ハンリュウ！ 〜隋帝国の野望〜

46 遼東城の戦い・その６

「孟もう将軍！」

　全身に矢が突き刺さり大量の血を吹き流しながら倒れこむ孟叉もう　しゃのもとに、辛世雄しん　せいゆうは慌あわてて駆け寄っていこうとした。だがそんな彼の両腕を衛玄えいげんと荊元恒けい　げんこうが左右からつかんで止める。

「駄目じゃ、辛将軍。残念じゃがもう間に合わん」

「衛将軍の仰おっしゃる通りなりにけり。いまここで辛将軍が飛びこんで行こうとも、遺憾いかんなれど結果はなにも変わらぬ候そうろう」

「し……しかし衛将軍、荊将軍。我らは孟将軍を救うためにここまでやってきたのではござらぬか？　なのにここで孟将軍を見捨てると言うのは……」

「気持ちは分かるが、もはや孟将軍は手遅れじゃ。本来の目的を果たすことが出来なかったのは残念じゃが、ここは退ひくしかない」

「しかし……」

「ムッシュ・王。冷静におなりなさい。いまこの場にはわたしたちだけではなく、孟将軍が率ひきいてきた隋ずい軍の兵士たちも大勢残っているのですよ。彼らを無事に本営ほんえいに帰すのもわたしたちの責任ではないのですか？」

　たしなめるように言った銭士雄せん　しゆうの言葉に辛世雄はハッと我に返った。そうだ。自分たちが助けに来たのは孟叉だけではない。彼が引き連れてきた隋軍の兵士たちもなのだ。ここで自分がとり乱していては、助けられるはずの兵士たちを助けることさえ出来ない。

「……その通りでござるな衛将軍、荊将軍、銭将軍。孟将軍を救うのに失敗したことは後でゆっくり悔くやむとして。いまは兵士たちを無事に逃がすことこそが重要でござる」

「分かってくれ申したか。やれ嬉うれしや、辛将軍」

　荊元恒はほっとしたように微笑ほほえむと、次いで背中に担かついでいた弓を素早く構えて、矢筒やづつから数本の矢を一度に取り出し敵兵に向けつがえながら衛玄のほうに視線を移した。

「衛将軍には孟将軍の部下たちを連れ、先に逃ぐるを望むものなり。その間、高句麗コグリョ兵どもは妾わらわと辛将軍、銭将軍が引き受けるゆえ」

「それは危険じゃ!!　この場には儂わしと辛将軍と銭将軍が残るゆえ、荊将軍こそ孟将軍の部下を率いてこの場からお逃げ下され」

「……危険とな？」

　衛玄の言葉に、荊元恒は口唇くちびるの端はじを小さく持ち上げ、歪ゆがめた。それだけで、それまでのどこか人が好よく呑気のんきそうだった彼女の表情が獰猛どうもうな猫科の肉食獣のごとき顔つきにと変化していく。彼女は小さく笑みを浮かべると、次の瞬間、斬りかかってきた高句麗兵たちに向けて数本の矢をまとめて射ち放った。

「誰に向かいて、そのような口をきくものぞ？　衛将軍」

　荊元恒の射ち放った矢は全てが狙ねらい違たがわず、調子に乗って攻めてきた高句麗兵の心臓や眉間みけんに命中。彼らは断末魔だんまつまの悲鳴をあげる暇もなく、地面へと倒れ落ちる。荊元恒はさらに目にも止まらぬ速さで何十本もの矢を立て続けに放ち、同じ数だけの高句麗兵の生命を奪うばっていった。

「……失礼いたしましたじゃ。荊将軍」

　荊元恒の見事なまでの手際てぎわを目まの当たりにさせられて、衛玄は苦笑いを浮かべながら一礼して言った。そんな衛玄に、荊元恒は早く行けと言うようにしっしっと手を振る。

「妾たちのことは心配ご無用。されど無論、どうしても危ないと判断すれば、いと速すみやかに戦線離脱とんずらするゆえ、あまり長きの時間をかせぐは困難なり。その短い時間の間、部下たちをきっちり逃がすと約定やくじょうしてたもれ？」

「分かりました。どうかご武運を。辛将軍、荊将軍、銭将軍」

　衛玄はそれだけを言うと孟叉の部下たちを率いて脱出するため、年齢トシに似合わない素早い動きで走り出していった。

「そなたらの相手は、妾たちなり」

　隋の兵士たちを指揮して脱出しようとする衛玄を追って高句麗兵たちが走り出す。だがその前に立ち塞ふさがるように荊元恒が弓を構えた。辛世雄と銭士雄も剣を抜いて高句麗兵たちと斬り結ぶ。

　だが多勢に無勢であることだし、なによりここ遼東城ヨドンソンは高句麗コグリョ軍の本拠地ほんきょちである。そうそう保もちこたえられるものではない。辛世雄も荊元恒も銭士雄も善戦しはしたが、数分もしないうちに数百もの高句麗兵に周囲を取り囲まれそうになってしまった。

「……辛将軍、銭将軍。まだ戦う力は残されておろうか？」

「もちろんでござるよ、荊将軍……と言いたいところでござるが……。さすがに……これ以上はちょっと……いや、かなりきついと言わざるを得ないでござる」

「右に……同じ。マドモアゼル・荊のほうは、どうですかな？」

　息を切らしながら言う辛世雄と銭士雄に、荊元恒も弱々しく首を横に振る。

「まことに無念なことながら、矢が尽つきてしまい候。いかに足掻あがけど、これ以上戦うことは不可能なりにけり」

「乙支文徳ウルチ　ムンドクめ。わずか一〇分程の時間さえかせがせてくれないとはね。噂うわさには聞いていましたが、本当になんという男でしょう」

　荊元恒は忌いま忌ましげに、銭士雄は感嘆かんたんするように呟いた。

「では。そろそろ拙者せっしゃたちも逃げるとするでござるか」

「……異議いぎなしでありんす」

「同感ですムッシュ、マドモアゼル。ただし敵が逃がしてくれればの話ですけどね」

　辛世雄の言葉に、荊元恒と銭士雄は軽く苦笑いを浮かべながら頷うなずきあうと、そのまま踵きびすを返して全速力で逃げ出した。これ以上この場にとどまり戦い続けていても、無駄死にするだけでなんの意味もないからだ。だが地の利に勝る高句麗軍は辛世雄たちの退却たいきゃくルートすらもすでに予測よそくしていたらしく、次から次へと兵士たちが周囲から回りこんできては巧たくみに辛世雄たちの行く手を塞ふさいでいく。

「逃がすか！　卑劣ひれつな侵略者しんりゃくしゃどもめ!!」

　それでもなんとか逃げ続けてきた三人だったが、ついに高句麗軍兵士の一人が手にした剣が、最後尾を走っていた銭士雄の背中をまともに斬りつけてしまう。