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お里江の恋路③
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「総司!」
道場で素振りをしていた総司を、歳三は語気を荒げて呼んだ。
「お前、里江に何かしたか」
顔と顔がくっつくのではないかというくらい歳三は総司に詰め寄った。
「何って…?」
「里江が庭で首から血ぃ流して倒れてる。小刀を持ってたから、たぶん自分でやったんだ」
「えっ…!」
歳三と総司は里江とさくらの部屋に駆け込んだ。
「お里江ちゃん!」
すでに新八と左之助の手伝いもあり、里江はここに運び込まれていた。幸い急所は外していたようで、すでに血は止まっていたが意識は戻っていなかった。
「どうして…」総司は里江の横にへたりと座り込んだ。
「総司、何かあったのか?」さくらが尋ねた。
「お里江ちゃんに、言われたんです。妻にしてくれって」
「えっ!!」これには部屋にいた全員が声を上げた。
「そ、それで、お前は何て…?」新八がおそるおそる尋ねた。
「お里江ちゃんは嫁ぎ先が決まっているし、私はまだ修行中の身だから、無理だよって」
新八と左之助は、あちゃー、と言わんばかりに頭を抱えた。
「まあ、総司は悪くねえけどよ、やっぱりそれで思いつめたんだろうなぁ」左之助が言った。
それを聞いて、総司はバッと立ち上がると部屋を飛び出していった。
「総司!」さくらが続けて真っ先に立ち上がり、総司を追いかけて部屋を出た。
「俺、なんかまずいこと言っちゃった?」左之助が言った。新八も歳三も何も言わなかった。
総司は庭に面した縁側に座っていた。死んだような目で里江が倒れていた場所を見つめている。
「総司」
追いついたさくらは総司の名を呼んだ。
「姉先生」
さくらは総司の隣に腰掛けた。上手くかける言葉が見つからず、場を繋ぐ程度に「まさか、お里江がな」と言った。
「姉先生は、知ってたんですか?お里江ちゃんが、その、私のことをそういう風に思ってたって」総司はさくらの方を見ずに言った。
「いや。だが、新八に聞いたが、気づいてないのは私とお前だけだったらしい」さくらは、ハハッと乾いた声で笑ってみせたが、総司は何も反応しなかった。
「姉先生、女子とは、そういうものなのですか?」
「そういうものとは」
「夫婦になりたいと申し出て断られたら、自害するような生き物なのですか」
「わからぬなぁ。ほら、私は普通の女子とはだいぶ違うから。お里江のように誰かの妻になりたいと願ったこともないし」
「姉先生に聞いた私がばかでした」
「なんだと…!」
総司は体育座りの格好になり、自分の膝に顔をうずめた。
「私にはわからない…お里江ちゃんの気持ちが…女子のことが…私がお里江ちゃんをあんな目に…」
総司の声は震えていた。
さくらは総司の肩を抱き締めた。
「大丈夫。総司のせいではない」
「うっ…姉先生…」
総司が声を上げて泣くのを見るのは何年ぶりであったろうか。
さくらは左手で総司を抱き、右手でその頭をただ黙って撫でた。
その後意識を取り戻した里江は、予定より早く、すぐにでも日野に戻ることになった。
里江にとって試衛館での最後の夜、布団を並べて眠りにつこうとしていたさくらに里江が話しかけた。
「さくら様、私は、なんてことをしてしまったんでしょうね」さくらに背を向け横になっていた里江はポツリとそう言った。さくらはうーんと曖昧な相槌を打った。
「ただでさえ沖田様を困らせたのに、さらにあんな顔をさせてしまった。もう、合わせる顔がありません」
「ま、待て、早まるな」さくらは里江が再び自害を図るのではないかと思い、がばっと飛び起きた。
「ご安心を。私は明日、日野に帰ります。祝言までには傷跡も治って、何事もなかったようにお嫁に行くのです」
里江は自分の首に手を当てた。まだ包帯が痛々しく巻かれている。
「でも、本当に、沖田様の側にいられないなら、死んでも構わないと思ったのです。私はさくら様みたいに殿方と対等の立場になってお慕いする方の側にいることはできないから。沖田様の側にいるためには妻にしてもらうしかない。もちろん、沖田様にとって剣術が何よりも大切なのもわかっていました。だから、賭をしたんです」
さくらは単純に、すごい、と思った。そこまで総司のことを想っているなんて。さくらは誰かに対してそんな風に思ったことはなかった。
「さくら様が羨ましいです。ずっと沖田様の側にいられて。好いたお人の側にいられて」
「いや、総司は私にしてみれば弟みたいなもので好いたお人などでは…」さくらは里江の発言を文字通り受け取り、文字通り返した。
「もちろんわかっております。私が申したのは、単純に沖田様のお側にいられて羨ましいということと、さくら様が、さくら様のお慕いしているお方と、側近く日々を過ごせることが、です」
「私は別に、”お慕いしているお方”などおらぬが…」さくらはやはり意味がわからなかった。
「それならば、さくら様は今が一番幸せでございますね。気づいてしまえば、胸が苦しくなってしまいますから」
一回りも年下の娘にそんな物言いをされるのはいささか面白くない気もしたが、「恋」を知っているか知らないかという意味では里江が先輩であることに間違いはなく、さくらは「そういうものかね」と呟いた。
一瞬だけ、さくらの脳裏に思い浮かんだ記憶があった。その記憶を、いや、まさかな、とさくらは打ち消した。
「まだ体が万全ではないのだから、もう寝た方がいい」さくらは優しく声をかけた。
「はい、おやすみなさい」
次の日、歳三と源三郎に付き添われ、里江は試衛館を後にした。さくら達は門前でその姿を見送ったが、総司だけはついに顔を見せなかった。
道場で素振りをしていた総司を、歳三は語気を荒げて呼んだ。
「お前、里江に何かしたか」
顔と顔がくっつくのではないかというくらい歳三は総司に詰め寄った。
「何って…?」
「里江が庭で首から血ぃ流して倒れてる。小刀を持ってたから、たぶん自分でやったんだ」
「えっ…!」
歳三と総司は里江とさくらの部屋に駆け込んだ。
「お里江ちゃん!」
すでに新八と左之助の手伝いもあり、里江はここに運び込まれていた。幸い急所は外していたようで、すでに血は止まっていたが意識は戻っていなかった。
「どうして…」総司は里江の横にへたりと座り込んだ。
「総司、何かあったのか?」さくらが尋ねた。
「お里江ちゃんに、言われたんです。妻にしてくれって」
「えっ!!」これには部屋にいた全員が声を上げた。
「そ、それで、お前は何て…?」新八がおそるおそる尋ねた。
「お里江ちゃんは嫁ぎ先が決まっているし、私はまだ修行中の身だから、無理だよって」
新八と左之助は、あちゃー、と言わんばかりに頭を抱えた。
「まあ、総司は悪くねえけどよ、やっぱりそれで思いつめたんだろうなぁ」左之助が言った。
それを聞いて、総司はバッと立ち上がると部屋を飛び出していった。
「総司!」さくらが続けて真っ先に立ち上がり、総司を追いかけて部屋を出た。
「俺、なんかまずいこと言っちゃった?」左之助が言った。新八も歳三も何も言わなかった。
総司は庭に面した縁側に座っていた。死んだような目で里江が倒れていた場所を見つめている。
「総司」
追いついたさくらは総司の名を呼んだ。
「姉先生」
さくらは総司の隣に腰掛けた。上手くかける言葉が見つからず、場を繋ぐ程度に「まさか、お里江がな」と言った。
「姉先生は、知ってたんですか?お里江ちゃんが、その、私のことをそういう風に思ってたって」総司はさくらの方を見ずに言った。
「いや。だが、新八に聞いたが、気づいてないのは私とお前だけだったらしい」さくらは、ハハッと乾いた声で笑ってみせたが、総司は何も反応しなかった。
「姉先生、女子とは、そういうものなのですか?」
「そういうものとは」
「夫婦になりたいと申し出て断られたら、自害するような生き物なのですか」
「わからぬなぁ。ほら、私は普通の女子とはだいぶ違うから。お里江のように誰かの妻になりたいと願ったこともないし」
「姉先生に聞いた私がばかでした」
「なんだと…!」
総司は体育座りの格好になり、自分の膝に顔をうずめた。
「私にはわからない…お里江ちゃんの気持ちが…女子のことが…私がお里江ちゃんをあんな目に…」
総司の声は震えていた。
さくらは総司の肩を抱き締めた。
「大丈夫。総司のせいではない」
「うっ…姉先生…」
総司が声を上げて泣くのを見るのは何年ぶりであったろうか。
さくらは左手で総司を抱き、右手でその頭をただ黙って撫でた。
その後意識を取り戻した里江は、予定より早く、すぐにでも日野に戻ることになった。
里江にとって試衛館での最後の夜、布団を並べて眠りにつこうとしていたさくらに里江が話しかけた。
「さくら様、私は、なんてことをしてしまったんでしょうね」さくらに背を向け横になっていた里江はポツリとそう言った。さくらはうーんと曖昧な相槌を打った。
「ただでさえ沖田様を困らせたのに、さらにあんな顔をさせてしまった。もう、合わせる顔がありません」
「ま、待て、早まるな」さくらは里江が再び自害を図るのではないかと思い、がばっと飛び起きた。
「ご安心を。私は明日、日野に帰ります。祝言までには傷跡も治って、何事もなかったようにお嫁に行くのです」
里江は自分の首に手を当てた。まだ包帯が痛々しく巻かれている。
「でも、本当に、沖田様の側にいられないなら、死んでも構わないと思ったのです。私はさくら様みたいに殿方と対等の立場になってお慕いする方の側にいることはできないから。沖田様の側にいるためには妻にしてもらうしかない。もちろん、沖田様にとって剣術が何よりも大切なのもわかっていました。だから、賭をしたんです」
さくらは単純に、すごい、と思った。そこまで総司のことを想っているなんて。さくらは誰かに対してそんな風に思ったことはなかった。
「さくら様が羨ましいです。ずっと沖田様の側にいられて。好いたお人の側にいられて」
「いや、総司は私にしてみれば弟みたいなもので好いたお人などでは…」さくらは里江の発言を文字通り受け取り、文字通り返した。
「もちろんわかっております。私が申したのは、単純に沖田様のお側にいられて羨ましいということと、さくら様が、さくら様のお慕いしているお方と、側近く日々を過ごせることが、です」
「私は別に、”お慕いしているお方”などおらぬが…」さくらはやはり意味がわからなかった。
「それならば、さくら様は今が一番幸せでございますね。気づいてしまえば、胸が苦しくなってしまいますから」
一回りも年下の娘にそんな物言いをされるのはいささか面白くない気もしたが、「恋」を知っているか知らないかという意味では里江が先輩であることに間違いはなく、さくらは「そういうものかね」と呟いた。
一瞬だけ、さくらの脳裏に思い浮かんだ記憶があった。その記憶を、いや、まさかな、とさくらは打ち消した。
「まだ体が万全ではないのだから、もう寝た方がいい」さくらは優しく声をかけた。
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