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58 平壌城の戦い・その3
しおりを挟む高句麗の王城であるはずの安鶴宮を守る守備兵たちのへっぽこぶりは、これまた来護児たちの予想以上だった。
なにしろ隋軍兵士たちが脅すように武器を振り回すだけで、彼らはまともに戦おうともせず城の奥のほう、奥のほうと逃げ出していくのだから。その情けなさぶりには呆れてため息も出ないほどである。隋の兵士たちは調子に乗って、守る者すらいない城門を我が物顔に通り抜け、競うように城の奥深くまで入りこんでいく。
「おーい、こっちに金貨や銀貨がたっぷり隠してあったぞ!」
「こっちには最高級の真珠にダイヤモンド、豹や黒貂の毛皮に朝鮮人参もあるぞ!」
「こっちなんか女たちでいっぱいだぞ。絶世の美女ばかりでよりどりみどりだ。選ぶのに苦労するほどだぜ!!」
侵入者除けのための仕掛けだろうか。まるで迷路のように狭く、複雑に入り組んだ城の廊下を歩いていると、上の階で誰かがそう歓声をあげるのが、来護児の耳に届いた。略奪するものを探して城のあちらこちらをうろつき回っていた兵士たちはその声を聞くと、いやっほぅなどと叫びながら、競うように上の階へ上がっていく。
へえ。本当に財宝や美女が隠されていたのかと来護児は感心したが、あることに気がついてふと首をかしげた。誰だか知らないが、そいつは金銀財宝やら美女やらを見つけたのなら、何故それを自分だけのものにしようとはしないのだ? 何故わざわざ仲間に声をかけて、自分の取り分が少なくなるようなことをする?
「……!! まさかっ!?」
ふと。なんの脈絡もなくあることに思い至り、来護児は顔面を一瞬で蒼白にして、上の階に駆けていく兵士たちに向かってあらん限りの大声で叫んだ。
「行っちゃダメ! これは罠よっ! 守備兵どもは油断している隋軍の兵たちを一か所に集めて、一気に殲滅しようと企んでいる……」
だがその言葉が終わる前に、上の階からは悲鳴と共に、身体中から血を流した隋の兵士たちが何十人もまとめて雪崩のように落下してきた。なにが起きたのか分からずにぼんやりして茫然と足を止めている残りの兵たちに向け、今度は大量の矢が降り注いでくる。
「うわあぁーっ!?」
その瞬間、形勢は完全に逆転した。混乱して戦う気力もなく悲鳴をあげながら逃げ惑っているのは、いまや隋兵たちのほうだ。逆に守備兵たちは嵩にかかり、これまでの臆病っぷりが嘘のように、果敢に勇敢に戦いを挑んでくる。
守備兵たちはわずか八〇〇〇の寡兵、隋軍は四万の大軍だ。普通なら当然大軍のほうが有利なのだが、狭い場所での戦いとなると話は別。しかも守備兵たちが戦意満々なのに対して、隋兵たちは思い切り逃げ腰である。無理もない。完全なる楽勝ムードだったところに、強烈なカウンターパンチを食らってしまったのだから。
隋兵たちは混乱しながらも、とにかく城の外に逃げようと走り出した。しかしただでさえ狭い城の通路中に四万もの兵士たちが入りこんでいる訳だから、脱出どころか思うように動くことすらままならない。しかも安鶴宮内部は入り組んだ迷路のような構造になっており、どちらに行けば外に出られるのか全く分からないのだ。
数が多いことが逆に災いしてしまった形である。隋兵たちは狭い場所に固まって押し合いへし合いしているものだから、守備兵たちはろくに狙いも定めず、ただ矢を射るだけで面白いくらい簡単に隋軍兵士たちを討ち取ることが出来てしまうのだ。隋兵たちは混乱し右往左往しながら、為す術もなく、守備兵たちが間断なく射ち続ける矢の生きた的となる運命を甘受するしかなかった……。
「……やられた。私としたことが。完全に高句麗人どもの思惑に乗せられてしまったわ」
次から次へと、虫けらのように大量に殺されていく部下たちの姿を見ながら、来護児は目眩のようなものを覚えてよろめいた。
(相手の心理を読んだ上でそれを利用し、自分の意思で進んで行動しているんだと思わせるよう巧みに誘導して、自分の思う通りに動かしてこそ名将ってもんよ)
唐突に先程自分自身で思った言葉が来護児の脳裏に蘇った。そう。敵は来護児たち隋軍兵士の心理をこれ以上ないと言うくらいに見事に読み切り、操ったのだ。
もちろん、黄海で高句麗水軍が情けないくらい見事に敗北したのもわざとだったのだろう。街の入り口で平壌城の守備兵たちがまともに戦おうとせず、おびえたように城の中に逃げたのも、来護児たちを罠が仕掛けてある安鶴宮内におびき寄せるために違いない。
来護児も水軍の兵士たちもそんな企みがあるとは夢にも思わず、平壌城に残された兵たちは弱いのだとばかり思いこんで油断してしまった。さらに隋水軍は数的に有利であるという思いも手伝って、陸軍と綿密に連携して共に平壌城を攻撃するという当初の案をあっさり放棄して水軍単独での平壌城攻めを決定し、このような結果を招いてしまったのである。それが全て、敵の書いたシナリオ通りの行動であるとも知らずに。
そのシナリオを書いた人物とは恐らく……いや、一〇中八、九間違いない。陸軍から送られてきた伝書鳩の通信に書かれていた高句麗軍随一の知将、乙支文徳征虜大将軍だろう。彼は遼河と遼東城において数倍の数の隋陸軍を相手に互角以上の戦いを繰り広げながら、この平壌城ではその場にいないにも関わらず来護児の思考を時間と空間を超えて完璧に読み取り、一〇万もの水軍を翻弄したのだ。
「なんて……なんて男だ。乙支文徳とかいう奴は怪物か!!」
自分は乙支文徳という顔も知らない異国人の掌の上でずっと踊らされ続けていたのだということに気づき、さすがの来護児も背筋が凍りついてしまうかのような恐怖感に襲われた。
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