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8 ただいま
しおりを挟む嬰陽王。その姓名を大元といい、乙支文徳とはまだ若い時分に共に大学で政治学や政略、軍略、戦場心理学などを学んだ学友同士であった。
もちろん当時の国王であった平原王の長男であり、いずれは王位を継ぐことを約束されていた嬰陽王と、貴族の末端にかろうじて名前を連ねているだけの乙支文徳とでは身分も立場も雲泥の差がある。同じ大学で学んでいたとは言え、本来なら言葉を交わすことさえないはずだった。
まして乙支文徳は当時から成績も学業態度も悪く、目上の人間に対しても人を食ったような態度ばかりとっている生意気で反抗的な学生として知られており。それは相手が王族の人間であってさえも例外でなかった。なので嬰陽王の側近やその取り巻きである上級貴族の子弟連中にとっては、さぞ噴飯ものだっただろう。
だが当の嬰陽王は乙支文徳のそんな自由奔放……と言うか傍若無人なところが気に入ったらしく、側近たちがあからさまに眉をしかめるのも構わず彼のもとに近づいてきては、しょっちゅう話しかけてくるようになっていた。
乙支文徳も悪ぶっていた割に人が良いところがあったから、相手のほうから親しく近づいてこられれば、それを拒むことは滅多になく。そうして二人は身分の差を乗り越えて、まあ親友と呼んでも差し支えない仲になったのだ。
下級貴族の出身でしかなく、大学での成績も下から数えたほうが早く。教授陣の評判も悪くさしたる縁故もなかった乙支文徳が将軍という要職に就けたのも、半分以上は嬰陽王の口添え(コネとも言う)のお陰だった。
もっとも乙支文徳がそのことで嬰陽王に感謝しているかと言うと、全くそんなことはなく。むしろ責任が重くてかったるいだけの役職に就けやがってと、恨めしく思っているのだけれど。
「ところで乙支文徳。大興(中国の西安)への観光旅行は楽しかったか?」
ふと、思いついたから訊いてみましたというような調子で、嬰陽王が口を開いた。乙支文徳はむっとして片目だけを開き、その開いたほうの目で嬰陽王を睨みつける。
「観光旅行とはなんだ。三年前、文帝のバカ息子がなにやら不穏なことを企んでいるようだから、ちょっと行って様子を探ってきてくれって命令したのは、お前だろうが」
「冗談だよ。そんなにムキになるなって。お前が隋に行っている間は有給休暇扱いにしておいてやるという約束も、ちゃんと覚えているから心配するな。羨ましいなあ。国の金で外国に遊びに行けて、しかもその期間の給料も真面目に仕事をしていた人たちと同じように貰えるっていうんだから。理解のある上司を持って、本当に幸せだぞおい」
嬰陽王は気楽そうに手をひらひらと軽く振って見せた。その呑気そうな顔を見ていると乙支文徳もこれ以上文句を言う気力をなくしてしまって、はあと湿った息をつく。
「どうせだから、いまここでおれが大興で見聞きしたことを報告してやろうか?」
「その報告にはいい知らせが多いか? それとも悪い知らせのほうが多い?」
「悪い知らせのほうが圧倒的に多い。てゆーか、いい知らせなんか全然ない」
「そうか。なら敢えていま聞くこともないだろう。丁度明日の早朝、重臣たちを集めて会議を開く予定があるから、お前も出席してそこで報告をしてくれ」
「……いいのかよ、それで?」
「いいんだよ。早く聞いたところで悪い知らせがいい知らせに変わる訳でもないし。それだったら早く聞けば聞くほど憂鬱な気分になる時間が長くなるからその分、損だ」
乙支文徳の言葉に、嬰陽王は本気だかなんだか分からない顔と口調で応えた。乙支文徳はやれやれと呟く。
「しかし三年前も言ったけどさ、大元。お前、大興にはすでに何人もの細作(スパイ)を送っているんだろう? ならさらにおれのような、情報収集に関してもそれを分析することに関しても素人同然の人間なんかを調査に出す意味はなかったんじゃないか?」
「三年前にも言ったけどさ、乙支文徳。細作が持ってくるのは、煬帝や隋の宮廷の連中がどんなことを企んでなにをしているのかというような情報だけなんだよ」
「三年前も言ったけど、それじゃあ不足ってことか?」
「三年前も言ったけど、もちろんそれはそれで重要なことだ。だけどね。国なんてものは支配者が誰だろうが皇帝の一族がなんだろうが、それを動かしていくのは結局一般の民たちなんだよ。皇帝や王様がああしろこうしろと命令したところで、国民が誰も従わなければそんなもの、その辺の野良犬の鳴き声と変わらない訳だし」
嬰陽王はどこか自嘲するように嗤う。
「だから一般の国民たちが日々どのようなことを考え、思いながら生きているのかというのは意外と大切な情報なんだ。だから最も信頼出来る人間に実際に隋の民衆に交じって暮らしてもらい、彼らがどのようなことを考えているのかということを肌で感じてほしかったんだ」
「お前がそう言うなら隋の様子を見てくるくらいおやすい御用だと思って、おれは実際に大興まで行って三年もかけて色々なものを見聞きしてきたわけだけど。正直、それほど有用な情報を持ってこられたとは思わないんだよな」
乙支文徳はひょいと肩をすくめた。
「だからもちろん明日ちゃんと報告はするけど、あまり期待するな。三年間も隋にいてその程度の情報しか手に入れられなかったのかとか言って怒られたりがっかりされたりしても、おれは知らねーからな」
後で、期待外れの情報しか持ってこなかったからとかなんとか言いがかりをつけられて、やっぱり三年分の有給休暇はなしなどと言われてはたまらないので、乙支文徳は予防線を張った。だが嬰陽王は穏やかに首を横に振る。
「構わないさ。重要な情報は、細作がちゃあんと持ってきてくれているからね。僕が君に期待しているのはそんなことじゃないんだ」
「……じゃあ、なにを期待しているんだよ」
そう尋ねた乙支文徳の言葉には何故だか応えようとはせず、嬰陽王は意味ありげに微笑みながら足を振って反動をつけると、ベッドから起き上がった。訝しく思い、乙支文徳は眉をひそめる。
「どうした。トイレか?」
「違うよ。久しぶりに君と会えて嬉しかったせいで長く話をしすぎちゃったからね。そろそろ部屋に帰らなきゃ侍従やら護衛の連中やらに余計な心配をかけることになる」
「なんだ。今日はここで寝る気だったんじゃないのか」
「そうしたかったんだけどね。だけど一応一国の国王という立場にいる者としては、たとえ城の中とはいってもあまりふらふらしすぎるのもまずいだろう? 君がさっき言ったようにね」
「いまさらって気もするけど、まあ分からなくもないな。王様っていうのも大変だよ。おれは下級貴族の生まれでよかった。じゃ、おれは今晩はここで寝るから」
乙支文徳が大あくびをすると、嬰陽王は苦笑しながら部屋を出て下に降りる階段へ向かった。だがどういう訳か一分も経たないうちに再び部屋に戻って、乙支文徳の寝ているベッドの前にと立つ。乙支文徳は首をかしげた。
「なんだよ。やっぱりここで寝ることにしたのか?」
「いや。一つ言い忘れたことがあったのを思い出して」
「それでわざわざ戻ってきたのかよ。明日言えばすむことなのに、律義な奴だな。で、なんだ? 言い忘れたことってのは。大事なことか?」
「ああ。とっても大事なことを言い忘れてた。お帰り、乙支文徳」
相も変わらぬニコニコ笑顔で、嬰陽王はごく自然な口ぶりで言葉を紡いできた。乙支文徳は一瞬表情の選択に迷ったが、やがて限りなく苦笑いに近い笑顔を浮かべて、嬰陽王の顔を見ながら口を開く。
「ただいま……」
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