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75 乙支文徳VS于仲文・その7
しおりを挟むそうこうしているうちに、先程狼煙らしきものが上げられた方向から二人の従者が、なにやら不安げにキョロキョロ辺りを見回しながら、こちらに向かって駆けてくる様子が見られた。彼らの不安そうな顔を見ていると、何故だかこちらまで不安な気分になってしまう。衛玄は嫌な予感を覚えて彼らを呼び寄せ、どうしたのかと尋ねた。
「それが……乙支文徳将軍の姿がなくなってしまったんです」
従者の一人が于仲文に怯えるように、おどおどと目を伏せながら小声で言った。
「狼煙を上げた後。急に腹具合が悪くなった、トイレに行きたいっておっしゃったものですから、便所の場所を教えてやったんです。だけど、いくら待ってもいっこうに帰ってくる様子がなくて。おかしいなあと思って様子を見に行ったんですが、その、つまり……」
「そこはすでにもぬけの空だった……という訳でござるな」
言わずもがなのことを呟くと辛世雄はやれやれと肩を落とした。やっぱり……と言った気分である。衛玄も空しく首を横に振る。もはや乙支文徳がなんらかの目的を持ってこの隋軍本営に忍びこんできていたのは間違いない。その乙支文徳が姿を消したということは彼の目的はすでに達成されてしまったと見て間違いないだろう。だとすれば彼がこの本営から逃げ出す前に、なんとしても捕まえなければならない。
「乙支文徳を探せ! なにがなんでも絶対に見つけだして、取っ捕まえてふん縛ってオレの前に引っ立ててくるよう、全兵士に通達を出すんだ!! 急げーっ!!」
ヒステリックに叫んだ宇文述の言葉に、二人の従者は弾かれたように飛び上がって敬礼をすると、『はっ!』と返事をして、そのまま急いでどこかに駆け出していった。于仲文や劉士龍は顔面を蒼白どころか真っ白にしながら、茫然とその場に立ち尽くしている。自分たちが重大なミスを犯してしまったことを理解していないのか……いや、理解はしているがそれを認めたくなく、現実逃避しているのだろう。
「しかし乙支文徳の奴め。捕まるかもしれないという危険を冒してまで、なにしにわざわざ……しかも単身でこの隋軍本営地までのこのことやって来おったのだ? なにかを盗み出しに来たという様子でもないようだが」
魂をどこかにさまよわせているふうの于仲文や劉士龍などにはもはや一顧だにすることなく、しばらくの間苛立たしげに地団駄を踏み続けていた宇文述だったが、ふとそのことに思い至ったというように呟くと、しきりに首をかしげ始めた。
そんな宇文述の様子を見て、衛玄は一瞬ちらりと辛世雄と視線を交わしあってから、コホンと一つ咳払いをした後でおもむろに口を開く。
「いえ、許国公。奴は、とんでもないものを盗んでいきましたじゃ!」
「……? 『あなたの心です』?」
「違うっ!!」
場にそぐわないボケをかます上司に、衛玄はらしくなくも思わず唾を撒き散らしながら怒鳴りつけてしまう。
「乙支文徳が盗んでいったのは、現在のわが軍が火の車状態にあるといった情報でござるよ。現在隋軍は食料が著しく不足していて、もうあと何日もしないうちに食料庫がすっからかんになるのは避けられないという状態でござる。食料がなければこれ以上戦い続けることは出来ず、退却するしかござらん。隋軍がそれほどの窮状にあることを、我々は知られてしまったのでござる。よりにもよって、あの乙支文徳に」
衛玄の後を継ぎ、辛世雄がぼそりと言葉を紡いだ。それを聞いてようやく宇文述も事の重大さに気がついたのか、一気に血の気が引いていったかのごとく、顔を真っ青にして黙りこんでしまう。
逆に、一気に血を昇らせ顔色を怒濤の真紅に染めたのは、于仲文だった。彼は、衛玄すら怯えてしまうほどの勢いをもち両手で卓上を思い切り叩きつけると、その双眸に激しい怒りの炎を灯らせながらゆらりと立ち上がったのだ。
「乙支文徳……あの男は……ぼくちゃんを謀たのですか……? 隋国で……いえ、中国史上でも一番の知将であるこのぼくちゃんを……。たかだか田舎の小将軍風情が……。おのれ……おのれ! よくも……」
それだけを呟くと于仲文は、鬼や悪魔ですら恐れおののき道を譲ってしまいそうな凄まじい憤怒の表情を浮かべ、そのままギリギリまで引き絞られた弓の弦から放たれた矢のように、猛スピードで駆け出していった。
「うわ。すごいスピードじゃ」
「人間、必死になればなんでも出来るもんでござるな」
そんな于仲文の様子を見て衛玄は辛世雄と顔を見合わせながら、半ばは感心したように、もう半ばは呆れたように呟いた。だがすぐにそんな場合ではないということに気づくと、びっくりしてその場で腰を抜かしてしまっている宇文述はそのままに、二人並んで慌てて彼の後を追って走り出す。
そうしてなんとか于仲文に追いついた後、しばし乙支文徳を探して本営中を走り回る三人だったが。そんな彼らの前に空気を読まず飄々とした足取りで近づいてくる一人の男の姿があった。
彼は顔を隠していたが、衛玄はその人物が誰なのか一目で気がつくことが出来た。顔にストッキングをかぶったまま昼間の道中を堂々と歩くことの出来る男など、総勢二〇〇万を数える隋軍の中でもただ一人しか存在しないからである。
「屈突将軍!」
「おやおや。誰かと思えば衛将軍。それに辛将軍に于司令官閣下ではござらぬか。このような所でお会いするとは奇遇ですな。いや、同じ軍の同じ部隊に所属しているのだから、奇遇もへったくれもないですか。これは一本とられ申したな。あーっはっはっは」
相変わらず、一人でボケて一人でウケては大笑いをかましている屈突通だった。そんな彼に少なからずイラッとしつつも、衛玄はとりあえずその場で立ち止まった。それにつられてと言うわけでもないだろうが、辛世雄と于仲文もハアハアと息を切らせながらその場で足を止める。
「屈突将軍。いい所でお会いしましたじゃ。将軍はもしかしたらどこかで、乙支文徳の姿をお見かけしませんでしたか?」
「……乙支文徳? きゃつめがこの隋軍本営に来ていると?」
憎き敵将の名を耳にして、さすがの屈突通も表情を改めると真剣な表情を浮かべ(と言っても、ストッキングをかぶったままなのでよく分からないが)尋ね返してきた。
そんな彼に、衛玄と辛世雄が手早く事情を説明する。すると屈突通は右手の親指と人差し指で下顎を掻くような仕草をして見せてから、おもむろに首を横に振って見せる。
「なんと! そんなことが。それは一刻も早く見つけ出し捕らえなければなりませぬな。さもなければ大変なことになります。じゃが残念ながら、わしはそのような者の姿など見てはおらぬですわ」
「そうですか」
「ただ、乙支文徳と言えば……」
不意になにかを思い出したかのように、屈突通はくつくつと笑い声をあげた。そんな彼に、衛玄と辛世雄は訝しげな視線を向ける。
「どうしたのです、屈突将軍?」
「いや、失敬。衛将軍。ちょっと思い出し笑いを」
「はあ?」
「いやですな。実はつい先程、まるで自分はどこぞの大国の将軍であるぞとでも言わんばかりに、上から下までキンキラキンの趣味の悪い黄金色の鎧を着てふらふら歩いてる者がおりましてな。一体何者かと思って顔を見てみれば、どこか間の抜けた面をした頭の悪そうな若造でして。お前、そんな格好をしてなにをしているんだと尋ねたらそいつ、なんと言ったと思います?」
「……」
「こともあろうか。自分は高句麗の征虜大将軍であり、隋軍に降伏するために司令官閣下に会いに来たのだが。閣下への貢ぎ物を鴨緑江に浮かべてある舟の上に置いてきたので、これからそれを取りに行くところなのだとかなんとか抜かしましてな。趙将軍や崔将軍の影響ですかねえ? 最近隋軍の若造の中でコスプレが流行っているみたいで。なんだかわけの分からない格好をしてはそのキャラクターになりきって、得意げに辺りを練り歩いているような輩が増えているみたいなのですよ。そしてついには敵軍の将軍の格好をするような奴まで現れるとは。最近の若い者はなにを考えているのか分からないですなあ。うわーっはっはっはっは!」
わけの分からない格好をしては得意げにしている輩ナンバー1である屈突通のその言葉に、衛玄たち三人はしばし唖然として口をぽかんと開けたまま突っ立っていたが。彼の言葉の意味が脳に浸透してくるにつれ、期せずして三人全く同時に口を開きこう怒鳴りつけていた。
「ばっかもーん! それが乙支文徳だ!!」×3
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