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ペペロンチーノ

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逃げる様に自転車を飛ばした俺は喉が渇き、路肩に自転車を停めて小倉山駅前のコンビニで水を買い、一口で半分近くを喉に流し込んだ。

大崎先生の言葉、昔の微かな記憶を流し込む様に喉を鳴らして飲んだ。

大崎先生には悪い事をしたと反省した。後日しっかりと謝らないといけない。

今日はもうバイトを探す気分でもないから帰ろうと自転車にまたがったその時に、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。レオだ。

レオ「ほんとに?!ははは!!!彩香ちゃんそれ最高だよー!!」

極力気配を消して後ろ向きに立ち止まる俺を追い越したレオ達は、俺には気付かないまま駅前の角を曲がった。こっそりと覗くと、2人はその先にある[trattria sorriso(トラットリア ソッリーソ)]という、昔からあるイタリアンのお店に入っていったのだ。

なんだか探偵みたいでワクワクしてきた俺は店の窓から2人を覗いていた。
昔からダメだと分かってる事ほど燃えてしまうタイプなんだ。

どんな会話をしてるんだろう。さっきとは打って変わって、少し真剣モードな会話をしている様だ。

2人に見入る俺はいつしか周りの目も気にしなくなっていた。なので背後に近づく気配にも全く気付けなかった。

?「こらっ!」

そう言われながら空手チョップをお見舞いされた俺が驚きながら振り返ると、そこには飲食店のホールスタッフが身に付けるサロンを巻いた、ショートヘアーで背の小さい女の人がいた。150センチくらいだろうか。

健人「びっくりした、何すんだよ。」

小さい女「何すんだよ。じゃなーい!それこっちのセリフなんだけど!なに店の中ジロジロ見てるの?お客さんが不審がるでしょ!?」

健人「うっ・・・すいません・・・。」

返す言葉が無かった。完全に俺が悪いし、冷静になると急に恥ずかしさが込み上げてきた。自己嫌悪とでもいうのか。俺は何をやっているんだ。

?「た、高須君!?」

しかもこんなちんちくりんな女に怒られてる時に知り合いに遭遇?!誰だ?
恐る恐る振り返るとそこにはマドンナ里奈さんがいた。よりにもよって里奈さんに見られるなんて、この上なく最悪だ。

健人「りりり、里奈さん?!?!」

小さい女「里奈ちゃんおはよー!この男の子、里奈ちゃんの知り合いなの?」

里奈「あ、薫さん!おはようございます!はい、クラスメイトです!」

里奈さんは俺に目線を変えて続けてこう話した。

里奈「この人はこのお店の店長さんだよ!」

健人「店長?!」

同い年かせいぜい1、2歳しか離れて無さそうなこのちんちくりんが店長と聞き、俺は驚きを隠せず口を大きく開けてしまっていた。

女店長「君いま私が店長って知って驚いてるでしょ?こんな子供が?!って思ってるでしょ?顔に出てるもん!どうせ童顔ですよー。」

女はすごい、単純な男の事などお見通しだ。

女店長「それにしても里奈ちゃん来るの早いね!まだ一時間前なのに!」

里奈「出勤前にご飯食べようと思って!」

女店長「じゃあなんか作ってあげる!私もお腹減ったー!!」

里奈「良いんですか?嬉しい!ありがとうございます!」

里奈さんがこのソッリーソでバイトをしている事は知らなかった。里奈さんとお近付きになれるチャンスかもしれないからあしげよく通おう。その為には店長にも嫌われてはいけない。そう思い俺は少しでも心象を良くする為にワントーン上げて挨拶をした。

健人「店長、今日はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした!里奈さんバイト頑張ってね!今度食べに来るね!」

100点だ。これでまた来ても問題ないだろう。振り返り帰ろうとすると女店長が一言。

女店長「どこ行くの?君も食べて行きなよ!」

健人「え、でもお金無いですし、家にもご飯あるんで大丈夫です。」

女店長「里奈ちゃんのお友達からお金なんて取らないよ。でも家のご飯あるなら仕方ないなー。何があるの?」

健人「えっと、カップ・・・ラーメン?」

女店長「カップラーメン?!だめ!いい若いのがカップラーメンなんてだめだめ!!舌がバカになーる!里奈ちゃんこの子連れてきて!」

里奈「は、はい!た、高須君!いこっ!」

里奈ちゃんは俺の手を握った。これをされて付いていかない男はいない。もしいても仲良く出来ない。これは不可抗力だ。店長はずるい。

でも手を引かれたまま店に入ると、当然レオと彩香にこれを見られてしまう。

健人「里奈さん!待って!ちょっと待って!!」

里奈「ほらはやく!」

里奈さんはなぜか急いでいた。勢い任せに俺の手を引く。
これはもうだめだ。見られる。明日の良いネタにされるな。店に入ると案の定、早々に2人に声をかけられた。

レオ「皆さん外で何騒いでたのー?」

やはり窓際であれだけやれば気付かれるか。レオは俺と里奈さんの繋いだ手を見ると、ニヤリとまた話し始めた。

レオ「おっと、お2人さん仲良しだねー!!お似合いなんじゃない?ねー、彩香ちゃん!」

彩香「うん!里奈も手なんて繋いで、結構大胆。」

里奈さんは慌てふためき俺の手を放り投げた。

里奈「え?彩香?!レオ君?!い、今のは違くて!てか彩香なんかしたの???」

彩香「ううん、たまたまだよ!」

俺にはこの女の子2人の会話の意味はよく分からなかった。これで通じるのか。やはり女の子は器用な生き物だ。

里奈さんは赤面しながら俺を半個室のテーブル席に案内する。しかし赤面している里奈さん、堪らなく可愛い。

里奈「ほんっとびっくりした。来るなら言っといて欲しかった!」

健人「ははは」

少し怒ってる里奈さんも可愛い。
そうこうしている内になんだかニンニクの良い香りがしてきた。お昼ご飯だろうか。しかしお腹に入れば一緒だし、里奈さんとご飯を待ってるこの時間が何よりもご馳走じゃないか。女店長よ、来るな。とすら思った。

しばらくすると女店長が器用にお皿を3つ抱えてテーブルまで現れた。

女店長「お待たせ致しましたん!ペペロンチーノです!私と里奈ちゃんはこの後接客もあるからニンニク少なめね!」

里奈「はーい!ありがとうございます!」

いっぱいに立ち込める湯気の奥には、オリーブオイルと乳化したキラキラとしたソースに包まれたパスタがあった。

女店長「じゃあ食べよっか!」

一同「いただきまーす!」

フォークを手に取り、輪切りにされた鷹の爪をひとつフォークに潜らせて、そのまま一口分のパスタがを上手に巻き取った。

それを口に運んだ瞬間が、きっと俺の人生を少しだけ変えた瞬間だったのだと思う。

健人「おいしい、おいしい!!」

俺は何かに追われているかの様に一瞬で平らげた。こんなに美味しいペペロンチーノを食べたのは初めての事だったのだ。

女店長「食べるの早!犬なの?味わってない!」

健人「味わいましたよ!正直、美味しくてびっくりしました。」

女店長「えへへー、でしょー!あたりまえ!」

既に食べ終わり水を飲む俺と、小さな口にパスタを運ぶ里奈さんに向かい女店長は話し始めた。

女店長「ペペロンチーノって本場イタリアのリストランテなんかに行くとほとんど扱ってないの。」

健人「?」

里奈「?」

女店長「ペペロンチーノの正式な名前はアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノって言うの。アーリオがニンニク、オーリオがオイル、ペペロンが唐辛子って意味。使う食材は安いし簡単だから、イタリアでは貧乏人でも食べれる、絶望のパスタなんて呼ばれ方もしてるくらい!」

こんなに美味しくて定番のパスタが、本場ではそんなに無下な呼ばれ方をしている事を知り驚いた。

女店長「そんなパスタも海を渡ってしまえば、日本人にこんなにも愛されるパスタになれる。なんかさ、人と人の出会いに似てると思わない?一人一人に居場所があるように。」

俺は女店長の話に聞き入り、強く握ったグラスの水もすっかり温もってしまった。里奈さんもいつの間にかパスタを食べるフォークを置いて、女店長の目を見ていた。

女店長「里奈ちゃん達にもあるよ、居場所。いるよ、愛してくれる人たち。」



女店長「・・・ところで君はバイトとかしてるの?」

健人「自分ですか?今はしてないですけど・・・。」

女店長「じゃあウチでやりなよ!里奈ちゃんもお友達いた方がバイト楽しくなるし!それがいい!決まりねだ!!」

健人「待ってください!自分は飲食店なんてガラじゃないんです。接客なんて・・・。」

女店長「そう?大丈夫だと思うよ?君、笑ってごらん!ほら、笑って!」

この人は何を唐突に。しかしそのあまりの唐突さが面白くなり、不思議と純粋な笑顔が込み上げてきた。

女店長「出来るじゃん、そういう笑顔!ずっとそれでいな!このお店の名前はトラットリア ソッリーソ!イタリア語で笑顔って意味なの!これから宜しくね!君、名前は?」

俺の意思は関係なく採用になってしまった。なんて強引な店長なんだ。こんな人と今後上手くやっていけるのだろうか。しかしここで働けば里奈さんとの距離が凄い勢いで縮まるのは明確だ。俺にとっても悪い話じゃない。

健人「それではここでお世話になります。高須健人と申します。宜しくお願いします。」

里奈「高須くんいいの??」

健人「ま、いいよ!」

女店長「高須健人君ね!私は店長の天音薫!店長って呼ばれるの好きじゃないから、みんなには下の名前で呼んでもらってるの!」

健人「あ、わかりました。」

薫「そしたら今日は制服とか準備しておくから、明日学校終わったらそのままおいで!」

健人「はい!」

こうして俺のバイト先は突然決まった。この日から俺の人生は少しずつ角度を変えていった。



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