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北
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兵士は、一人で北へと行進していた。そんな言葉のいいものではなかった。泥まみれのまま夜の森の中を走って、南から一歩でも遠くへと離れようとしていた。
手は傷だらけで、長いこと走っていたのか息は上がっていた。流した汗はすぐに冷え、枯れ木が転がる地面へと着水する。
とにかく、北へと逃げたかった。兵士は日中戦争に敗れたのだ。正確には、勝敗が見えて終戦を待たずして逃げ出した逃亡兵だったのだ。密かに船に乗り帰国した兵士は、東京に帰ることができず新潟から北を目指した。
恥や後悔が無いとは言わないが、死ぬよりはずっとマシと己を正当化して奮い立たせ、また足を動かす。山岳訓練の経験に感謝したのは、後にも先にもこの時限りだった。
何日か、下手したら何週間か走ったり、荒屋に籠ったりして、気がつけば津軽海峡が広がる青森へと辿り着いていた。もう兵士には路銀もなく、北海道に渡る気力もなかった。
もういい、ここで終わりにしよう―――。
兵士は、青森の小さい港町を逃避行の終点にすることを決意した。まずは住居を確保しなくてはならない。
だが、最初からこの課題は難問となっていた。兵士の服装は軍服のままで、敗走してきたと誰が見ても分かる格好だ。しかし着替える服など待ち合わせてもいない。仕方なく、ダメ元で住民に仮住まいを聞くしかなかった。
森を出て山沿いの街道を歩くと、畑仕事をしている老婆を発見した。根菜を土から抜いて側に積んでいる。冷たい海風に乗って、森では感じることのなかった土の匂いが鼻に届いた。
「あら、誰だが?」
兵士に気づいた老婆が作業をやめて津軽弁で聞いてきた。方言に似合わず優しい声色だ。余所者に冷たい印象があった兵士にとっては、少し面食らう出来事であった。話しやすい雰囲気になったはいいが、どう切り出そうかと兵士は悩んだ。
嘘をつくべきか、正直に打ち明けるべきか。数秒悩んだ末に、兵士は正直に話すことにした。兵士として恥を背負いながら逃げてきたが、これ以上恥晒しになるのは自分だけの損失では済まない。日本人として、人として誇れなくなると悟ったのだ。
「私は敗走して此処まで逃げてきた唯の兵士です。この街で静かに生きていきたいと思い、どうか仮でも良いので住居を紹介していただけないだろうか」
意を決して素直に打ち明けた兵士の事情に、老婆は動揺すらせずケロッとした表情で軽く返事をした。
「だったきゃこの先さ空き家があるがきゃ、そこさ住んだきゃいいし」
「い、いいんですか?」
「大丈てでだ」
親切に教えてくれた老婆に90度の礼をして、兵士は先にある空き家へと向かった。10分ほど歩いたところに、そこまでボロくない空き家が存在していた。一応玄関扉を叩き、人がいないか確認をする。返事も足音も聞こえなかったため、横引きのドアを開けようと手をかけた。鍵は何も掛かっておらず、中は昔からある和風の内装で、少し埃が積もっていた。囲炉裏にまだ火を点けていないから室温は少し寒かったが、外に吹く風は感じず、床に雨漏りのシミもなかった。
これは予想以上の住み心地だと、兵士は静かに歓喜した。汚れた軍服を居間に脱ぎ捨て、箪笥の中を漁る。前の住人が忘れていったであろう男物の服を借りて着込んだ。
厚めの紺の浴衣に白い作務衣、少し埃臭いが泥よりは良い。暖を取るためにまずは囲炉裏に火を灯す。火が強くなる間に桶に水を汲んで軍服を手洗いした。冷たい水が手から感覚を奪っていく。まだ冬前の秋だというのに、津軽の土地は冬支度に入ろうとしていた。
綺麗に水洗いされた軍服を広げて囲炉裏の側に敷いて乾かし、泥に染まった水を縁側から庭に捨てた。北風が雪崩れ込むように兵士越しの居間に侵入してきて、ガラスの濡れ縁をガタガタと揺らす。
少し引っ掛かる窓を閉めて、十分に火の勢いが増した囲炉裏へと誘われる。悴んだ手を翳し、橙色の光が網膜を焼き、久方ぶりの熱を体で受け止めた。
軈て、手に感覚が戻ってくる。皮膚を通り越して、心にも一時的な温もりが戻ってきた。
それと同じくして、敗戦から逃げた屈辱がぶり返してきた。遠くない最近のことなのに、何年も心に残る癒えない傷のように兵士の精神を揺さぶる。
ここには自分一人だけだ。知る顔もいない、親族は他界か満州に帰ってしまっていて、この先会う機会はもう無い。
現実が孤独を見せつけて、兵士から心の温度を奪おうと迫る。まるでキリストに囁き惑わす悪魔みたいだ。熱を帯びすぎたと思った兵士は、洗面所で顔を洗って頭を冷やした。それでも冷えたのは頭ではなく皮膚の温度だけだった。
ガンガンガン。
玄関を叩く音が聞こえた。規則的なリズムは、人の来訪を教えてくれていて、玄関に向かう途中で知った声が聞こえてきた。
「兵隊さん、兵隊さん」
最初に逢った老婆の声だ。兵士は靴も履かずに玄関を開けて老婆を出迎えた。その手にはバスケットが持たれていた。
「新居祝いだよ。こいでも食ってけ」
バスケットの中には、野菜や数匹の魚、最低限の調味料が小瓶で入っていた。兵士は有り難くそれを頂戴して頭を垂れた。老婆は手を振って遠慮するだけで、また自分の家へと帰っていった。
空がより墨を含んだ。もうじき夜が来る。兵士は頂いた食料で、暖かく優しい味に酔いしれることにした。
月読の時代が到来した頃、兵士は湯浴みに興じようとしていた。生憎と風呂は壊れていてその日は入れなかったため、桶に温水を入れて行水で我慢した。それでも、土や煤で汚れた肌が人に戻っていくのを感じる。
兵士はこの時点で既に、御国の臣民ではなく国など関係ない人間として生きていることに喜びを感じ、ひしひしと感涙していた。
外の気温でしっとりと温まった体が徐々に冷えていく感覚も兵士は好きだった。温水に手拭いを浸して絞る。ぼたぼたと余分な水気が湯に落ちて、何も奪わない雨音が心地よい。囲炉裏の火は未だ消えずに兵士を慰めていた。
囲炉裏の近くに布団を敷いて、いつもより早く眠りにつく。明日はいよいよ、自分で食い扶持を探さなければならない。山で山菜を採るべきか、海で漁をするべきか。どちらにせよ、慎ましい生活さえできれば、兵士に不満などあるはずもなかった。
湿っていない意外と清浄な布団と詰め込まれた綿が快い。年季の入ったヒバの香り、乾いた畳、消えかけの囲炉裏が弾ける音。兵士は日常にありきたりであるはずの快適な睡眠を、これでもかと噛み締めて瞼を閉じた。
大地から熱が放射され、冷え込む翌る日の朝。兵士は意識を浮上させたがザントマン(ドイツに伝わる睡魔)の砂の魔法はまだ消えていなかった。長く味わっていなかった快眠を体が享受し過ぎたのである。
のそのそと冬眠終わりの獣のように布団から這い出た兵士は、始めに囲炉裏に再び火を灯した。灰を火箸で突き炭木を転がす。天井から吊り下がっている鉤に引っ掛けた薬罐に水を入れて温める。その間に、縁側に出て窓を開けると、昨日に比べて風は弱々しく、穏やかで、ミセバヤが優しく踊っていた。
幸運なことに今日は、寒さに耐性のさほどない生まれの兵士には生きやすい気温と空気になっていた。今日やることは決まっている。食い扶持の確保だ。陸軍所属だった兵士は、漁ではなく畑や山菜、獣の狩猟で生計を立てることにした。訓練で山での狩猟は経験済みだ。あとは古くてもいいので道具が必要だった。
兵士は家の裏手に倉庫を見つけ、中を調べると猟銃に弾薬、くくり罠をいくつか見つけた。これで街の一員として恥じない世間体となれる。兵士は早くも未来に浮き足立った。
長靴と外套を身につけて、土地勘も培うべく山へ入る。天を覆う杉や松の葉、足元に敷かれた針葉の絨毯、木漏れ日、森の音。自然を感じる余裕ができた兵士には、今まで逃げるためだけに突き進んでいた森が変貌したように感じられた。
20分ほど登った場所に、くくり罠を仕掛ける。くくり罠は警戒心の高い動物にも効果的だ。バレないように枯葉や土で偽装して、今度は山を迂回するように歩いていく。明日の朝にもう一度来よう。できれば、兎や貂が掛かっていたら嬉しい。
津軽の山は幸の宝庫で、食物の発見に困ることはなかった。小川のそばに自生する山葵や、白い牡丹花火のように咲く 猪独活の花を、温くなった指先で摘み採る。手に付いた土や葉の感触すら、なんだか愛おしく思えた。 山津見神が、兵士に緑の恵を与えたような気さえした。
子供のように夢中になっていれば、気がつけばもうすぐ太陽は兵士の真上に差し掛かろうとしていた。兵士は一度家に帰るために山を降りた。木々の間を抜けて街が見渡せる所まで来ると、昨日はあれだけ曇天と無慈悲な北風で廃れたような印象を受けた街並みが、とても鮮やかで人の活気がある風景に変わっていた。家の近くの道を、あの老婆が歩いているのが遠巻きに見えた。見えるかと思って手を振れば、彼女は軽く笑って手を小さく振り返した。
戦場の殺伐とした空気では決して知る由もない、日々を生きているだけのありきたりという普遍の光と熱が、新天地に到達した兵士を出迎えているようだった。
南天の陽の光も、いてつく北風も、今日は人の温もりに近づいていた。
手は傷だらけで、長いこと走っていたのか息は上がっていた。流した汗はすぐに冷え、枯れ木が転がる地面へと着水する。
とにかく、北へと逃げたかった。兵士は日中戦争に敗れたのだ。正確には、勝敗が見えて終戦を待たずして逃げ出した逃亡兵だったのだ。密かに船に乗り帰国した兵士は、東京に帰ることができず新潟から北を目指した。
恥や後悔が無いとは言わないが、死ぬよりはずっとマシと己を正当化して奮い立たせ、また足を動かす。山岳訓練の経験に感謝したのは、後にも先にもこの時限りだった。
何日か、下手したら何週間か走ったり、荒屋に籠ったりして、気がつけば津軽海峡が広がる青森へと辿り着いていた。もう兵士には路銀もなく、北海道に渡る気力もなかった。
もういい、ここで終わりにしよう―――。
兵士は、青森の小さい港町を逃避行の終点にすることを決意した。まずは住居を確保しなくてはならない。
だが、最初からこの課題は難問となっていた。兵士の服装は軍服のままで、敗走してきたと誰が見ても分かる格好だ。しかし着替える服など待ち合わせてもいない。仕方なく、ダメ元で住民に仮住まいを聞くしかなかった。
森を出て山沿いの街道を歩くと、畑仕事をしている老婆を発見した。根菜を土から抜いて側に積んでいる。冷たい海風に乗って、森では感じることのなかった土の匂いが鼻に届いた。
「あら、誰だが?」
兵士に気づいた老婆が作業をやめて津軽弁で聞いてきた。方言に似合わず優しい声色だ。余所者に冷たい印象があった兵士にとっては、少し面食らう出来事であった。話しやすい雰囲気になったはいいが、どう切り出そうかと兵士は悩んだ。
嘘をつくべきか、正直に打ち明けるべきか。数秒悩んだ末に、兵士は正直に話すことにした。兵士として恥を背負いながら逃げてきたが、これ以上恥晒しになるのは自分だけの損失では済まない。日本人として、人として誇れなくなると悟ったのだ。
「私は敗走して此処まで逃げてきた唯の兵士です。この街で静かに生きていきたいと思い、どうか仮でも良いので住居を紹介していただけないだろうか」
意を決して素直に打ち明けた兵士の事情に、老婆は動揺すらせずケロッとした表情で軽く返事をした。
「だったきゃこの先さ空き家があるがきゃ、そこさ住んだきゃいいし」
「い、いいんですか?」
「大丈てでだ」
親切に教えてくれた老婆に90度の礼をして、兵士は先にある空き家へと向かった。10分ほど歩いたところに、そこまでボロくない空き家が存在していた。一応玄関扉を叩き、人がいないか確認をする。返事も足音も聞こえなかったため、横引きのドアを開けようと手をかけた。鍵は何も掛かっておらず、中は昔からある和風の内装で、少し埃が積もっていた。囲炉裏にまだ火を点けていないから室温は少し寒かったが、外に吹く風は感じず、床に雨漏りのシミもなかった。
これは予想以上の住み心地だと、兵士は静かに歓喜した。汚れた軍服を居間に脱ぎ捨て、箪笥の中を漁る。前の住人が忘れていったであろう男物の服を借りて着込んだ。
厚めの紺の浴衣に白い作務衣、少し埃臭いが泥よりは良い。暖を取るためにまずは囲炉裏に火を灯す。火が強くなる間に桶に水を汲んで軍服を手洗いした。冷たい水が手から感覚を奪っていく。まだ冬前の秋だというのに、津軽の土地は冬支度に入ろうとしていた。
綺麗に水洗いされた軍服を広げて囲炉裏の側に敷いて乾かし、泥に染まった水を縁側から庭に捨てた。北風が雪崩れ込むように兵士越しの居間に侵入してきて、ガラスの濡れ縁をガタガタと揺らす。
少し引っ掛かる窓を閉めて、十分に火の勢いが増した囲炉裏へと誘われる。悴んだ手を翳し、橙色の光が網膜を焼き、久方ぶりの熱を体で受け止めた。
軈て、手に感覚が戻ってくる。皮膚を通り越して、心にも一時的な温もりが戻ってきた。
それと同じくして、敗戦から逃げた屈辱がぶり返してきた。遠くない最近のことなのに、何年も心に残る癒えない傷のように兵士の精神を揺さぶる。
ここには自分一人だけだ。知る顔もいない、親族は他界か満州に帰ってしまっていて、この先会う機会はもう無い。
現実が孤独を見せつけて、兵士から心の温度を奪おうと迫る。まるでキリストに囁き惑わす悪魔みたいだ。熱を帯びすぎたと思った兵士は、洗面所で顔を洗って頭を冷やした。それでも冷えたのは頭ではなく皮膚の温度だけだった。
ガンガンガン。
玄関を叩く音が聞こえた。規則的なリズムは、人の来訪を教えてくれていて、玄関に向かう途中で知った声が聞こえてきた。
「兵隊さん、兵隊さん」
最初に逢った老婆の声だ。兵士は靴も履かずに玄関を開けて老婆を出迎えた。その手にはバスケットが持たれていた。
「新居祝いだよ。こいでも食ってけ」
バスケットの中には、野菜や数匹の魚、最低限の調味料が小瓶で入っていた。兵士は有り難くそれを頂戴して頭を垂れた。老婆は手を振って遠慮するだけで、また自分の家へと帰っていった。
空がより墨を含んだ。もうじき夜が来る。兵士は頂いた食料で、暖かく優しい味に酔いしれることにした。
月読の時代が到来した頃、兵士は湯浴みに興じようとしていた。生憎と風呂は壊れていてその日は入れなかったため、桶に温水を入れて行水で我慢した。それでも、土や煤で汚れた肌が人に戻っていくのを感じる。
兵士はこの時点で既に、御国の臣民ではなく国など関係ない人間として生きていることに喜びを感じ、ひしひしと感涙していた。
外の気温でしっとりと温まった体が徐々に冷えていく感覚も兵士は好きだった。温水に手拭いを浸して絞る。ぼたぼたと余分な水気が湯に落ちて、何も奪わない雨音が心地よい。囲炉裏の火は未だ消えずに兵士を慰めていた。
囲炉裏の近くに布団を敷いて、いつもより早く眠りにつく。明日はいよいよ、自分で食い扶持を探さなければならない。山で山菜を採るべきか、海で漁をするべきか。どちらにせよ、慎ましい生活さえできれば、兵士に不満などあるはずもなかった。
湿っていない意外と清浄な布団と詰め込まれた綿が快い。年季の入ったヒバの香り、乾いた畳、消えかけの囲炉裏が弾ける音。兵士は日常にありきたりであるはずの快適な睡眠を、これでもかと噛み締めて瞼を閉じた。
大地から熱が放射され、冷え込む翌る日の朝。兵士は意識を浮上させたがザントマン(ドイツに伝わる睡魔)の砂の魔法はまだ消えていなかった。長く味わっていなかった快眠を体が享受し過ぎたのである。
のそのそと冬眠終わりの獣のように布団から這い出た兵士は、始めに囲炉裏に再び火を灯した。灰を火箸で突き炭木を転がす。天井から吊り下がっている鉤に引っ掛けた薬罐に水を入れて温める。その間に、縁側に出て窓を開けると、昨日に比べて風は弱々しく、穏やかで、ミセバヤが優しく踊っていた。
幸運なことに今日は、寒さに耐性のさほどない生まれの兵士には生きやすい気温と空気になっていた。今日やることは決まっている。食い扶持の確保だ。陸軍所属だった兵士は、漁ではなく畑や山菜、獣の狩猟で生計を立てることにした。訓練で山での狩猟は経験済みだ。あとは古くてもいいので道具が必要だった。
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津軽の山は幸の宝庫で、食物の発見に困ることはなかった。小川のそばに自生する山葵や、白い牡丹花火のように咲く 猪独活の花を、温くなった指先で摘み採る。手に付いた土や葉の感触すら、なんだか愛おしく思えた。 山津見神が、兵士に緑の恵を与えたような気さえした。
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