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50 怒れる煬帝・その2
しおりを挟む「宇文述よ!」
内心の怒りを押し隠そうともせず、煬帝は雷鳴のごとき声音で言葉を放った。宇文述としてはただただ畏れ入り、額を床にこすりつけ平伏するしかなかった。
「貴様はこの戦いが始まる前に、朕が高句麗遠征に参加することを必死に止めていたな。皇帝たるもの軽々しく玉座から動くべきではないとか、外征は軍人に任せて皇帝は国にいて内政の充実を図るべきだとか、果ては戦闘に巻きこまれて怪我をする恐れがあるなどと、色々屁理屈をこねて」
「……はっ、はあ」
「それはこのような惨めな様を朕に見せることを躊躇ったからか。もともと貴様は自分が無能の大間抜けだと知っておったから、この戦いには勝てる訳がないと思った。その無様な戦いぶりを朕に見られるのを恐れ、なんとかして朕の親征を阻もうとしたのか?」
「いえ、陛下。小官は決してそのようなことは……」
「言い訳はよい! 朕が貴様を重臣として召し抱えているのは、こんな情けない戦いをさせるためではないぞ。よいか!? 我らは東アジア全ての国を支配下におき、隋を中心とした東アジア大帝国を築かねばならぬのだ!! そうして徐々にその支配権を西洋諸国にまで広げていき、やがて世界の全てを隋の名の元に統一するために!! 今回の高句麗侵攻はその輝しき第一歩となるべきものだったのに。なのに、貴様という男は……」
「ははっ。申し訳ございません、陛下!」
腹の底から沸き起こる怒りを持て余すかのごとく、煬帝は煮えたぎった油に大量の水をぶっかけたような唸り声をあげた。そんな煬帝に対して、宇文述はなにも言い返すことは出来ず、ただただ這いつくばって必死に許しを請うだけだ。
「もうよい、宇文述。貴様の隋軍司令官の任を解き、副司令官に降格する!! 代わりの司令官は……」
煬帝がそう言うと、于仲文が心なしかニヤリと笑みを浮かべたような気がした。その気配を察しさては……と宇文述は気が付く。この男は宇文述にわざと軍事的な大失敗をさせ、それを煬帝に見せつけることで煬帝の怒りを買わせて司令官の地位から追い落とすことを狙っていたのか……。
こんにゃろめと、宇文述は平伏したまま顔だけを横に向け、于仲文の顔を睨みつけた。おかしいと思ってはいたのである。そういう企みがあったからこそ、于仲文は遼河で高句麗軍を敗った後、敢えて遼東城を落とそうとしなかったのだ。何故ってあのまま遼東城を落としていたら、その手柄は司令官である宇文述のものとなってしまう公算が大きかったからだ。
だから于仲文は自分で乙支文徳を倒そうとはせず、宇文述が遼東城に向かうのを止めなかった。どうせ宇文述に乙支文徳を斃すことなど出来っこないと高を括っていたのである。
予想通り宇文述が戦いに負け、司令官の地位を剥奪されたら、次にその地位に就くのは誰か? 当然、副司令官である于仲文だ。その後于仲文は自ら司令官として乙支文徳を倒し、遼東城を落とす。さらにその後は平壌城も陥落せしめ、国王である嬰陽王の首も獲るのだ。宇文述をどん底まで追い落とし、自らは高みに上がる。この男は、それを狙っていたのか……。
そのことを理解した宇文述に対して于仲文は『いまごろ気がついたのか。ば~か』と言わんばかりの視線を向けてきた。宇文述は怒り心頭だ。このまま煬帝によって于仲文が新たな司令官に任命されたら、その後どんな大騒ぎになっても構わないから、ナイフで刺し殺してやろうかと思ったくらいだ。
だが……。
「代わりの司令官は……朕である!!」
煬帝ははっきりきっぱり、堂々とそう言い放ったのだった。これには宇文述はもちろんのこと、于仲文さえも『えっ?』と間の抜けた声をあげ、思わず顔を上げて御簾越しにまじまじと煬帝の顔を見つめてしまう。
「これから先は、朕が司令官として隋軍第一陣、第二陣、第三陣の総指揮をとる。宇文述と于仲文はそれぞれ同格の副司令官として朕の命に従い、軍を動かせ。大まかな予定としてはまずは遼東城攻略、次いで平壌城侵攻を行なうこととする」
「は……はあ」
宇文述としてはなんと応えたら良いのか分からずに、曖昧に頷くしかなかった。于仲文に至っては魂が抜けてしまったかのごとく、ぼんやり茫然とたたずんだままだ。
「しかし……遼東城攻略となると、まず障害となるのはその乙支文徳とかいう輩か」
そんな二人の気持ちなどわずかも斟酌することなく、煬帝は苦々しげな声を出した。
「于仲文よ。高句麗軍の征虜大将軍という乙支文徳なる男は相当の知将であるとのことだが、それは確かか?」
「はっ! それはもう……」
ショックのあまり幽体離脱しそうになっている于仲文の代わりに、副官の劉士龍がここぞとばかりに追従の声をあげる。
「地の利があるとは言え、わずか二万の兵で伯通様の率いる隋軍第一陣を翻弄した上、我が帝国が誇ります十二将軍のうち三名までをも討ち果たした男ゆえ。少なくとも朝鮮半島より東で、彼に勝る知将は存在しますまい。大陸全体に範囲を広げましても、勝るのは我が主、于次武様くらいのものかと」
だが煬帝はそんな劉士龍の言葉などほとんど聞いてはいないようで、御簾の向こうでくつくつと無気味な嗤い声をあげていた。
「なるほど。高句麗の夷狄どもの中で手強いのは嬰陽王ただ一人だと思っていたが、もう一人とんでもない伏兵が存在していたという訳か。だがそれだけの知将ともなれば高句麗の民どもや兵たちの人望も、さぞかし厚いのであろうな」
「はっ。はあ。それはもちろん」
本当はよく知らなかったが、とりあえず宇文述はそう応えた。
「ならば逆にそ奴の素っ首を刎ねてしまえば高句麗兵どもは戦う気力をなくし、朕の前に自らその頭を下げて、領土と食料、それにありったけの金銀財宝をも差し出すであろうと思うがどうだ?」
「はあ……。御意にござります」
「よし! 宇文述に于仲文よ。乙支文徳と嬰陽王、もしこの二人を戦場で捕えたり、あるいは我が隋軍本陣に降伏してきた場合は、直ちに朕の元に連れて参れ!! そうして高句麗人どもの目の前で首を斬り落としてやるのだ。さすれば、奴らの抵抗の気運を根本から断ち切ってやることがかなおうからな。がっはっは!!」
それだけを言い捨てると、煬帝は宇文述と于仲文に向け、いつでも兵を動かせるよう準備をしておけとのたまった。もちろん皇帝の言葉に逆らうことは出来ず、宇文述と于仲文はそれぞれ一礼してから踵を返し、なんとはなしに仲良く二人並んで移動宮殿を出る。
「……なんてこった。くそ! 主上自ら司令官になるだって? 戦争に関してはド素人の主上が司令官になって、あの乙支文徳に勝てるはずがないではありませんか! ぼくちゃんに任せておけばそれですむものを。主上は一体なにを考えておられるのかっ!!」
ある程度歩いて移動宮殿から離れると、于仲文はいきなり怒りを爆発させるようにそう声をあげた。宇文述はその彼らしからぬ大声に驚いてびくりと肩を震わせ、目を丸くして于仲文の顔を見つめる。それで于仲文はようやく、己が皇帝批判ともとられかねない言葉を、よりにもよってライバルである宇文述の前で発してしまったことに気がついたらしく、はっと息を飲みこむような仕種をした。
だが于仲文はすぐにまた例の不敵と言うか他人を小馬鹿にしきったような表情を浮かべて、へっと嘲るように嗤うと、そのまま一人でどこかに歩き去っていってしまった。遼河や遼東城の戦いで大敗北を喫した宇文述がいまさらなにかを煬帝に告げ口したとしても、どうせまともに受け入れられやしないと思い直したようだった。
それは恐らく事実であるだけに、そんな于仲文の態度は宇文述にとって癪にさわるものだった。だが今回はさほど腹が立たない。
煬帝の思いつきのせいで、于仲文が必死に考えたであろう司令官昇進策があっさり立ち消えになってしまったこと。世にも情けない表情を浮かべた于仲文の顔を見られたこと。それだけでも多少は溜飲が下がり、まあいいかと思えたからである。
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