忘却の魔王と契約書 ~古文書館の真実探求者~

宵町あかり

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第1話 失われた契約書

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 春の陽だまりが古文書館の石段を温めていた。三百年の歴史を刻んだ花崗岩は、長年の風雨に削られて表面が滑らかになり、踏む度に足の裏に冷たい感触を伝えてくる。

 レト・ベルクマンは今日の調査資料を両腕に抱えながら、一段ずつ慎重に石段を上がっていた。羊皮紙の束からは古い時代の記憶が染み付いたような、カビと乾いた革の混じった独特の匂いが立ち上る。参考書三冊、筆記用具一式——重い荷物が腕に食い込み、最上段で足がもつれた。

「うわあああ!」

 青空に舞い上がった書類が、ひらひらと春風に踊りながら古文書館の石床に散らばる。羊皮紙が石に当たる乾いた音が、静寂に包まれた建物に小さく響いた。レトは慌てて這いつくばり、膝に冷たい石の感触を感じながら書類を拾い集める。内心では、また同じ失敗を繰り返してしまった自分への苛立ちが込み上げていた。

「文献によれば……」レトは眼鏡を押し上げながら、散らばった羊皮紙を整理する。指先に触れる古い紙の質感は、まるで歴史そのものに触れているような錯覚を覚えさせた。「この文字は古エルディア語の第三変化形だが、語尾変化が標準的でない」

 十七歳の文官見習いにしては、その知識量は異常と言ってもよかった。しかし、周囲にそれを認める者はいない。レトは内心でため息をつく。また一人で古い文字と向き合う一日が始まるのだ。孤独だが、それでも古代の知識に触れられる幸せを噛み締めていた。

「また独り言か、レト」

 背後からの低い声に振り返ると、古文書館館長のオルドス・ガルアインが立っていた。白髪交じりの長髪が朝の光を受けて銀色に輝き、深い緑色のローブには無数の巻物と古い真鍮の鍵が下げられている。六十を過ぎた顔には深い皺が刻まれ、知識の重みを物語っていた。

「オルドス師匠。すみません、集中していると……」

 レトの頬が僅かに赤らむ。相手は王国でも指折りの学者だった。こんな子供じみた失敗を見られるのは恥ずかしく、師匠に失望されるのではないかという不安が胸をよぎった。

「構わん。それより、お前に頼みがある」

 オルドスは古文書館の内部を見回すと、声を潜めた。その表情に、普段の穏やかさとは違う緊張感が宿る。

「倉庫の奥に、まだ分類されていない古文書がある。お前の目で見て、価値があるものを選り分けてくれ」

「分類作業ですか? わかりました」

 レトは眼鏡を押し上げながら立ち上がる。こういう地味な作業こそが彼の得意分野だった。何より、誰にも邪魔されずに古文書と向き合える時間は貴重だった。一人になれば、心置きなく古代の知識に没頭できる。師匠から信頼されている実感も、密かな喜びを与えてくれた。

「ただし」オルドスの表情が急に真剣になった。深い茶色の瞳に、何かを恐れるような光が宿る。「もし、見慣れない文字体系の文書があったら、必ず私に報告すること。分類は後回しでよい」

「見慣れない文字体系……?」

 レトの胸に、学者特有の好奇心がざわめく。未知の文字との出会いほど、知識欲を刺激するものはない。同時に、師匠の表情に宿った恐れの色が、彼の心に小さな不安の種を植えつけた。

「この書は燃やされるべきでなかった、と思うような文書があるかもしれん」

 意味深な言葉を残して、オルドスは重い足音を響かせながら去っていく。レトは首をかしげながらも、期待に胸を躍らせて倉庫へと向かった。古い建物の廊下を歩く足音が、石の壁に静かに反響していく。師匠の言葉の真意は分からなかったが、何か重要な発見ができるのではないかという予感が彼の心を躍らせていた。

 古文書館の倉庫は、まるで時間が止まったような空間だった。高い天井から差し込む薄明かりが、舞い上がる細かな埃を照らし出す。カビと古紙の匂いが立ち込める空気は重く、息を吸う度に何世紀もの歴史の重みを感じさせた。天井近くまで積み上げられた木箱の山を見上げて、レトは軽くため息をついた。

「記録によると、この館の蔵書は三千点を超えるはずだが……未分類がこんなにあるとは」

 彼は袖をまくり上げ、上から順番に箱を開けていく。蓋を開ける度にきしむ木の音が響き、中から立ち上る古い紙の匂いが鼻を突いた。大部分は王国の公式記録や商業取引の帳簿など、退屈な文書ばかりだった。内心では、もっと興味深い発見を期待していた自分に苦笑いを浮かべる。

 しかし、作業を始めて二時間ほど経った頃、レトの手が止まった。

 箱の底に、一枚の羊皮紙が残されていた。

 他の文書とは明らかに異なる、息を呑むような美しさだった。羊皮紙の表面は真珠のような光沢を放ち、金と銀の糸で描かれた装飾が薄明かりの中で幻想的に輝いている。まるで生きているかのような美しさに、レトの心臓が高鳴った。十七年の人生で、これほど美しい古文書を目にしたことはなかった。

 だが、それ以上に彼の注意を引いたのは、その文字だった。

「これは……古エルディア語ではない。もっと古い、原始魔法文字に近いが……」

 レトは息を殺して羊皮紙を慎重に取り上げる。指先が紙面に触れた瞬間、微かな暖かさを感じた。まるで生命を宿しているかのような、不思議な温もりだった。心臓の鼓動が早くなり、手の平に汗がにじむ。これまでの学問的知識では説明のつかない現象に、興奮と同時に軽い恐怖を感じていた。

 文書の上部には、装飾的な文字で『永遠なる契約』という文言が、まるで炎のように美しく描かれていた。その下に続く本文は、レトが今まで見たことのない複雑な魔法文字で記されている。文字の一つ一つが、見つめているだけで心の奥に響いてくるような神秘性を帯びていた。

「研究によると、原始魔法文字の解読には特殊な知識が必要だが……」

 レトは眼鏡を外し、レンズを拭いながら考え込んだ。手が僅かに震えているのに気づく。これは単なる古文書ではない。何か特別な力を秘めた文書だ。古文書解読は彼の唯一の取り柄だった。この機会を逃すわけにはいかない。同時に、オルドス師匠の警告が脳裏をよぎり、一瞬の躊躇が心を過った。

 近くにあった小さな机に羊皮紙を広げ、持参していた解読用の参考書を並べる。魔法文字の基本構造から、語順、修飾関係まで、一つずつ丁寧に解析していく。集中するほどに周囲の音が遠のき、世界がこの一枚の羊皮紙だけになったような感覚に陥った。学者として生きてきた十七年間で、これほど夢中になれる文書に出会えたことに、心の奥で深い感謝を覚えていた。

 三十分ほどして、レトはようやく最初の一文を理解した。口の中が乾き、心臓の鼓動が耳に響く。声に出して読み上げる前に、一瞬躊躇した。師匠の警告が頭をよぎり、これを読むことで何か取り返しのつかないことが起こるのではないかという予感が胸を掠めた。しかし、学者としての好奇心と、人生を賭けた発見への憧れが、恐怖を上回った。

「『この契約書を読みし者、我が呼び声に応じ、失われし真実の探求者たらん』……?」

 言葉が口を離れた瞬間、羊皮紙が眩い光を放った。

 光は倉庫全体を包み込み、レトの視界を真っ白に染める。まるで太陽を直視したような強烈さに、彼は思わず目を閉じた。そして同時に、倉庫の外から甲高い悲鳴が響く。心の中で「やってしまった」という後悔と、「ついに何かが始まった」という興奮が交錯していた。

「きゃあああああ!」

 光は数秒で収まったが、レトの意識はそこで途切れた。古い木の床に倒れ込む感触と、遠ざかっていく意識の中で、彼は何か重大なことが起こったのだと理解した。自分の人生が、この瞬間を境に大きく変わることを、漠然と予感していた。

 そして、気がつくと──。

 倉庫の中央に、少女が一人立っていた。

 銀色の髪が薄明かりを受けて絹のように輝き、金色の瞳は宝石のような深い輝きを宿している。黒と白のコントラストが美しいドレスは、まるで夜空に散らばった星々のような神秘性を放っていた。頭には王冠の破片を髪飾りにした、この世のものとは思えないほど美しい少女だった。レトは朦朧とした意識の中で、自分が夢を見ているのか現実なのか判断がつかずにいた。

 空気が変わった。倉庫の重い雰囲気が一変し、まるで神聖な場所にいるような厳粛な空気に包まれる。

 少女は手に持った羊皮紙を見つめると、困ったような表情を浮かべる。その仕草さえも、まるで絵画から抜け出てきたような優雅さがあった。内心では、長い封印から目覚めたばかりで状況を把握しきれずにいることに、僅かな戸惑いを感じていた。

「契約内容が不明瞭です。『真実の探求者たらん』とありますが、具体的な業務内容、報酬体系、契約期間が記載されていません。これでは適切な契約履行ができません」

 声は鈴を鳴らすように美しいが、どこか機械的で抑揚に欠けていた。まるで公文書を読み上げているかのような、不思議な印象を与える。長年の封印により、感情表現が硬直してしまっていることを、彼女自身も薄々自覚していた。

 そのとき、倉庫の入り口から慌ただしい足音と声が響いた。

「レト! レト、大丈夫? 今、すごい光が見えて……」

 エリナ・フォートレスが古文書館に駆け込んできて、そこで動きを止めた。騎士見習いらしい実用的な服装に身を包んだ少女が、息を切らしながら立ち尽くしている。目の前の光景が現実なのか信じられず、混乱していた。

 銀髪の少女がゆっくりと振り返る。その動作は流れるように美しく、まるで舞踏会でのダンスのような優雅さがあった。

「あ、あなたは……?」

 エリナの声が僅かに震える。目の前の少女から放たれる神秘的な雰囲気に、圧倒されているのが分かった。騎士として培った勇気と、未知の存在への恐怖が心の中で激しく戦っていた。

 剣の柄に手をかけようとしたエリナを見て、銀髪の少女が口を開いた。

「契約書を読んだのですか?」

 その声は、先ほどと同じく機械的でありながら、どこか威厳に満ちていた。

「私はセレスティア・ヴェリタス。この者との契約により、封印より解き放たれました」

 セレスティアは気を失って倒れているレトを指差した。その指先は陶器のように白く、まるで芸術作品のような美しさだった。内心では、突然現れた騎士見習いの少女にどう説明すべきか、僅かな困惑を感じていた。

 エリナの顔が青ざめる。正義感の強い騎士見習いとして、この状況にどう対処すべきか判断がつかずにいた。

「あの、あなたはいったい……」

「私は魔王です」

 セレスティアは何の躊躇もなく、爆弾発言をした。その言葉は倉庫の空気を凍りつかせ、エリナの心臓を跳ね上がらせた。内心では、自分の正体を隠す必要性を感じつつも、契約の性質上嘘をつくことができないもどかしさを抱えていた。

 古文書館の静寂の中で、三人の運命が大きく動き始めた瞬間だった。レトの心の奥では、ついに本当の冒険が始まるという期待が、朦朧とした意識の中で静かに燃え上がっていた。
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