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6. 隣国の王弟殿下
その瞬間、心臓が大きな音を立てた。
こちらに近付いてくる、複数の騎乗した男性たち。その先頭で白馬を乗りこなしているのは、青みがかった艶やかな銀髪の騎士だった。漆黒の眼差しが、はっきりと私を見据えている。
彼の背後には、十名ほどの騎馬兵。皆統一された装備に身を包み、整った隊列で続いている。……おそらく国境警備隊の兵士たちだろう。
その一団が、私と村人たちのそばまでやって来たのだ。この場にいた全員に、一気に緊張した雰囲気が漂う。
先頭の騎士が白馬から降り、村人たちを一瞥する。そして再び私に視線を向けると、こちらに向かって真っ直ぐに歩いてきた。
(……っ! この方……)
遠目に見た時から、何となく見覚えがあるような気がしていた。近くに来てようやく気付く。
この方が、隣国イルガルド王国の王弟殿下──トリスタン・レオナール・イルガルド様であることに。
長身でがっしりとした体格。その鍛え上げられた肩幅と腕まわり、そして日に焼けた小麦色の肌は、まるで軍人のようだ。けれどそのお顔立ちは、とても繊細で美しい。こちらに堂々と歩み寄る彼の姿には威圧感こそあれ粗野な印象はなく、むしろ王族らしい品格が漂っていた。
(王宮晩餐会や親善式典にいらした時、何度かご挨拶をしたことがあるわ。まさか、こんな場所でお会いすることになるなんて……)
威風堂々とした姿に束の間見とれる。けれどふと我に返り、私は慌てて立ち上がった。……そして、気付いた。たった今、両手とワンピースの裾を泥まみれにしてしまったことに。無意識に置いた手鍬を、ちらりと見やる。
そばに来た彼も、私が誰だか気付いたようだ。その漆黒の瞳が驚いたように見開かれる。……まるで黒曜石のようだ。
「……あなたは……セレステ王子妃ではないか。ここで一体何を……?」
低く艶を帯びた声で、彼が私にそう尋ねる。私は泥まみれの手袋を着けたまま、無様な姿でカーテシーを披露した。もうどうにでもなれだ。
「大変ご無沙汰しております、イルガルド王国王弟殿下。……私はもう王子妃ではございません。出戻りまして、静養中の身。ただ今は、用水路の開通作業に挑戦しようとしておりました」
「……」
泥にまみれた手でワンピースをつまみ挨拶をした私を、王弟殿下はしばらくの間ぽかんと見つめていた。そして、ふっと声を漏らして笑う。
「なかなかインパクトのある再会の挨拶をありがとう、セレステ……、メロウ侯爵令嬢。そうだったな、もう王家からは離れられたのだった。失礼した」
「いいえ、どうぞお気になさらず。自分でもまだ侯爵家の娘に戻った事実に馴染んでおりませんので」
そう返すと、彼の唇がまた楽しそうに弧を描く。……改めて間近で見ると、本当に、なんて整ったお顔立ちなのだろう。少し生意気そうなその笑顔にも、ほんのりと色気が漂っている。
彼の背後に控えている兵士たちは、驚きを隠せない様子で私たちの会話を聞いている。……村人たちもだ。「あんた、王子妃だったのか!?」と、彼らの顔に書いてある。
「それで? 先日まで一分の隙もなく美しく着飾り、王宮で優雅に暮らしていたはずのあなたが、なぜ今ここで用水路の開通を? たしかにここはメロウ侯爵領ではあるが、全く事情が読めない」
好奇心に満ちた目で私を見つめそうおっしゃる王弟殿下に、私は観念し、事情を説明した。こんな姿を見られてしまった今、どう取り繕っても不自然だ。
「……端的にお話しいたしますと、王宮を離れた後、私は一度王都のメロウ侯爵家タウンハウスに戻りました。その後父に命じられ、このすぐそばにある侯爵家所有の屋敷にて、静養することに。ただ、ご覧のとおり元気いっぱいですので、引きこもっていることに辟易しまして。散歩……いえ、領地の視察をしておりました。すると、この国境をまたぐ川を巡って、両国の民たちが……」
私があらかた話し終えると、王弟殿下は片手で口元を覆いクックッと肩を揺らす。
「なるほど。事情はよく分かったが、あなたが自ら仮の用水路の開通作業に参加しようとは。見上げた根性と行動力だな。……俺も手伝おう」
(……え?)
そうおっしゃるやいなや、王弟殿下は上着を脱ぎ、背後に控えていた騎士の一人に渡す。そしてシャツの袖をまくると、私が掘ろうとしていたあたりにしゃがみ込んだ。……シャツの下から現れた腕も、小麦色だ。無駄のない筋肉が浮かんでいる。どうやらお勉強だけをしてきた王弟殿下ではなく、鍛錬も欠かさない方のようだ。
「ここから掘っていけばいいのか? ……おい、ここの道具を使わせてもらうぞ」
彼は私がついさっき村人たちに言ったのと同じ言葉を彼らに投げかけると、返事も聞かずに置いてあった手鍬の一つを持つ。そして勢いよくザクザクと土を掘りはじめた。
しばらく呆気にとられて見ていた私に、王弟殿下は顔を上げて声をかけてくる。
「どうした? やはり土にまみれるのが嫌になったか?」
片方の口角を上げたその挑発的な笑みに我に返り、私は軽く咳払いをして殿下の近くにしゃがむ。
「……まさか。お手伝い感謝いたしますわ。では、私はこちらの方から」
少しムキになりながら、私も同じように手鍬を持ち、土に降りおろす。するとすぐに、見ていた村人たちからも声が上がる。
「……お、俺もやる!」
「こっちに板があるぞ! 土留めに使えそうだ」
「ロープもある、杭を打てば固定できるぞ!」
戸惑いと緊張感の混じった声があちこちで飛び交い、何人かがバケツを手に駆け出した。
こちらに近付いてくる、複数の騎乗した男性たち。その先頭で白馬を乗りこなしているのは、青みがかった艶やかな銀髪の騎士だった。漆黒の眼差しが、はっきりと私を見据えている。
彼の背後には、十名ほどの騎馬兵。皆統一された装備に身を包み、整った隊列で続いている。……おそらく国境警備隊の兵士たちだろう。
その一団が、私と村人たちのそばまでやって来たのだ。この場にいた全員に、一気に緊張した雰囲気が漂う。
先頭の騎士が白馬から降り、村人たちを一瞥する。そして再び私に視線を向けると、こちらに向かって真っ直ぐに歩いてきた。
(……っ! この方……)
遠目に見た時から、何となく見覚えがあるような気がしていた。近くに来てようやく気付く。
この方が、隣国イルガルド王国の王弟殿下──トリスタン・レオナール・イルガルド様であることに。
長身でがっしりとした体格。その鍛え上げられた肩幅と腕まわり、そして日に焼けた小麦色の肌は、まるで軍人のようだ。けれどそのお顔立ちは、とても繊細で美しい。こちらに堂々と歩み寄る彼の姿には威圧感こそあれ粗野な印象はなく、むしろ王族らしい品格が漂っていた。
(王宮晩餐会や親善式典にいらした時、何度かご挨拶をしたことがあるわ。まさか、こんな場所でお会いすることになるなんて……)
威風堂々とした姿に束の間見とれる。けれどふと我に返り、私は慌てて立ち上がった。……そして、気付いた。たった今、両手とワンピースの裾を泥まみれにしてしまったことに。無意識に置いた手鍬を、ちらりと見やる。
そばに来た彼も、私が誰だか気付いたようだ。その漆黒の瞳が驚いたように見開かれる。……まるで黒曜石のようだ。
「……あなたは……セレステ王子妃ではないか。ここで一体何を……?」
低く艶を帯びた声で、彼が私にそう尋ねる。私は泥まみれの手袋を着けたまま、無様な姿でカーテシーを披露した。もうどうにでもなれだ。
「大変ご無沙汰しております、イルガルド王国王弟殿下。……私はもう王子妃ではございません。出戻りまして、静養中の身。ただ今は、用水路の開通作業に挑戦しようとしておりました」
「……」
泥にまみれた手でワンピースをつまみ挨拶をした私を、王弟殿下はしばらくの間ぽかんと見つめていた。そして、ふっと声を漏らして笑う。
「なかなかインパクトのある再会の挨拶をありがとう、セレステ……、メロウ侯爵令嬢。そうだったな、もう王家からは離れられたのだった。失礼した」
「いいえ、どうぞお気になさらず。自分でもまだ侯爵家の娘に戻った事実に馴染んでおりませんので」
そう返すと、彼の唇がまた楽しそうに弧を描く。……改めて間近で見ると、本当に、なんて整ったお顔立ちなのだろう。少し生意気そうなその笑顔にも、ほんのりと色気が漂っている。
彼の背後に控えている兵士たちは、驚きを隠せない様子で私たちの会話を聞いている。……村人たちもだ。「あんた、王子妃だったのか!?」と、彼らの顔に書いてある。
「それで? 先日まで一分の隙もなく美しく着飾り、王宮で優雅に暮らしていたはずのあなたが、なぜ今ここで用水路の開通を? たしかにここはメロウ侯爵領ではあるが、全く事情が読めない」
好奇心に満ちた目で私を見つめそうおっしゃる王弟殿下に、私は観念し、事情を説明した。こんな姿を見られてしまった今、どう取り繕っても不自然だ。
「……端的にお話しいたしますと、王宮を離れた後、私は一度王都のメロウ侯爵家タウンハウスに戻りました。その後父に命じられ、このすぐそばにある侯爵家所有の屋敷にて、静養することに。ただ、ご覧のとおり元気いっぱいですので、引きこもっていることに辟易しまして。散歩……いえ、領地の視察をしておりました。すると、この国境をまたぐ川を巡って、両国の民たちが……」
私があらかた話し終えると、王弟殿下は片手で口元を覆いクックッと肩を揺らす。
「なるほど。事情はよく分かったが、あなたが自ら仮の用水路の開通作業に参加しようとは。見上げた根性と行動力だな。……俺も手伝おう」
(……え?)
そうおっしゃるやいなや、王弟殿下は上着を脱ぎ、背後に控えていた騎士の一人に渡す。そしてシャツの袖をまくると、私が掘ろうとしていたあたりにしゃがみ込んだ。……シャツの下から現れた腕も、小麦色だ。無駄のない筋肉が浮かんでいる。どうやらお勉強だけをしてきた王弟殿下ではなく、鍛錬も欠かさない方のようだ。
「ここから掘っていけばいいのか? ……おい、ここの道具を使わせてもらうぞ」
彼は私がついさっき村人たちに言ったのと同じ言葉を彼らに投げかけると、返事も聞かずに置いてあった手鍬の一つを持つ。そして勢いよくザクザクと土を掘りはじめた。
しばらく呆気にとられて見ていた私に、王弟殿下は顔を上げて声をかけてくる。
「どうした? やはり土にまみれるのが嫌になったか?」
片方の口角を上げたその挑発的な笑みに我に返り、私は軽く咳払いをして殿下の近くにしゃがむ。
「……まさか。お手伝い感謝いたしますわ。では、私はこちらの方から」
少しムキになりながら、私も同じように手鍬を持ち、土に降りおろす。するとすぐに、見ていた村人たちからも声が上がる。
「……お、俺もやる!」
「こっちに板があるぞ! 土留めに使えそうだ」
「ロープもある、杭を打てば固定できるぞ!」
戸惑いと緊張感の混じった声があちこちで飛び交い、何人かがバケツを手に駆け出した。
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