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20 前哨戦・その1
しおりを挟む隋軍一一三万の兵と八〇万余りの車夫使役夫賄いなどが琢郡(北京)に集結してから二か月後の大業八(西暦六一二)年の三月。最初に琢郡を発った隋軍第一陣四〇万名は着々と歩みを進めていき、隋と高句麗の国境である
遼河の西岸まで近づいてきているという情報が細作(スパイ)より征虜大将軍乙支文徳のもとにもたらされた。
意外と遅かったなというのが、乙支文徳の正直な感想である。琢郡から遼河までなら、かなりゆっくり進んだとしても一か月とかからない道のりだ。それが倍の二か月もかかったということは、隋は行軍にかなり手間取ったと見て間違いないようである。
確かに、普段比較的温暖な地域に暮らしている隋の一般兵たちにとっては慣れない北の大地の環境は戸惑いの連続だったに違いない。特に肌を刺すような吹きすさぶ寒風、行く手を塞ぐがごとき荒れ狂う砂嵐はかなりの難関だったろう。二〇〇万という超大軍の行進であったこともネックだったに違いない。
もちろん敵の歩みが遅いことは文句を言う筋合いではない。じっくり策を練りさまざまな仕掛けを施すための時間が出来た訳だし、行軍に時間がかかればかかるほど隋軍の糧食は少なくなり、兵士たちの疲労も溜まるからだ。対して高句麗軍は本拠地で休息と食事を充分とりながら、気力を高めじっくり腰を据え敵を待ち受けることが出来る。
高句麗北部の要害の地、遼東城(中国の遼寧省遼南遼陽市)に二万の兵とともに詰めていた乙支文徳は全ての兵に出撃命令を出し、隋との国境である遼河にと向かった。遼河とは内蒙古の興安嶺に源を発し、そこから数多くの支流と合流した後、遼寧省を経て遼東湾に注ぎこむ大河だ。その全長はおよそ二二〇〇キロメートル。流れは比較的緩やかなものの、河幅は二、三キロと広く川床が高い。
大まかに言えば、この河川の西側が隋、東側が高句麗と言ったところである。この当時の高句麗は最盛期に比べればいささか力が落ちてはいるものの、依然として朝鮮半島の北部と西部、さらに中国大陸旧満州地域といった広い地域を支配統括している強大国なのだ。もちろんそれでも隋には到底及ばないのだけれど。
乙支文徳は指揮官用の金の鎧と兜を身に着けると(全然似合っていないが)高句麗の兵士たちに遼河東岸の武麗邏(中国の遼寧省瀋陽新民県付近?)という場所に陣を張るよう命令を出した。これは訓練で何度も行なっていることなので、兵士たちも手慣れたものである。
一方、向こう側の西岸にも隋軍の兵士が続々と集まっている様子が見え始めた。
本当ならばまだ敵が態勢を整えきっていないいまのうちに矢を射かけるなりなんなりして攻撃したいところだが、遼河の川幅は薩水のそれよりもはるかに広く、対岸にいる兵たちの姿など豆粒のようにしか見えない。この距離で矢を射っても到底届かないだろう。
射撃兵を何人か小舟に乗せて送りこんで、射程距離ギリギリの位置から攻撃するという策も考えたが没にした。こちらが射程距離内ということは向こうからも射程距離内だし、舟の上では身動きがとりにくい上、揺れるため狙いが定めにくい。それに隋軍だって馬鹿ではないから、高句麗軍が舟から攻撃してくる可能性くらいは考慮して、警戒しているに決まっている。
焦る必要はない、と乙支文徳は自分に言い聞かせた。自分たちは迎撃する側なのだから、敵が攻撃してきてからそれに対応して柔軟に動くほうがいい。そういう訳で乙支文徳は部下たちに第二級臨戦態勢をとって、いつでも攻撃に移れるように待機しているようにと命じたのだった。
「敵が攻撃してくるのを待つだけというのは、なんか嫌ですね」
乙支文徳の傍らで不安げな様子を隠しきれずにそう呟いたのは、嬰陽王の末弟である大陽だ。彼は平壌城を動けない嬰陽王の名代として、征虜大将軍である乙支文徳の働きを補佐あるいは監督するために、この最前線まで赴いてきたのである。
……と言うのは建て前。まだ若くて経験も少なく、しかも王族の一員としてお坊ちゃん育ちの大陽が乙支文徳の助けになれるようなことなど全くないだろうし。嬰陽王から全権を与えられている乙支文徳が、いまさら王の弟などに行動を監督されるいわれなどないのだから。実際のところは、高句麗の命運を懸けるであろう戦いの様子を自分の目で見てみたいと思った大陽が、わがままを言ってついてきたというだけのことである。
末弟に甘い嬰陽王は何事も経験だと言ってあっさり随行を許したし、乙支文徳も、以前から色々と自分に懐いているこの聡明な少年のことは弟のように思っていたので、異論はなかった。
次兄の大成だけはそれは危険だと顔をしかめたが、隋軍の圧倒的な兵力が迫ってきているいま、おとなしく平壌城に引っこんでいたとしても必ずしも安全とは言いがたいと反論されるとなにも言い返せなかったらしく、渋々ながらも承諾した。
大陽は初めての戦いを前にして緊張している……と言うより怯えている様子で、椅子の上で身体を細かく震わせていた。
「落ち着いて、殿下。いや、大陽」
そんな少年に、乙支文徳はそっと耳打ちをした。
「初めての戦で緊張しているのは分かるけど、大元の……陛下の名代として来ている大陽がそんなにおどおどしていては、兵の士気に関わる。ふりでもいいからもっと堂々としていなさい」
「え? あ、はい。すみません」
乙支文徳の言葉に大陽は真面目くさった顔で頷くと、表情をキリリと引き締め偉そうに腕を組んで、足は肩幅よりも大きく開くと、いかにもふてぶてしそうに顔を空に向けて見せた。
そこだけ見ると、さすがに嬰陽王の弟というような威厳と余裕にあふれた姿だが、よく見ると足などが細かくぶるぶる震えており、やっぱりねとおかしくなってしまう。
『ぼくはいま、虚勢を張っているところでーす』と喧伝しているようなものだ。近くにいる兵士たちもそれに気づいているようで、必死に笑いをこらえる様子を見て取ることが出来る。
もっともこの場にいる人間の中で、大陽を馬鹿にしたり軽蔑したりしている者は一人もいない。彼は王族としては末席であり、経験も知識も少ない未熟な少年だが、その素直さとなにごとにも一生懸命な性格から、国民の誰からも愛され親しまれているのだ。
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