96 / 97
96 終章・またな!
しおりを挟む「でもまあ、確かにあいつの言うことにも一理ある。今回の戦いなんか、一から一〇〇まで乙支文徳に頼りっきりだったと言っても過言じゃないからな。ちょっとくらい休ませてやってもいいだろう」
国の復興作業なら、隋軍の侵攻中に口ばっかり偉そうに動かして散々文句を言っていたくせに、自分の頭や手足は全然動かさなかった重臣が大勢いるから、そいつらに乙支文徳の分までたっぷり汗を流してもらうさ、と嬰陽王は言葉を続けた。
「それで陛下。乙支文徳閣下は結局どちらへ行かれたんです?」
「それが分からないんだよ、高建武。乙支文徳の奴。休暇をとって外国へ旅行に行くことは決めていたくせに、肝心の目的地は決めていなかったらしいんだ。そんなものは歩きながら決めればいいんだとか言ってたな」
「えーっ? そんないい加減な……」
「あいつのいい加減は、いまに始まったこっちゃない。そのせいで僕なんか散々迷惑をかけられたもんだよ。君だってそうじゃないのかい? あいつとは幼なじみな分、ぼくよりもつきあいが長いんだから分かるだろ?」
「……まあ。そう言われればそうなんですけどねえ」
嬰陽王の言葉になにかを思い出したのか、高建武は苦笑とも微笑ともつかない妙な笑いを浮かべながら、小さく肩をすくめた。
その後。しばし三人とも敢えて言葉を発することはなく、石のような沈黙の時間が続いた。高建武はなんとなくと言うように窓の前に歩み寄り、この広い世界のどこかにいるであろう乙支文徳の姿を探すがごとく、地上を見渡した。少し遅れて大陽もそれに倣い、さらに少し遅れて嬰陽王も同じように下界の景色を眺める。
「……いつか。帰ってきますよね?」
誰に言うともなしに、高建武はぽつりとそう呟いた。
「当然だ。ここはあいつの故郷だからな」
嬰陽王は平然と応える。そう。それだけは絶対に間違いない。あいつはいつか必ず、この国に戻ってくる。自分が守り抜いたこの国へ。あいつにとって大切な人が大勢いるこの国へ。あいつのことが大好きな人が沢山いるこの国へ。
「……おーい、乙支文徳ーーっ!」
そう思った途端。嬰陽王は両手を口元に当て、窓の外に向かって大声でそう叫び声をあげていた。隣では大陽や高建武が驚いたように目を丸くしているけれど構うことはない。嬰陽王はさらに言葉を続けた。
「早く帰ってこいよーっ! 高句麗の有給休暇はそんなに長くないんだからなー!」
「乙支文徳ーーっ!」
「乙支文徳閣下ーーっ!」
嬰陽王の真似をしてと言う訳でもないだろうが、大陽と高建武も両手を口に当てて、嬰陽王に負けないくらいの大声をあげた。
「帰ってきたら、戦略や戦術について、もっと色々教えてくださいねー! 待ってますからねー! 絶対ですよー!!」
「お体に気をつけて下さーい! 寝冷えしてお腹冷やしたり、その辺に落ちているものを食べたりしてお腹を壊したりしたら駄目ですよー! 元気に帰ってきて下さいね!!」
代わる代わる、三人は乙支文徳に向かってそう声をかけ続けた。もちろん、どんな大声を出しても、それが乙支文徳に聞こえるはずはないと言うことは分かっていたけれど。
それでも。嬰陽王と大陽と高建武は声が涸れるまで、大声でずっと叫び続けていた。
☆ ☆
「……ん?」
平壌城の街を背にして、人の姿などはほとんどないうらぶれて寂れた街道を一人黙々と歩いていた乙支文徳は、誰かに名前を呼ばれたような気がしてついと後ろを振り返った。
だがそこには人の姿はおろか、動くものの姿は鳥一羽虫一匹すら見ることは出来ない。気のせいかと思い、右肩にかけていた荷物を左肩にと移しながら、乙支文徳は再び歩みを進めた。
「さて。どこに行こうかな、と」
歩きながら大きなあくびをして、乙支文徳はぽつりと呟いた。嬰陽王にも言ったことだが、旅に出ることは決めたものの目的地をどこにするのか全く考えていなかったのだ。
まあ、目的のない旅というのも悪くない。適当にぶらぶら歩いて行って、目についた街があったらそこに向かって進むということでも構わないとも思う。だが方向音痴の乙支文徳のこと。あまりに適当に歩き続けていると知らない間にぐるりと一回りして、いつの間にか平壌城に戻ってしまったなんてことも充分にあり得た。
「せめて東西南北いずれに行くかくらい決めとくか。その後は基本的にその方向にだけ向かって歩いていけば、少なくともスタート地点に逆戻りなんてことだけはないだろう」
さて、どうしようか。手軽なところでは南に行って新羅や百済の様子を見てくるのもいいだろう。西のほうにはシルクロードとやらを通って東洋にやって来た西洋人たちが多く商売をしている土地があると聞いたから、そちらに向かってみるのも面白い。北に進んで靺鞨族などの騎馬民族に交じり、さらに北の寒い地域を旅して回るのも楽しそうだ。東なら海を渡って、倭国の風俗を見聞して回るというのも興味をひかれる話である。
しばし考えた末、乙支文徳は地面をキョロキョロと捜し始めた。それから葉っぱが一枚だけついた木の枝を見つけると、おもむろに屈みこんでそれを拾い上げ、空に向かって勢いよく放り投げる。
木の枝は空中でくるくると回転した後、バサリと軽い音を立てて地面に落ちた。乙支文徳はそれを確認すると木の枝の先、葉っぱのついている方角の先をじっと眺めた。
「なるほど。こっちの方角か」
乙支文徳は呟くと、小さく鼻歌などを口ずさみながら、そちらの方角に向かいゆっくりと歩を進め始めた。だが途中、一度だけ立ち止まってはるか後方にそびえる平壌城の威容を見上げると、かすかに微笑んでから右手を軽く振って見せた。
「じゃあ、またな!」
もちろんその声が平壌城まで届く訳はないけれど。それでも満足しきった表情を浮かべて、乙支文徳は再び振り向くことはなくまっすぐに歩き続けていく。
《了》
0
あなたにおすすめの小説
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する
克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
幻の十一代将軍・徳川家基、死せず。長谷川平蔵、田沼意知、蝦夷へ往く。
克全
歴史・時代
西欧列強に不平等条約を強要され、内乱を誘発させられ、多くの富を収奪されたのが悔しい。
幕末の仮想戦記も考えましたが、徳川家基が健在で、田沼親子が権力を維持していれば、もっと余裕を持って、開国準備ができたと思う。
北海道・樺太・千島も日本の領地のままだっただろうし、多くの金銀が国外に流出することもなかったと思う。
清国と手を組むことも出来たかもしれないし、清国がロシアに強奪された、シベリアと沿海州を日本が手に入れる事が出来たかもしれない。
色々真剣に検討して、仮想の日本史を書いてみたい。
一橋治済の陰謀で毒を盛られた徳川家基であったが、奇跡的に一命をとりとめた。だが家基も父親の十代将軍:徳川家治も誰が毒を盛ったのかは分からなかった。家基は田沼意次を疑い、家治は疑心暗鬼に陥り田沼意次以外の家臣が信じられなくなった。そして歴史は大きく動くことになる。
印旛沼開拓は成功するのか?
蝦夷開拓は成功するのか?
オロシャとは戦争になるのか?
蝦夷・千島・樺太の領有は徳川家になるのか?
それともオロシャになるのか?
西洋帆船は導入されるのか?
幕府は開国に踏み切れるのか?
アイヌとの関係はどうなるのか?
幕府を裏切り異国と手を結ぶ藩は現れるのか?
古書館に眠る手記
猫戸針子
歴史・時代
革命前夜、帝室図書館の地下で、一人の官僚は“禁書”を守ろうとしていた。
十九世紀オーストリア、静寂を破ったのは一冊の古手記。
そこに記されたのは、遠い宮廷と一人の王女の物語。
寓話のように綴られたその記録は、やがて現実の思想へとつながってゆく。
“読む者の想像が物語を完成させる”記録文学。
対米戦、準備せよ!
湖灯
歴史・時代
大本営から特命を受けてサイパン島に視察に訪れた柏原総一郎大尉は、絶体絶命の危機に過去に移動する。
そして21世紀からタイムリーㇷ゚して過去の世界にやって来た、柳生義正と結城薫出会う。
3人は協力して悲惨な負け方をした太平洋戦争に勝つために様々な施策を試みる。
小説家になろうで、先行配信中!
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【完結】二つに一つ。 ~豊臣家最後の姫君
おーぷにんぐ☆あうと
歴史・時代
大阪夏の陣で生き延びた豊臣秀頼の遺児、天秀尼(奈阿姫)の半生を描きます。
彼女は何を想い、どう生きて、何を成したのか。
入寺からすぐに出家せずに在家で仏門に帰依したという設定で、その間、寺に駆け込んでくる人々との人間ドラマや奈阿姫の成長を描きたいと思っています。
ですので、その間は、ほぼフィクションになると思います。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
本作品は、カクヨムさまにも掲載しています。
※2023.9.21 編集しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる