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66 乙支文徳の決断
しおりを挟むそれから時は飛ぶように過ぎて、およそ五か月ほどが経った。遼河を渡ってきた隋軍と最初に矛を交えた時はまだ春の足音が聞こえ始めたばかりで、風や空気も冷たく雪もわずかに残っていた。だがいまや季節は晩夏の頃を迎え、太陽の恵みをその身に受けた緑の草花が鮮やかに映え、空には眩しいばかりの青が広がっている。
しかしそんな自然界の移り変わりとは無関係に、人間たちは相も変わらず愚かで無益な戦いを繰り広げていた。もちろん乙支文徳ら高句麗軍の兵士たちに言わせれば、自分たちは隋軍が攻めてくるから仕方なく戦っているのであって、決して戦いを好んでいる訳ではないと言ったところだろうが。
実際この五か月の間にも、煬帝を司令官とする隋軍は連日遼東城に攻撃を仕掛けてきていた。それを乙支文徳率いる高句麗軍が辛うじて撃退し続けていたのである。
乙支文徳にとって幸いだったのは、敵の指揮命令系統がかなり混乱していたことだ。
煬帝は隋軍第一陣と第二陣とを一〇個の大隊に編成し直し、宇文述と于仲文、それに十二将軍の残り八人らにそれぞれ一つずつ率いらせた。それらを順番に遼東城に向けることで多角的に波状攻撃をかけ、高句麗軍を消耗させる狙いがあったらしい。
高句麗軍が少数であり、連日の戦いで疲労の極みにあることを考えればこれは確かに有効な作戦であった。煬帝も乙支文徳が思っていたほどには馬鹿ではなく、それなりに戦略眼を持ち合わせてはいたようだ。
だが、どんなに完璧な作戦を立てても、それが確実に実行され、末端レベルまでうまく運用されなければなんの意味もない。
煬帝の策が見事に生きるためには隋軍一〇大隊が密に連絡を取り合い、それぞれの隊が右手と左手のように完璧な連携を取ることが必要である。そうでなければA隊が単独で正面から高句麗軍と戦っている間にB隊は全く関係ない場所をうろうろしていて、C隊は休憩をしているなどといったことになり、却って各個撃破の対象になりかねないのだ。
煬帝は部隊間の横の連絡と言ったものをあまり重視せず、自分と部下たちの間の縦の連絡のことばかり気にしていた。司令官は自分なのだから、自分の命令が正しく部下たちに伝われば、それで充分だと思っていたのであろう。
しかし戦況と言うものは刻一刻と、微妙に変化していくものである。五分前には正しかったはずの判断や命令が五分後にも正しいとは限らない。指揮官たる者、時には左脳をフル回転させた論理的な思考で、時には右脳を駆使した勘や感性で、過去を分析し現在の状況を見極め未来を見据えた行動をとらなければいけない。
たった一つの部隊を率いる大隊長クラスの指揮官でさえ、それだけのことをしなければならないのに。ましてや一〇の大隊を自分だけで完璧に動かそうとするなど、一〇体のマリオネットの動きを、一人で操ろうとするようなものだ。乙支文徳や于仲文クラスの知将ならともかく、煬帝にそのような器用な真似が出来る訳がない。
おまけに煬帝は自分では遼東城に赴こうとせず、移動宮殿を武麗邏に留め置き、後方でふんぞり返ったままだった。宇文述などから早馬で送られてきた戦況報告書やこれからの行動の具申書などを見て、新たに細かい作戦や指示を命令書に書き連ね、それを再び早馬で前線に送るという方法で指揮をとっていたのだ。
せめて、将軍たちにある程度の自由裁量権が与えられていれば、彼らは現場レベルで協力し合って司令官である煬帝の指揮監督能力不足をなんとか補えたかもしれない。だが煬帝は部下たちにあまり大きな権限を与えすぎると指揮権が分散し、軍が分裂ないし混乱すると恐れたようである。
そのため実際問題として、将軍たち個々人に与えられた権限は極めて小さなものでしかなかった。高句麗軍と戦端を開いたり城を攻めたりする時にさえ、あらかじめ煬帝に具申して許可を得なければならなかったのだ。これで軍が上手く機能するはずがない。
細作の報告でそのことを知らされた乙支文徳は、その煬帝の失策を最大限に利用することに決めた。隋軍は大隊長である将軍の判断だけでは戦うことも逃げることも出来ない。そこにつけこむスキがあると睨んだのだ。
乙支文徳は兵たちをただ城の中にこもらせるだけでなく、時には街の中に出て隋軍を攻撃するように命じた。ただし正面からまともに戦うのではなく、横から不意討ちを食らわせる程度だ。一撃食らわせたらすぐにその場を離れ、別の場所に逃げる。そこでまた別の大隊に一撃を食らわせて逃げるということを繰り返すのだ。いわゆる一撃離脱の戦法である。
隋軍としては逃げる高句麗軍を追いかけて戦いたいところだろうが、彼らは煬帝の命令なしに勝手に戦闘行為を行なうことは出来ない。仕方がなしに武麗邏まで使いを送ってこれこれこういう状況だから高句麗軍と戦いたいと煬帝に許可を求める。だがその許可が遼東城に返ってくる頃には、高句麗軍は再び城門を固く閉じて城の中に引き籠もるのだ。
隋軍は戦いたくても戦えない状況に陥ることになる。そうなると仕方がないので再び武麗邏に使いを送って煬帝に、一時退却の許可を求める。それが認められて隋軍が後ろを向いた頃を見計らって、高句麗軍は門を開けて再び出陣。隋軍を横から攻める。しかし隋軍は煬帝の許可なしでは戦えないのでまたまた武麗邏に使いを送って……というのを延々と続けてきた訳である。
さらに状況が苦しくなってきたら、降伏して時間を稼ぐ。もちろんフェイクだが、現場の将軍たちには独断でその降伏を受け入れる権限はないため、彼らはいったん戦闘を中止してまたまたまた武麗邏にいる煬帝に使いを出した上、高句麗軍が降伏してきたけどどうしますかとお伺いをたてるしかない。その間に稼いだ時間を使って態勢を整えて、降伏を撤回して再び攻撃を仕掛けるのだ。
宇文述や于仲文、十二将軍らはかなり苛ついているはずだ。
この五か月間と言うもの、彼らは乙支文徳の思うがままに翻弄され敗れ続けているが、それは彼らが無能だからではない。なにしろ彼らには自分の判断で戦ったり退却したりする権限さえないのだから。しかもその権限を持つ唯一の人物は遠く離れた場所にいる。
これはどう考えても煬帝の作戦ミスだ。彼らは全員そのことに気づいているはずだが、まさか皇帝に対して『お前の作戦がヘボだから負け続けているんだ』などと言う訳にもいくまい。結果、彼らは手足を縛られ目隠しさえされたような状態で、悶々とした精神状態のまま高句麗軍と戦い続けざるを得ない。さぞかし、フランストレーションが溜まっているだろうと乙支文徳も同情にたえなかった。
だが呑気に他人に同情などし続けているような贅沢は、乙支文徳には許されていない。五か月間も膠着状態が続いたことで、煬帝もさすがに自らの戦術ミスに気がついたらしく(あるいは単に面倒臭くなっただけかもしれないが)近いうちに司令官としての権限を全て于仲文に委譲するつもりらしい、という報告が隋軍内部にひそませてある細作によってもたらされたのである。
これは、潮時かなと乙支文徳は思った。高句麗の兵たちは誰もがみな著しく疲労している。重傷者も多い。そこに司令官となった于仲文率いる、統一された指揮権と優秀な指揮官を取り戻した隋軍に攻めてこられたら、こらえ切る自信は乙支文徳にはなかった。
六月も終わりに近づこうかというある日。乙支文徳は一つの決断を下した。彼は執務室に中小隊長クラスの主な指揮官たちを呼び集めて、おもむろにこう口を開いたのだ。
「遼東城を、放棄する」と。
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