花の舞う海〜倭寇に勝った女の物語

堀井九太郎

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【第三章 海へ】第一節 江浙の旅

初めて海をみた

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 花蓮は、鐘富しょうふ阮袞げんこん黄維こうい岑匡しんきょう莫蘭ばくらん林玲玲りんりんりんを加え、田州を発った。玲玲は、邦佐を擁した諸国連合軍に田州城が囲まれたときに、田州城からの脱出を助けてくれた女剣士である。その後まもなく東蘭州とうらんしゅうを出奔して花蓮の配下に加わった。

 急ぐ旅でもないが、全員が騎行なので速度は速く、三日目には南寧なんねいに着いた。
 岑匡が、南寧知府に挨拶にいったほうがいいのでは、と勧めたが、花蓮は
「いいのよ、いいのよ。面倒よ」
と顔の前で手を振り、一泊しただけで南寧を離れた。
 ここから江浙地方(江蘇浙江両省のこと。狭義では揚子江と銭塘江両流域に挟まれる地域)へゆくには東に向かい、広州の手前から内陸河川で北東方向へ進むのが通常である。ところが花蓮は真南へ向かった。遠回りとなっても、早く海がみたかったのだ。南寧から南へ向かえば海沿いの欽州きんしゅうまでわずか百キロメートルほどである。

 翌々日夕刻。初めて海をみた。
 丘を登ってゆき、頂上に出たとき、突然眼下に紺碧が広がった。
 湾内の景色であり、視界の左右の端には湾岸の陸地が遠くへと続いている。しかし花蓮は、海の広さは果てしない、と思った。
 うねる海面、単調に繰り返す波の音、粘度のある風、潮の香り。
 感動でことばを失った。
 いま立っているのは南に向かって口を開いた湾の東岸の丘の上である。
 西の空が紅く染まっており、やさしく輝く橙色の太陽から光の帯が海面を伝ってまっすぐに胸まで伸びている。その光が体に染み入るような感じがして、花蓮は思わず胸をおさえた。
 海から連なる光の帯を飲み込んだとき、自分は海と一帯なのだ、という感覚を抱いた。これまで海とは縁なく生きてきた。しかし今日からは違う。これから始まる海との関わりを予感せずにはおられなかった。自分の半生は、こうして海と出会うための準備の期間であったようにすら思えたのだった。

 欽州からは海に沿って東に向かい、マカオに着いた。
 ポルトガルが中国に来航するようになったのは一五一〇年代だが、ポルトガルのマカオにおける永久居留権が認められたのは一五五七年であり、この時点(一五四七年)ではマカオは特別な場所ではなく、浙江、福建、広東沿海に散らばるいくつかの交易港のひとつに過ぎなかった。ちなみにこのころの最大の国際交易港は浙江寧波沖の双嶼そうしょであり、双嶼には年に何隻ものポルトガル船が来航し、ポルトガル人が多数居住し彼らの教会や病院もあったという。
 太陽が西の海に落ちようとしている。
 鐘富と莫蘭、阮袞と玲玲がそれぞれ組になり今夜の宿を探しにいき、黄維が馬と荷物をみて、花蓮は岑匡を連れてマカオの街を歩き回った。
 花蓮は興奮した。
 初めてみる西洋人に驚いた。彫りの深い顔、高い鼻、様々な色の瞳や髪。彼らをまじまじとみた。飾りだらけで派手な赤い服を着て、それでいて毛深い足をふとももまで出している者を指さし声を出して笑ったときは、岑匡が慌てて窘めた。
 港に停泊している珍しい形の船を飽きることなく眺めた。
 ずんぐりとした巨大な船体、四本もある帆柱、帆注から下がる蜘蛛の糸のような無数のロープ。キャラック船である。甲板には黒く光る大砲が据えられている。
(わあ、きれい)
と、花蓮は思った。帆に風を孕んで海上を疾走する姿をぜひみてみたいと思った。これに乗って海を渡る自分を想像してみた。
 キャラック船を指さして、
「あれに乗ってみたい。乗ってみたい、乗ってみたい」
と駄々をこねると、
「無理をいっちゃだめですよ」
と、十歳以上も年下の岑匡に、親が子を叱るような口調でいわれた。
「なんで無理と決めつけるのよ。乗るわよ。絶対」そう言いだした花蓮を止めることはもはやできない。「そうだ。ここから寧波までは船でいきましょう。誰かに頼んで船に乗せてもらう」
 花蓮は港に面した酒場を指さした。店の前にポルトガル人たちがたむろしており、手にグラスをもって騒いでいる。
「ほらみて、水夫たちがお酒を飲む店のようね。あなた、あそこにいって船を調達してらっしゃい」
「いや、そう簡単におっしゃられても。彼らのことばもわかりませんし。まずは通事を探しましょう」
と、岑匡が躊躇すると、
「ことばなんかわからなくたってなんとかなるわよ。もう、じゃあいいわよ。私に任せなさい」
といって、花蓮は店に向かってスタスタと歩き始めた。
 夕陽に照らされた花蓮の背中を、岑匡が慌てて追いかけた。
 
 太陽が西の空にまだ残っているというのに、酒場のなかは思いのほかに混んでいた。薄暗い店内にたばこの煙が立ち込め、むせ返りそうになる。
 店内には、奥にカウンターがあるだけであり、男たちはみな立ったままでグラスを傾けている。花蓮が背の高い男たちのあいだを縫ってカウンターに向かって歩いていこうとすると、男たちは小柄で華奢な体を驚きの目で追った。そういえばこの店内のみならず、マカオに着いてからひとりも女をみていない。女が珍しいのだ。前後左右からの視線に晒される。男たちは垂涎し、唇を猥劣に鳴らした。
 男がひとり花蓮の進路に立ちはだかった。ひときわ長身で、腹回りは花蓮の三倍はありそうな巨漢である。
 岑匡が急いで花蓮と巨漢のあいだに立った。
 が、巨漢は岑匡の胸ぐらをつかみ軽々と持ち上げ、脇へ放った。そして花蓮の腕をつかみ、だらしのない笑顔でなにかをいった。
 花蓮は巨漢を見上げ、
「笑顔には笑顔を返すわね」
といって、微笑んでみせた。
 巨漢がだらしなく笑った瞬間、花蓮はつかまれた腕をまわして巨漢の腕をつかみ、そのままひねり上げた。
「これは、腕をつかまれたお返し」
 巨漢の体がくるりと回転し背中が花蓮のほうを向いた。
 巨漢がうめき声をあげると、花蓮は
「それと、私の連れを転がしたお返しもどうぞ」
といって、空いている手で巨漢の肩を押した。
 巨漢は岑匡の隣にどさりと倒れた。
 店内の男たちが一斉に「おぉ」と歓声を上げた。
 人垣が割れて花蓮の前にカウンターまで続く道ができた。
 カウンター越しのバーテンダーに向かって身振りで酒を注文した。
 次から次へと男からの声が掛かる。そのたびに頬笑み「寧波まで船でいきたい」と訊くのだが、ことばが通じない。
 口説けないと諦めた男が去り、また次の男がくる。それが繰り返された。
 そこへ北京語で、
「お困りのようですが」
と、背中から話し掛ける者があった。
 花蓮が驚き振り返ると、背丈はみなれた高さで肌の色が自分と変わらぬ男が立っていた。とはいえ髪型が奇怪である。頭頂部を剃り上げ、後方の髪を結わえて前方に向けている。
 男がいった。
「片方は一緒に酒を飲もうと誘い、片方はひたすらに寧波にいきたいと訴えるという奇妙な光景が続いていましたが」
「あなた、佛狼機のことばがわかるの」
「多少はわかります。でも、明のことばもこのとおりうまくはありませんが、ポルトガル語はもっとへたです」
「ポルトガル?」
 男は店内をぐるりとみて、
「彼らの国の名です」
 花蓮は男の奇怪の頭頂部をまじまじとみた。
「あなたは明人ではないのね。いったいどこのひと」
 男は花蓮の遠慮のない視線に苦笑しつつ、
「日本です。日本の博多の出身です」
 うしろで聞いていた岑匡が驚いたように花蓮と奇怪な頭髪の男のあいだに割ってはいった。
「ちょっと、じゃまよ」
と叱る花蓮に岑匡は、
「倭人です。日本とは倭国のことです」
「えっ、倭人」
と、花蓮は驚きつつも、嬉しそうな声を出した。この旅の目的のひとつが日本人とその武器について知ることであり、それが早くもかなうと思ったのだ。
 しかし岑匡は男のほうへ向き直り、手のひらで押すような仕草をして、距離を空けるよう求めた。岑栄に「倭人は獰猛、兇暴だから気をつけろ」とでもいわれているのだろう。
 花蓮は
「ちょっと、どきなさい」
といって岑匡を押しのけて、男の腰をみた。
「倭人の剣ね。みせて、みせて、ぜひみせて」
と、子供のようにいうと、男は笑って、
「いいですよ。でもここで抜くのは物騒ですから、場所を改めて」
といって、鞘をぽんと叩いてから、訊いた。
「船を探しておられるようですね」
「そうなのよ。誰か船に乗せてくれないかしら」
「私は南洋から双嶼そうしょに向かう途中でここに立ち寄ったのですが、よろしければ乗っていきますか」
 岑匡が首を横に振った。花蓮はそれを無視して、
「双嶼?寧波のすぐそばよね。私たちは寧波にいこうと思っているの。ぜひ乗せて」
 はしゃぐ花蓮をみて、男は、
「ただでお乗せするわけではないですよ。寧波のすぐそばまでお送りしますが、お代はいただかねばなりません。私は商人ですから。それはよろしいでしょうか」
といった。花蓮は男のはっきりとしたものいいに好感をもち、
「もちろん払うわ。運んでもらうのは私と六人の従者。それから馬七頭。いいわね」
 岑匡が割ってはいり、
「いやいや。倭人の海商など聞いたことがありません」
といって、いぶかしげに男をみた。岑匡は男に向かって、
「名ぐらい名乗ったらどうだ。それとも名も名乗れないのか」
「私は杉沢庄次郎と申します。明の方々には杉庄シャンジュアンと呼ばれています」
 杉沢はまっすぐに伸ばした上半身を前方に倒し頭頂部をみせた。
「本当に商人か?」
 岑匡は、海商ではなく海賊だろうと疑っているのだ。
 花蓮はそれとは別の疑いを抱きつつ、
「杉庄。あなた、本当に商人なの?なんだかそうはみえないわね」
と、同じ質問をして、杉沢の頭から足まで視線を動かした。
 杉沢は腰の刀に手をあてて、
「これのせいですか」
と訊いた。
「それもあるけど、それだけではないわ。姿勢のせいかしら。武人の気を感じるというか」
「私は武士の家に生まれました。父は博多という港の守護代の弟です」
「立派な家柄じゃないの」
「私は次男で、ゆえに身が軽いのです。特定の役についていないこともあって七年前の遣明船の土官に選ばれて明に渡りまして、そのときに商売のおもしろさに魅せられました。そこで叔父に出資を願いで出て船を買い、交易の商売を始めたのです」
「おもしろいわね。あなた」と、花蓮は嬉しそうに笑い、岑匡に対して「決めたわ。杉庄の船で寧波に向かう。いいわね」
 杉沢がいった。
「私の船は明後日に出航を予定しています」
「寧波まで、どのくらいかかるの」
「天候にもよりますが、二十日もみていただければいいでしょう」
「ならば、そのあいだに倭国についていろいろ教えてね。その分も料金を払うから」
「お話するのは構いませんし、むろん代金などいただきませんが、どうしてわが祖国についてお知りになりたいのですか」
「私の旅の目的のひとつはあなたの国について知ることなのよ。そこに住むのはどのようなひとたちなのか。武器はどのようなものを使うのか」
「そうですか――」といいつつ杉沢は振り返って店のそとをみた。「では、もうひとり、わが国の者に会ってみませんか。ちょうどいま店のそとにいますので」
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