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89 薩水の戦い・その2
しおりを挟む高句麗軍による不意討ちの様子は、戦場から少し離れた場所で兵たちの撤退の指揮を取っていた辛世雄と衛玄の目にも映った。
「情けないことじゃ。これが隋帝国の誇る最精鋭軍のありさまだと言うのか……」
怒りと恐怖の喚き声をあげながら、仲間や同僚、部下たちを押し退け、我先に逃げ出そうとする隋軍兵士たちの醜態を目の当りにして、衛玄は一〇歳も年老いたかのような表情を浮かべて呟いた。
「長引いた戦いのためじわじわと軍隊中に広がった厭戦感。自分勝手で部下の気持ちを考えることのしない司令官たちへの不信感。補給計画の失敗により慢性的に兵士たちを襲った飢えと疲労。野戦で七回戦い七回とも勝ったことによる慢心。嬰陽王直筆の降伏文書を手に入れたという油断。反撃の難しい渡河の最中で後背から受けた不意討ち……」
衛玄の言葉に続いて、辛世雄も独り言ちるように呟く。
「これだけの悪条件がそろってしまえばどんな超大国の軍隊だって勝つことなんて出来っこないでござるよ。それに気がつかなかった拙者たち十二将軍の怠慢と考え不足は当然責められるべきでござるが」
「悪条件がそろった、というのは正確ではないのぅ、辛将軍。正しくは悪条件をそろえられたと言うべきじゃろう。あの、乙支文徳めによってな」
敵将に対する憎悪と賞賛を半々くらいの割合で含ませたような声で、衛玄も言った。
「すると現在のこの状況は偶然ではなく、乙支文徳が仕込んだものだと衛将軍はおっしゃるのでござるか? 遼東城撤退から七回の敗北も、隋軍の食料不足も、降伏文書を送って隋軍の撤退を決意させたことも。全てがこの薩水での反撃に収束させるための、乙支文徳の策略であったと? 拙者たちは乙支文徳の書いた脚本に従って、彼奴の手の平の上で踊っていただけだと言うのでござるか!?」
「そのようなことは到底信じられぬか、辛将軍?」
「もちろんでござる! そんな馬鹿なことがあり得るはずがないでござ……いや」
一瞬、大きく首を横に振った辛世雄だったが、すぐに納得したように肩を落とし、力なくうなだれた。
「あの男なら、その程度のことはた易くやってのけることが出来るでござるか。真実、鬼神のごとき恐ろしい男でござるな。あの乙支文徳という男は。それに比べて、拙者たちのなんと情けないことよ。結局最初から最後まで、我ら隋軍十二将軍はあの男に振り回されただけでござったな」
まったく見事としか言いようがないと辛世雄は思った。実際、こうまで徹底的にやりこめられては、腹立たしいとか悔しいという前に、すがすがしい感じさえ抱いてしまう。
「おーい、衛将軍。辛将軍。そんなところでなにぐずぐずしてるんだ。もうすぐ高句麗軍がこっちまでやってくる。早く逃げないと、わしらも危ないぞ!」
別の場所から屈突通ら他の十二将軍もやってきて、警告するように二人にそう声をかけてきた。確かにこんなところで敗北感に浸っている暇などはない。辛世雄は我に返ると、衛玄と顔を見合わせ、小さく頷いた。
「そうでござった。ぐずぐずしている場合ではござらん。早いところ逃げ出さなければ、隋軍は文字通りの意味で全滅してしまうでござる」
「だが、全員一度に逃げる訳にはいくまい。誰かが殿軍となって高句麗軍の攻撃を抑えなければならんじゃろ。じゃが、この期に及んで一体誰がその役を引き受ける?」
衛玄のその言葉に十二将軍は沈黙を以て応えた。殿軍と言うのは敗戦時に撤退する際、味方の後退を助けつつ、自分は最後まで戦場に残って敵軍と戦う役目のことである。当然のことながら死亡率は目茶苦茶高い。誰かがやらなくてはならないが、誰もがやりたがらない役割だ。
だが……。
「ここは、まかせていただこう」×8
一拍置いた後、ほぼ同時に八人全員が手を上げて、我こそが殿軍を引き受けようと声をあげた。まさか全員が立候補するとは誰もが思わなかったらしく、八人ともが他の七人を馬鹿を見るような目つきでまじまじと見つめた。
「なにを言う。お主らのような未来ある若人が、そんな危険な役目につく必要はない。儂に任せておけば良いのじゃ」
「いいや。ここは是非拙者に任せてもらいたいでござる。不本意ながら、この辛世雄。負け戦には慣れっこでござるからな」
「いや、自慢じゃないけどこういう仕事はボクが得意なんだ。ボクにやらせてもらう」
「いけませんわ! 趙将軍だけにそんなことをやらせる訳にはいきません。ここはあたくしが……」
「おいおい、こういう格好いい役目はわしのようなスマートなイケメンこそが相応しいと相場が決まってるじゃろうが? うわーっはっはっは!」
「いやいや。ここはこれまでほとんど見せ場がなく目立たなかったわいに一つ、是非とも任せてもらいたいアル」
「妾とて、ここまでその実力をほとんど見せる機会なきこと、同じゆえ。一度くらい活躍の機会を欲するものなり」
「ちょっちゅねー」
そうしてしばらくの間、八人の将軍たちはおれが私がと騒ぎあっていたが、すぐにいまはそんなことで争っている場合ではないということに気づき、同時にぴったり押し黙った。
「……駄目だ。このまま言い争っていてもらちがあかん。かと言って八人全員が殿軍になるというのも意味がないし。ここは公平に、じゃんけんで決めるというのはどうだ?」
屈突通の提案に他の七人は一瞬お互いに顔を見合わせたが、すぐにこくりと頷いた。
「同意するものなり。時間もなきことゆえ、ことここに至ればそれが一番妥当な案たると判断するにやぶさかでなし」
「一人では危険アルから、殿軍として残るのは二人ということにしたらいいと思うアル」
荊元恒と張瑾がそうつけ加え、八人は大きく首肯すると輪になって手を振り上げた。
「……さーいしょは、グー! じゃーんけーんぽん!! あーいこーでしょっ!!」×8
数回のあいこの末、辛世雄と王仁恭がチョキ、他の六人はいずれもパーを出して勝負は決まった。
「二人だけで大丈夫かのぅ? やっぱり儂も残ったほうが……」
衛玄がまだ心配げに言ってきたが、王仁恭と辛世雄は明るく首を横に振る。
「ちょっちゅねー。大丈夫なんだなー。衛将軍たちこそおいらたちの部下を任せたから、無事にちゃんと遼東城まで連れ帰ってやってほしいんだなあ。ちょっちゅねー」
「右に同じくでござるよ。なに、心配はいらんでござる。拙者、故郷には大事な婚約者を残している身でござるからな。彼女を遺して一人だけ死ぬつもりは毛頭ないでござる」
「いや……だから辛将軍。戦いの前にそういうことは言わないほうがいいと……」
衛玄は困ったようにそう口を開きかけたが、すぐに上手から高句麗軍の兵が大量に押しかけてくるのが見えたので、慌てたように表情を引き締めた。
「早く行くでござる、衛将軍! 他の皆。ここは拙者たちが引き受けたでござる」
「……済まないアル」
「絶対に、後でまた生きて会おうぞ!」
「約束だよ、二人とも!!」
張瑾、屈突通、趙孝才将軍がそれぞれ手を振りながらそう口を開いた。他の三人も言葉にこそ出さないが、心配そうな表情を浮かべつつも、部下たちを率いて薩水を渡って行く。
「さて。それでは最後の一暴れといくでござるかな、王将軍」
「同感なんだなー。ちょっちゅねー」
辛世雄と王仁恭はそう言い合ってニヤリと笑うと、武器を抜いて高句麗軍のまっただ中に向かい、突進していった。
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