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【第一章 覇者岑猛】第一節 流亡
恋を語る歌の祭りで
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翌日も花蓮は侍女の玉音のみを伴いやってきた。
今日は中秋である。
花蓮が唐突にいった。
「ねえ。猛哥。今日は歌墟に連れていってほしいのだけど」
歌墟とは対歌(歌の掛け合い)をおこなう祭りのことである。
チワン族はよく歌う民族であり、広西の西部一帯は「歌の海」と呼ばれるほどで、野も山も家のなかも歌声で満ちている。歌うのは歴史を語る歌や恋愛の歌など様々で、冠婚葬祭などで人が集まれば、美しい比喩と韻で飾られた即興の歌詞で歌い合う対歌が始まる。
歌墟は、チワン族の住む地域の複数の村で田植えの前の時期か中秋に催される。どこかの村で歌墟が開かれると、周辺の村からも数千人規模が歌の掛け合いをしに、もしくはそれをみるために集まってくる。適齢期の男女にとって歌墟は出会いの場であり、配偶者を探す真剣勝負の場でもある。
「えっ、歌墟?」
と、岑猛は訊き返した。むろん歌墟を知ってはいるが参加したことは一度もない。歌墟を土官が主催したり、土官自らが娯楽として歌墟の対歌に参加するということもあるが、基本的には庶民の習俗なのだ。
「ね、いいでしょ。いいでしょ。連れてって」
「いや、だめだよ」
「どうして、どうして」
と、花蓮は不服そうに唇を尖らせた。
「無理だよ。俺はいけない」
岑猛は、刺客を恐れて他国に身を潜める自分は不用意に人混みのなかにいくことは危険でできない、という意味でそういったのだが、花蓮は、
「わかった。恥ずかしいんでしょ。男のひとと女のひとが恋の歌を歌い合うのをみるのが恥ずかしいんでしょ」
と、決めつけた。
(そんなはず、あるわけないだろ)
と思いつつも
「そうなんだよ。そういう場は苦手で」
と、照れ笑いをしてみせた。
「だいじょうぶよ。私もドキドキするけど、面白いのよ。相手のことをきれいだ、すてきだ、とか、自分はお金持ちだ、家事はなんでも得意だ、とかいっていたかと思うと、ほかのひとのことを好きなことを知っているぞ、とか、飽きたら捨てるつもりでしょう、とかいって喧嘩みたいになったりするのよ。すっごく面白いの」
岑猛は首を横に振り、
「いや、やっぱりいいよ、俺は。兄さんに連れていってもらったらどうだ」
「だって、お父さんがいっちゃだめっていうの。だから兄さんは連れていってくれない」
と、花蓮は神妙にいい、一瞬のうちに瞳が濡れた。
「どうしてだめだっていうんだい」
「布洛陀さまがだめっていってるんだって」
布洛陀とは、その妻の米洛甲とともに天地万物を創造したとされるチワン族が信仰する神である。
おそらく父の岑璋は、若い男女が恋を語る歌墟に花蓮がいくには幼すぎると思っており、しかしそういっても納得しないのは目にみえているので、創造神の名を借りてやり過ごそうとしたのだろう。
「そんなわけないわよね。ねえ、そうでしょ」
「『そんなわけない』って、布洛陀さまがだめというはずがないってことかい?それとも布洛陀さまなんかいないということ?」
「だって私、布洛陀さまに会ったことないもん」
意外な感じがした。このくらいの子は目にみえぬものであっても親にいわれたものを無条件に信じるものだと思っていた。流されることなく自分で感じ思考することができる子なのだ。
「花蓮は歌墟によくいくのかい?」
「ううん。一度だけ。兄さんに連れていってもらった。でもそのとき、兄さんはお父さんにすごく怒られた」
「そうか。お父さんがそんなに怒るんじゃ、やっぱり難しいかな」
花蓮は口を歪めて本気で泣き始めた。
「いきたい、いきたい。猛哥も連れていってくれないんじゃ、私、いけないじゃない。私、もういくって決めたんだから」
と、花蓮は泣きながら大声でいう。
岑猛はとまどい、なんとか泣き止ませたいと思い、
「わかった、わかった。連れていってあげるよ」
と勢いでいってしまった。
いってすぐに岑璋との関係が悪化するとの後悔がよぎったが、小躍りして喜ぶ花蓮をみて、
(ふん。構うものか)
と頭のなかで斬り捨てるようにいって、花蓮の頭を撫でた。
夕刻、岑猛は鐘富を伴い、花蓮は玉音を連れ、四人で衙門を出た。
玉音は赤や黄、青、緑など色とりどりの刺繍が施された大きな球を抱えて持っている。
岑猛は玉音に訊いた。
「その繍球。誰にあげるつもりなのかい」
若い男女が対歌をするとき、女が歌を歌い意中の男に繍球を投げ、それを受けた男が歌って繍球を投げ返す。それを繰り返し、最後に男が繍球を受け取ればそれは女の気持ちを受け止めることを意味し、結婚を前提とした交際が始まるのだ。
しかし玉音は「ふふふ」と笑って、はぐらかした。
街の南のはずれに丘があり、歌墟はその丘の上の広場でおこなわれる。
街路には、いつになくひとが多かった。若い男だけ、もしくは若い女だけの数人から十人くらいの集団がいくつもあって、それらがみな陽気に語ったり歌ったりしながら丘の上を目指して歩いていく。
丘の上に着くと、すでにあちらこちらで対歌が始まっていた。それぞれの場所では男女それぞれ数人が向き合って立ち、一方のひとりが五言十二句を歌うと、他方のひとりがほとんど間を空けずにそれに返す五言十二句を歌う。それが繰り返されていく。それを何十人もの人々が取り囲み、ときには笑い、みごとないい回しや比喩には唸りつつ、歌の掛け合いの成りゆきを見守っている。
丘の広場の中央に人々が集まり始めた。それは、まもなく他よりもずっと大きな集団となった。
花蓮に手を引かれて人垣をかき分けていくと、中央に舞台があって、その上で一組の男女が歌を掛け合っていた。
「近くの村の一番の歌い手と、ほかの村の一番の歌い手とで試合をしているのよ。武術の試合みたいでしょ」と、花蓮が楽しそうにいった。「ふたりとも、すごくじょうずでしょう」
確かにふたりの歌声は他に比べて格別美しい。それはわかる。ただ、即興で繰り出される歌詞がうまいのかどうかは岑猛には全く判断できなかった。対歌は地域ごとに異なる特定の旋律に即興の歌詞が乗せられるのだが、旋律ごとに決まった場所に調子を整えるための音節が挿入されて歌われる。それゆえ旋律の全く異なる田州から来た岑猛には歌詞をほとんど聞き取れないのだ。
花蓮はしばらく舞台の上の歌の応酬をじっとみていたが、
「ねえ、私たちも歌おうよ」
といって、岑猛の手を引いた。
「待て、待て、無理だよ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。いくわよ」
と、花蓮が小さな手で岑猛を引く手に力をこめる。玉音が、
「お嬢様。無理をいってはいけません。猛さまは田州のかたなのですから歌えませんよ」
というと、
「だいじょうぶよ。合わせて適当に歌えば、それでだいじょうぶ」
といって、ひとりで舞台に上がっていってしまった。
観客から歓声が上がった。花蓮の登場を手を叩いて喜んでいる。みな花蓮のことを知っているのだ。人々にずいぶんと慕われているらしい。
男の歌い手が歌っているあいだに、女の歌い手が花蓮に場所を譲った。
男の五言十二句が終わり、花蓮が歌い始める。
澄んだ高い声。
聴衆が息を飲んだ。
花蓮の小さな口から解き放たれた歌が草木を撫で、縹色の空を飛び、稜線を赤く染めた山々に染み込んでいく。
歌詞の内容は聞き取れない。しかし、ところどころ四季の花の名や、その色や香りを美しく表現する単語が聞こえてくる。
聴衆が穏やかな顔で聴き惚れている。
と思うと、一斉に笑った。
歌詞を聞き取れない岑猛には彼らが笑った理由がわからない。
玉音が耳元で、
「お嬢様は、夫の浮気を咎める歌を歌っておられるのです」
といった。
「えっ。自然の美しさを歌っているのかと思ったよ。おいおい、あんな小さな子が夫の浮気って」
と驚くと、玉音は、いかにも当然というように。くすりと笑った。
花蓮の歌う姿をみながら、
(聡明な子だ)
と思った。美しい比喩で彩られた歌詞や人々を一斉に笑わす歌詞を即興で編んでいく。相当に頭の回転が速くなければできないことは、対歌をしたことがない岑猛にもわかる。
男が歌を返し、再び花蓮が歌い始める。
花蓮は歌いながら舞台の下にいる岑猛をみている。いかにも岑猛ひとりに向かって歌っているかのようだ。
聴衆がそれに気づき、岑猛をうしろから押し始めた。
岑猛は舞台の上に押し上げられてしまった。
花蓮の歌が終わる。
聴衆の目が一斉に岑猛に向けられる。
とはいえ、歌うことはできない。田州から来た者が、知らない旋律に乗せて歌うことなどできるはずはないのだ。それに、いままでなされていたやりとりを全く理解していないし、そもそも対歌などやったこともない。
岑猛が巨体に似合わぬ戸惑いをみせていると、花蓮が再び歌い出した。
五言十二句が終わるころ、玉音が舞台に上がってきて、花蓮に繍球を手渡した。
歌い終わった花蓮が繍球を投げ上げた。
繍球が緩い放物線を描いて岑猛の頭の上に落ちてくる。
岑猛は繍球を受け止めた。
聴衆が一斉に沸き、花蓮はその場で二回、三回と飛び跳ねた。
陽がすっかり暮れて互いの顔すらみえないほどになると、人々は三々五々広場から移動を始める。若者のなかには闇にまみれて通じ合う者もいるが、多くは丘をくだり、各自の家に戻り、そこへ見知らぬひとも招き入れて、それぞれ対歌をするのである。対歌は明け方近くまで続くのだが、岑猛たちは衙門へ戻る。
花蓮が「足が痛い」といってぐずり始めた。
鐘富がおぶろうとするのを制して、岑猛は自分の背に花蓮を乗せた。
坂をくだっていくと、どこからか甘く濃厚な香りが漂ってきた。
立ち止まると、背中の花蓮が、
「夜来香よ。いい匂いでしょ」
と、教えた。花蓮が指さす先には薄黄色の小さな花の集まりがあった。
これまで花に興味を持ったことがなく夜に香る花があるということに驚いたが、それ以上に、自分が花の香りに気づいたことが驚きだった。
広くて暖かい背中に安心した花蓮は、いつのまにかに眠ってしまっている。
丸く大きな月がのぼり、あたりをほのかで柔らかな光で満たしていく。
岑猛は、背中をなるべく揺らさないよう、歩幅を小さくし、ゆっくりと丘をくだっていった。
今日は中秋である。
花蓮が唐突にいった。
「ねえ。猛哥。今日は歌墟に連れていってほしいのだけど」
歌墟とは対歌(歌の掛け合い)をおこなう祭りのことである。
チワン族はよく歌う民族であり、広西の西部一帯は「歌の海」と呼ばれるほどで、野も山も家のなかも歌声で満ちている。歌うのは歴史を語る歌や恋愛の歌など様々で、冠婚葬祭などで人が集まれば、美しい比喩と韻で飾られた即興の歌詞で歌い合う対歌が始まる。
歌墟は、チワン族の住む地域の複数の村で田植えの前の時期か中秋に催される。どこかの村で歌墟が開かれると、周辺の村からも数千人規模が歌の掛け合いをしに、もしくはそれをみるために集まってくる。適齢期の男女にとって歌墟は出会いの場であり、配偶者を探す真剣勝負の場でもある。
「えっ、歌墟?」
と、岑猛は訊き返した。むろん歌墟を知ってはいるが参加したことは一度もない。歌墟を土官が主催したり、土官自らが娯楽として歌墟の対歌に参加するということもあるが、基本的には庶民の習俗なのだ。
「ね、いいでしょ。いいでしょ。連れてって」
「いや、だめだよ」
「どうして、どうして」
と、花蓮は不服そうに唇を尖らせた。
「無理だよ。俺はいけない」
岑猛は、刺客を恐れて他国に身を潜める自分は不用意に人混みのなかにいくことは危険でできない、という意味でそういったのだが、花蓮は、
「わかった。恥ずかしいんでしょ。男のひとと女のひとが恋の歌を歌い合うのをみるのが恥ずかしいんでしょ」
と、決めつけた。
(そんなはず、あるわけないだろ)
と思いつつも
「そうなんだよ。そういう場は苦手で」
と、照れ笑いをしてみせた。
「だいじょうぶよ。私もドキドキするけど、面白いのよ。相手のことをきれいだ、すてきだ、とか、自分はお金持ちだ、家事はなんでも得意だ、とかいっていたかと思うと、ほかのひとのことを好きなことを知っているぞ、とか、飽きたら捨てるつもりでしょう、とかいって喧嘩みたいになったりするのよ。すっごく面白いの」
岑猛は首を横に振り、
「いや、やっぱりいいよ、俺は。兄さんに連れていってもらったらどうだ」
「だって、お父さんがいっちゃだめっていうの。だから兄さんは連れていってくれない」
と、花蓮は神妙にいい、一瞬のうちに瞳が濡れた。
「どうしてだめだっていうんだい」
「布洛陀さまがだめっていってるんだって」
布洛陀とは、その妻の米洛甲とともに天地万物を創造したとされるチワン族が信仰する神である。
おそらく父の岑璋は、若い男女が恋を語る歌墟に花蓮がいくには幼すぎると思っており、しかしそういっても納得しないのは目にみえているので、創造神の名を借りてやり過ごそうとしたのだろう。
「そんなわけないわよね。ねえ、そうでしょ」
「『そんなわけない』って、布洛陀さまがだめというはずがないってことかい?それとも布洛陀さまなんかいないということ?」
「だって私、布洛陀さまに会ったことないもん」
意外な感じがした。このくらいの子は目にみえぬものであっても親にいわれたものを無条件に信じるものだと思っていた。流されることなく自分で感じ思考することができる子なのだ。
「花蓮は歌墟によくいくのかい?」
「ううん。一度だけ。兄さんに連れていってもらった。でもそのとき、兄さんはお父さんにすごく怒られた」
「そうか。お父さんがそんなに怒るんじゃ、やっぱり難しいかな」
花蓮は口を歪めて本気で泣き始めた。
「いきたい、いきたい。猛哥も連れていってくれないんじゃ、私、いけないじゃない。私、もういくって決めたんだから」
と、花蓮は泣きながら大声でいう。
岑猛はとまどい、なんとか泣き止ませたいと思い、
「わかった、わかった。連れていってあげるよ」
と勢いでいってしまった。
いってすぐに岑璋との関係が悪化するとの後悔がよぎったが、小躍りして喜ぶ花蓮をみて、
(ふん。構うものか)
と頭のなかで斬り捨てるようにいって、花蓮の頭を撫でた。
夕刻、岑猛は鐘富を伴い、花蓮は玉音を連れ、四人で衙門を出た。
玉音は赤や黄、青、緑など色とりどりの刺繍が施された大きな球を抱えて持っている。
岑猛は玉音に訊いた。
「その繍球。誰にあげるつもりなのかい」
若い男女が対歌をするとき、女が歌を歌い意中の男に繍球を投げ、それを受けた男が歌って繍球を投げ返す。それを繰り返し、最後に男が繍球を受け取ればそれは女の気持ちを受け止めることを意味し、結婚を前提とした交際が始まるのだ。
しかし玉音は「ふふふ」と笑って、はぐらかした。
街の南のはずれに丘があり、歌墟はその丘の上の広場でおこなわれる。
街路には、いつになくひとが多かった。若い男だけ、もしくは若い女だけの数人から十人くらいの集団がいくつもあって、それらがみな陽気に語ったり歌ったりしながら丘の上を目指して歩いていく。
丘の上に着くと、すでにあちらこちらで対歌が始まっていた。それぞれの場所では男女それぞれ数人が向き合って立ち、一方のひとりが五言十二句を歌うと、他方のひとりがほとんど間を空けずにそれに返す五言十二句を歌う。それが繰り返されていく。それを何十人もの人々が取り囲み、ときには笑い、みごとないい回しや比喩には唸りつつ、歌の掛け合いの成りゆきを見守っている。
丘の広場の中央に人々が集まり始めた。それは、まもなく他よりもずっと大きな集団となった。
花蓮に手を引かれて人垣をかき分けていくと、中央に舞台があって、その上で一組の男女が歌を掛け合っていた。
「近くの村の一番の歌い手と、ほかの村の一番の歌い手とで試合をしているのよ。武術の試合みたいでしょ」と、花蓮が楽しそうにいった。「ふたりとも、すごくじょうずでしょう」
確かにふたりの歌声は他に比べて格別美しい。それはわかる。ただ、即興で繰り出される歌詞がうまいのかどうかは岑猛には全く判断できなかった。対歌は地域ごとに異なる特定の旋律に即興の歌詞が乗せられるのだが、旋律ごとに決まった場所に調子を整えるための音節が挿入されて歌われる。それゆえ旋律の全く異なる田州から来た岑猛には歌詞をほとんど聞き取れないのだ。
花蓮はしばらく舞台の上の歌の応酬をじっとみていたが、
「ねえ、私たちも歌おうよ」
といって、岑猛の手を引いた。
「待て、待て、無理だよ」
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。いくわよ」
と、花蓮が小さな手で岑猛を引く手に力をこめる。玉音が、
「お嬢様。無理をいってはいけません。猛さまは田州のかたなのですから歌えませんよ」
というと、
「だいじょうぶよ。合わせて適当に歌えば、それでだいじょうぶ」
といって、ひとりで舞台に上がっていってしまった。
観客から歓声が上がった。花蓮の登場を手を叩いて喜んでいる。みな花蓮のことを知っているのだ。人々にずいぶんと慕われているらしい。
男の歌い手が歌っているあいだに、女の歌い手が花蓮に場所を譲った。
男の五言十二句が終わり、花蓮が歌い始める。
澄んだ高い声。
聴衆が息を飲んだ。
花蓮の小さな口から解き放たれた歌が草木を撫で、縹色の空を飛び、稜線を赤く染めた山々に染み込んでいく。
歌詞の内容は聞き取れない。しかし、ところどころ四季の花の名や、その色や香りを美しく表現する単語が聞こえてくる。
聴衆が穏やかな顔で聴き惚れている。
と思うと、一斉に笑った。
歌詞を聞き取れない岑猛には彼らが笑った理由がわからない。
玉音が耳元で、
「お嬢様は、夫の浮気を咎める歌を歌っておられるのです」
といった。
「えっ。自然の美しさを歌っているのかと思ったよ。おいおい、あんな小さな子が夫の浮気って」
と驚くと、玉音は、いかにも当然というように。くすりと笑った。
花蓮の歌う姿をみながら、
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と思った。美しい比喩で彩られた歌詞や人々を一斉に笑わす歌詞を即興で編んでいく。相当に頭の回転が速くなければできないことは、対歌をしたことがない岑猛にもわかる。
男が歌を返し、再び花蓮が歌い始める。
花蓮は歌いながら舞台の下にいる岑猛をみている。いかにも岑猛ひとりに向かって歌っているかのようだ。
聴衆がそれに気づき、岑猛をうしろから押し始めた。
岑猛は舞台の上に押し上げられてしまった。
花蓮の歌が終わる。
聴衆の目が一斉に岑猛に向けられる。
とはいえ、歌うことはできない。田州から来た者が、知らない旋律に乗せて歌うことなどできるはずはないのだ。それに、いままでなされていたやりとりを全く理解していないし、そもそも対歌などやったこともない。
岑猛が巨体に似合わぬ戸惑いをみせていると、花蓮が再び歌い出した。
五言十二句が終わるころ、玉音が舞台に上がってきて、花蓮に繍球を手渡した。
歌い終わった花蓮が繍球を投げ上げた。
繍球が緩い放物線を描いて岑猛の頭の上に落ちてくる。
岑猛は繍球を受け止めた。
聴衆が一斉に沸き、花蓮はその場で二回、三回と飛び跳ねた。
陽がすっかり暮れて互いの顔すらみえないほどになると、人々は三々五々広場から移動を始める。若者のなかには闇にまみれて通じ合う者もいるが、多くは丘をくだり、各自の家に戻り、そこへ見知らぬひとも招き入れて、それぞれ対歌をするのである。対歌は明け方近くまで続くのだが、岑猛たちは衙門へ戻る。
花蓮が「足が痛い」といってぐずり始めた。
鐘富がおぶろうとするのを制して、岑猛は自分の背に花蓮を乗せた。
坂をくだっていくと、どこからか甘く濃厚な香りが漂ってきた。
立ち止まると、背中の花蓮が、
「夜来香よ。いい匂いでしょ」
と、教えた。花蓮が指さす先には薄黄色の小さな花の集まりがあった。
これまで花に興味を持ったことがなく夜に香る花があるということに驚いたが、それ以上に、自分が花の香りに気づいたことが驚きだった。
広くて暖かい背中に安心した花蓮は、いつのまにかに眠ってしまっている。
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