22 / 37
四大校駅伝競争 ――第一回箱根駅伝③
しおりを挟む
悉乃は、頭に浮かんだ考えをぶんぶんと振り払った。そうこうしているうちに、「高師、八区通過!」という情報が入ってきた。明治との差は十数分程度だ。その差がすぐに縮まるものなのか悉乃にはわからなかったが、とにかく今走り始めたであろう九区の走者の次が武雄ということだけは明らかだった。
「なんだかそわそわして来ましたわ。九区を越えたら、いよいよ茂上さんですわね」
キヨの台詞は、悉乃をはじめ、その場にいる大勢の見物人の気持ちを代弁していた。気が付くと、再び人が増え始めている。
悉乃とキヨは、その場を一歩も動かずにただひたすら待った。先ほど人波が一時引いた時にゴール横最前列を陣取ったのだ。ここを死守して、武雄のゴールの瞬間を見届ける。そしてとうとう、「明治、九区通過!」数分の後に「高師、九区通過!」と声が聞こえた。
一位の明治と、二位・東京高師の差は、先ほどより縮まっている。「明治」と書いた旗を振る人はより激しく旗を振り、「東京高師」の旗も俄かにバサバサと勢いよく音を立てはじめた。
「いけるかもしれねえぞ! 高師の逆転!」
誰かがそんなことを叫んだ。それができるとしたら、武雄の走りにかかっている。悉乃は、ここまで来ればもう、祈るしかないと腹をくくった。
――武雄さん、がんばって。
九区通過! の報に、わっと盛り上がった有楽町だったが、選手が目の前に来るであろう時間まではまだまだかかる。皆徐々に静かになり、固唾を飲んで西の方角を見つめた。再び歓声が聞こえたのは、一時間も経った頃合いだった。
「明治だ!」
誰かの声が聞こえた。悉乃とキヨは身を乗り出して、皆の見ている方向に目を凝らした。確かに、明治の選手がこちらに近づいてきているのが見える。
武雄はどうしたのだろう。途中で怪我などしていないか。棄権したという情報はないけれど、無事なのだろうか。悉乃はそんなことを考えながら右手で左の腕を握った。あまりに強く握っていたことに、左腕の痛みで気づいた。
その時である。おい、もう一人来てるぞ! という声がした。明治の選手の後ろから、一人の選手が走ってくるのが見えた。
「武雄さん……」
悉乃の膝ががくっと崩れた。
「悉乃さん!? 大丈夫?」
「大丈夫ですわ……少し、安心したら、力が抜けてしまって……」
キヨに支えられ、よろよろと体勢を立て直した悉乃の視線は、武雄の姿だけをとらえた。
周囲の声援も熱を帯びていく。悉乃も、どさくさにまぎれてしまえと、声を張り上げた。
「がんばって! 武雄さん!」
悉乃の声が届いたのか、はたまた偶然そのタイミングだったのか、武雄は徐々にスピードを上げた。ゴールまではあと数十メートル。一位の明治の選手まで、あと数メートル。
わあっと、ひときわ歓声が大きくなった。武雄が、先頭に躍り出た。
悉乃は、近づいてくる武雄の顔を見つめた。あの時と、初めて自分の目の前を過ぎ去っていったあの時と、同じだった。疲れの中にも、楽しそうな、満足げな表情が浮かんでいる。
会場の盛り上がりは最高潮に達していた。武雄は勢いを保ったまま、ゴールテープを切った。
「一着! 東京高師!」
その声が聞こえた瞬間、武雄の足は急にふらりともつれた。崩れ落ちるように、悉乃の目の前に倒れこんだ。
「なんだかそわそわして来ましたわ。九区を越えたら、いよいよ茂上さんですわね」
キヨの台詞は、悉乃をはじめ、その場にいる大勢の見物人の気持ちを代弁していた。気が付くと、再び人が増え始めている。
悉乃とキヨは、その場を一歩も動かずにただひたすら待った。先ほど人波が一時引いた時にゴール横最前列を陣取ったのだ。ここを死守して、武雄のゴールの瞬間を見届ける。そしてとうとう、「明治、九区通過!」数分の後に「高師、九区通過!」と声が聞こえた。
一位の明治と、二位・東京高師の差は、先ほどより縮まっている。「明治」と書いた旗を振る人はより激しく旗を振り、「東京高師」の旗も俄かにバサバサと勢いよく音を立てはじめた。
「いけるかもしれねえぞ! 高師の逆転!」
誰かがそんなことを叫んだ。それができるとしたら、武雄の走りにかかっている。悉乃は、ここまで来ればもう、祈るしかないと腹をくくった。
――武雄さん、がんばって。
九区通過! の報に、わっと盛り上がった有楽町だったが、選手が目の前に来るであろう時間まではまだまだかかる。皆徐々に静かになり、固唾を飲んで西の方角を見つめた。再び歓声が聞こえたのは、一時間も経った頃合いだった。
「明治だ!」
誰かの声が聞こえた。悉乃とキヨは身を乗り出して、皆の見ている方向に目を凝らした。確かに、明治の選手がこちらに近づいてきているのが見える。
武雄はどうしたのだろう。途中で怪我などしていないか。棄権したという情報はないけれど、無事なのだろうか。悉乃はそんなことを考えながら右手で左の腕を握った。あまりに強く握っていたことに、左腕の痛みで気づいた。
その時である。おい、もう一人来てるぞ! という声がした。明治の選手の後ろから、一人の選手が走ってくるのが見えた。
「武雄さん……」
悉乃の膝ががくっと崩れた。
「悉乃さん!? 大丈夫?」
「大丈夫ですわ……少し、安心したら、力が抜けてしまって……」
キヨに支えられ、よろよろと体勢を立て直した悉乃の視線は、武雄の姿だけをとらえた。
周囲の声援も熱を帯びていく。悉乃も、どさくさにまぎれてしまえと、声を張り上げた。
「がんばって! 武雄さん!」
悉乃の声が届いたのか、はたまた偶然そのタイミングだったのか、武雄は徐々にスピードを上げた。ゴールまではあと数十メートル。一位の明治の選手まで、あと数メートル。
わあっと、ひときわ歓声が大きくなった。武雄が、先頭に躍り出た。
悉乃は、近づいてくる武雄の顔を見つめた。あの時と、初めて自分の目の前を過ぎ去っていったあの時と、同じだった。疲れの中にも、楽しそうな、満足げな表情が浮かんでいる。
会場の盛り上がりは最高潮に達していた。武雄は勢いを保ったまま、ゴールテープを切った。
「一着! 東京高師!」
その声が聞こえた瞬間、武雄の足は急にふらりともつれた。崩れ落ちるように、悉乃の目の前に倒れこんだ。
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
石榴(ざくろ)の月~愛され求められ奪われて~
めぐみ
歴史・時代
お民は江戸は町外れ徳平店(とくべいだな)に夫源治と二人暮らし。
源治はお民より年下で、お民は再婚である。前の亭主との間には一人息子がいたが、川に落ちて夭折してしまった。その後、どれだけ望んでも、子どもは授からなかった。
長屋暮らしは慎ましいものだが、お民は夫に愛されて、女としても満ち足りた日々を過ごしている。
そんなある日、徳平店が近々、取り壊されるという話が持ちあがる。徳平店の土地をもっているのは大身旗本の石澤嘉門(いしざわかもん)だ。その嘉門、実はお民をふとしたことから見初め、お民を期間限定の側室として差し出すなら、長屋取り壊しの話も考え直しても良いという。
明らかにお民を手に入れんがための策略、しかし、お民は長屋に住む皆のことを考えて、殿様の取引に応じるのだった。
〝行くな!〟と懸命に止める夫に哀しく微笑み、〝約束の1年が過ぎたから、きっとお前さんの元に帰ってくるよ〟と残して―。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】
naomikoryo
歴史・時代
名家に嫁いだ若き妻が、夫の失踪をきっかけに、江戸の奥向きに潜む権力、謀略、女たちの思惑に巻き込まれてゆく――。
舞台は江戸中期。表には見えぬ女の戦(いくさ)が、美しく、そして静かに燃え広がる。
結城澪は、武家の「御寮人様」として嫁いだ先で、愛と誇りのはざまで揺れることになる。
失踪した夫・宗真が追っていたのは、幕府中枢を揺るがす不正金の記録。
やがて、志を同じくする同心・坂東伊織、かつて宗真の婚約者だった篠原志乃らとの交錯の中で、澪は“妻”から“女”へと目覚めてゆく。
男たちの義、女たちの誇り、名家のしがらみの中で、澪が最後に選んだのは――“名を捨てて生きること”。
これは、名もなき光の中で、真実を守り抜いたひと組の夫婦の物語。
静謐な筆致で描く、江戸奥向きの愛と覚悟の長編時代小説。
全20話、読み終えた先に見えるのは、声高でない確かな「生」の姿。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる