失敗聖女の異世界革命 ~地味に生きたいのに、なぜか文化が変わる件~

宵町あかり

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第10話 聖なるパン

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朝露がまだ草木を濡らしている頃、セレナ・リュクスは窓辺で村を眺めていた。
水の奇跡から一週間。村は平和を取り戻し、畑では種から芽が出始めている。清らかな水が常に湧き出る井戸は、今や村の象徴となっていた。

――平和になったし、普通に暮らせる……はず。

しかし、その平和な光景とは裏腹に、セレナの心には小さな不安があった。
明日は収穫祭。正確には春の種まきを祝う小さな祭りだが、村人たちにとっては大切な行事だ。

「セレナ様、おはようございます」

メアリーが朝食の準備を告げに来た。その手には厚い革装の日記帳が抱えられている。最近は肌身離さず持ち歩いているようだ。

「収穫祭の準備はいかがいたしましょう?」

セレナは少し考えた。
村人たちへの感謝の気持ちを示したい。しかし、何をすればいいのか分からない。

「そうね……パンでも焼いて配ろうかしら」

その言葉を聞いて、メアリーの目が輝いた。

「セレナ様がパンを!きっと村人たちは大喜びです」

――パン作り……ホームベーカリーないし。

現代では機械任せだった作業を、この世界では手作業でやらなければならない。不安が募る。

✦ ✦ ✦

昼前、村の市場にセレナの姿があった。
パンの材料を買い求めるためだ。

パン屋を営むジャックが、深々と頭を下げた。
四十五歳の彼は、三代続くパン屋の三代目。祖父の代から受け継いだ技術に誇りを持っていた。しかし最近、村人たちが「聖女料理」に夢中で、普通のパンの売り上げが落ちている。

「これは聖女様。パンの材料をお求めですか?」

ジャックの声には複雑な感情が入り混じっていた。

――貴族様がパンを作る時代か。職人の立場はどうなる。

しかし同時に、聖女様のパン作りを見られるという期待もあった。都の最新技術を学べるかもしれない。その葛藤が、彼の表情を複雑にしていた。

「ええ、小麦粉とイースト菌をお願いします」

セレナはイースト菌の量が分からず、適当に指差した。
その量を見て、ジャックは息を呑んだ。通常の十倍の量だ。

「そ、そんなに使われるのですか?」

「これくらい必要かと思って」

実際は全く分かっていないだけだったが、ジャックには別の意味を持って聞こえた。

――まさか古代製法?大量のイースト菌を使う失われた技術があるという。

三代に渡って受け継がれてきた知識の中に、そんな伝説があった。
職人としてのプライドと、新技術への好奇心が激しく葛藤する。

メアリーも熱心に観察している。

「日常にも奇跡は宿る。それを証明される時が来たのね」

記録者として、また布教者として、この瞬間を逃すまいと目を凝らしていた。

✦ ✦ ✦

午後、セレナの屋敷の厨房には、見学者が押し寄せていた。
聖女様のパン作りを一目見ようと、村の女性たちが集まってきたのだ。

セレナは内心で焦っていた。

――これYouTubeの失敗動画レベル……配信されたら炎上案件。

まず、イースト菌を全部入れてしまった。
普通なら少しずつ加えるものだが、一度に全量投入。生地がみるみる膨らみ始める。

発酵時間も適当に決めた。
「一時間くらい?」と思って放置したが、大量のイースト菌のせいで生地は異常な速度で膨らんでいく。

気がつけば、ボウルから溢れ出し、天井近くまで膨張していた。

パン職人のジャックは、その光景に職人生命を賭けた衝撃を受けていた。

「あの発酵は……まさか古代の超発酵法?」

自分が三代かけて磨いてきた技術とは、次元の違う何かを目撃している。
職人としての常識が音を立てて崩れていく感覚。それは恐怖でもあり、同時に新しい世界への扉が開く興奮でもあった。

子供たちは素直に驚いていた。

「すごーい!パンが生きてる!」
「もこもこして雲みたい!」

純粋な驚きと楽しさが、場の緊張を少し和らげる。

セレナは慌てて生地を成形しようとしたが、手にくっついて思うようにいかない。
結果として、不規則な形の塊がいくつもできあがった。

主婦のアンナは真剣な表情で見つめていた。

「あの不規則な形……まるで芸術作品のよう」

四十代の彼女にとって、型にはまらない形は革命的だった。
いつも同じ形のパンを焼いていた自分の固定観念が揺らぐ。

「保存食として革命的かもしれないわ」

実用的な視点から、新たな可能性を見出していた。

✦ ✦ ✦

オーブンに入れる段階で、セレナは温度調整を完全に間違えた。
最高温度に設定してしまい、外側から急速に焦げ始める。

「あ、焦げる!」

慌てて取り出そうとするが、既に手遅れだった。
オーブンから出てきたのは、真っ黒な物体。炭のような外観で、包丁も通らないほど硬い。

煙が厨房に充満し、皆が咳き込む。

――炭水化物……文字通り炭化してる。

セレナは失敗を確信した。
しかし、村人たちの反応は違っていた。

村長のジョセフが、感慨深げに呟いた。

「黒は神聖な色。昔から魔を払い、浄化の力があると言われている」

七十歳の記憶の中から、古い言い伝えが蘇る。
黒いパンには特別な意味があるはずだ。聖女様が作られたものなら尚更。

ジャックは震える手で、黒いパンの一つを手に取った。
硬すぎて切れないその質感、炭のような黒さ、そして微妙な光沢。

「これは……革命だ」

職人としてのプライドが音を立てて崩れ落ちる。
三代続いた技術、毎日早朝から仕込む苦労、全てが否定されたような気がした。しかし同時に、新しい可能性への扉が開かれた興奮もあった。

「聖女様、弟子にしてください!」

突然、ジャックが土下座した。
四十五年の人生で培ったプライドを捨て、一から学び直す決意。それは職人として、いや一人の人間としての大きな転換点だった。

――インスタ映えはしない……真っ黒だし。

セレナの内心とは裏腹に、村人たちの興奮は高まっていく。

子供たちが無邪気に叫ぶ。

「宝石みたい!」
「ピカピカしてる!」

素直な視点が、大人たちに新たな気づきを与える。

主婦のアンナが実用的な観点から評価した。

「この硬さなら、長期保存が可能ね。革命的な保存食になるわ」

論理的な解釈が加わることで、失敗が成功へと転化していく。

✦ ✦ ✦

翌日の収穫祭当日。
村の広場には、祭りの準備が整っていた。

セレナは黒焦げのパンを籠に入れて、配り始めた。
普通なら恥ずかしくて出せないような代物だが、もはや諦めの境地に達している。

「これを皆さんに」

村人たちは歓声を上げながら、有難く受け取っていく。

「聖女様のパン!」
「これは家宝にします!」
「いや、食べてこそ意味がある!」

誰かが叫んだ。

「聖餅だ!これは聖餅と呼ぶべきだ!」

その名前は瞬く間に定着した。
黒く硬い塊は、「聖餅」という神聖な名前を得て、村の新たな名物となった。

パン職人のジャックは、涙を流しながら聖餅を掲げていた。

「これからは聖女認定パン屋として生きていく!黒いパンの研究を始める!」

プライドを捨てて新技術習得を決意した彼の顔は、不思議と晴れやかだった。
新しい人生の始まり、それを受け入れる覚悟ができていた。

メアリーは熱心に記録を取っている。

「日常の奇跡。それこそが真の聖女の証」

聖女伝説の新たな側面を発見した喜びが、彼女の筆を走らせる。

――もう慣れた……失敗しても皆喜ぶし。

セレナの心には、諦観から受容への変化が完全に定着していた。
抵抗しても無駄、それならば流れに身を任せよう。皆が幸せなら、それでいい。

祭りは盛大に行われた。
聖餅を中心に、聖女料理の数々が並ぶ。虹色のスープ、炭化した肉、奇妙なサラダ。全てが神聖な食べ物として扱われる。

村の若者たちは既に次の展開を考えていた。

「この聖餅、隣村にも広めよう」
「いや、領主様にも献上すべきだ」
「聖女様の新発明として、国中に知らせるんだ」

――これトレンド入り……しないか、SNSないし。

セレナの最後の現代的ツッコミも、もはや諦めと受容に包まれていた。

夕方になると、村中で黒焦げパン作りが始まった。
各家庭から黒い煙が上がり、失敗を恐れない新しい文化が生まれていく。

✦ ✦ ✦

その夜、メアリーは愛用の革装の日記帳を開いた。

『セレナ様観察日記 第十日目

本日、日常の中に宿る聖女の真価を見た。

聖餅。それは単なる黒いパンではない。
黒は浄化の色、硬さは永続性の象徴、不規則な形は自由の表現。

パン職人ジャック様の改心も印象的だった。
プライドを捨て、新たな道を歩む勇気。それを与えるのも聖女の役目。

日常にこそ聖女の真価がある。
派手な奇跡だけでなく、毎日の小さな革新。それが人々の生活を真に変えていく。

明日は洗濯の日。セレナ様は何を示されるのか。

聖餅のレシピ(私の推測):
・小麦粉(適量)
・イースト菌(通常の十倍)
・発酵(天井に届くまで)
・焼成(最高温度で炭化するまで)

この記録が、後世の指針となることを願って』

メアリーはペンを置き、窓の外を見た。
村のあちこちから、まだ黒い煙が上がっている。失敗を恐れない新しい文化が、確実に根付き始めていた。

パン職人のジャックは、店の看板を書き換えていた。
「ジャックのパン屋」から「聖女認定・黒パン研究所」へ。
人生の大転換を、彼は前向きに受け入れていた。

「明日から、新しい人生だ」

四十五年のプライドを捨てた代わりに、無限の可能性を手に入れた。
その表情は、不思議と若々しかった。

村長のジョセフは、再び手紙を書いていた。

「領主様への追加報告。聖餅という新たな発明について」

水の奇跡に続く、日常の奇跡。それを正確に伝えなければならない。

セレナは寝床で天井を見上げていた。

「――失敗したのに……もう慣れた」

完全な諦観から、小さな受容へ。
そして今は、少しだけ前向きな気持ちさえ芽生え始めている。

皆が幸せそうだから、これでいいのかもしれない。
その思いが、セレナの心を少しずつ軽くしていく。

翌日、村の女性たちがこぞってパン作りを始めた。
皆、黒く焦がすことを目指して、競い合うように失敗していく。

そして、その中から別の「奇跡」が起きることになる。
洗濯という日常の作業が、新たな伝説を生む日が近づいていた。
明日、教会使者がやって来る。その時、村はどんな色に染まっているのだろうか――
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