見事に境遇が分かれてしまうとは。人生とはなんて残酷なものなのか……。
さすがに私も、お姉ちゃんのことが心底哀れに思えてきた。これからはもうちょっと優しくてあげてもいいかもしれない。もちろん、たまにだけどね。調子に乗って、度々私の家にやって来るようになって、さらにはお金の無心でもされたら迷惑だし。
「そうだ、お姉ちゃん。○○○○○。○○○○○、○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○?」
ふと。私はなにげない思いつきで、あることをお姉ちゃんに尋ねてみたのだけれど。
その途端、思いもがけないことが起こった。
それまで気の弱そうな笑顔を浮かべながら私の話を聞いていたお姉ちゃんが、一瞬にして顔面を蝋かなにかのように蒼白にしたのである。
まさか、心臓発作かなにかを起こしたのでは!?
お姉ちゃんはもう年も年だし、なにが起きてもおかしくない。私は慌てて、誰か人を呼ぶべく椅子から立ち上がって声をあげようとした。
次の瞬間……。
パチーン!!
ホテルのラウンジいっぱいに、響き渡るような乾いた音が広がった。他のお客やホテルの従業員たちは一体なにが起こったのだと言うような、驚きの表情を浮かべてこちらを見やっている。
……こちらを見ている?
ということは、この音は私たち姉妹がいるテーブルからしたのか? しかし一体これはなんの音?
などと訝っているうちに、私は自分の左頬がジンジンと痛んできていることに気がついた。
これはつまりもしかして、誰かが私の頬を叩いたということだろうか? しかし一体誰がそんなふざけたことを!?
などと思いながら何気なく正面に目を向けると、そこにはいつの間にか立ち上がって、修羅のごとき怒りの形相を浮かべたお姉ちゃんの姿があった。
先程までの蒼白さがまるで嘘であるかのように、その顔は真っ赤に染まっており。目と口角は大きく吊り上がっていて、あたかも地獄の鬼そのものといった凄まじい表情を浮かべている。
さらにその右手はたったいま誰かの頬を思い切り叩いたばかりであるかのように、平手のまま私の視界の左端に浮かんでいた。
つまり、なんだ。これは、お姉ちゃんが、右手で、私の左頬を、叩いたということか?
驚くより、痛みより、怒りより、呆然とした思いで、私は殴られた頬を左手でおさえながら、まじまじとお姉ちゃんの顔を見つめた。
あのお姉ちゃんが、怒っている。いままで一度も怒った姿を私に見せたことがなかった、あのお姉ちゃんが……。
殴られても蹴られても、悪口を言われても馬鹿にされても、金品を取られても大事なものを奪われても、恋人を寝取られてさえ、決して怒ることのなかったお姉ちゃんがいま怒っている。この私に対して……。
そのきっかけは当然、先程私が発した言葉だろう。どう考えても他に思い当たる原因はない。しかしあのお姉ちゃんを怒らせるような、そんなすごいと言うか、とんでもない言葉を私は発したのか?
一体なんと言ったのだっけ? まるで憤怒そのものの化身と化したかのようなお姉ちゃんの表情に心底気圧され、生まれて初めてお姉ちゃんに対して恐怖を覚えながら、私は懸命に記憶を探った。
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