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 銃音がする。火薬の匂いが鼻について、夜だというのに一向に眠りにつけそうにない。隣には先ほどまで銃を構えていた友人が、ライフルを抱えたまま眠りについていた。少し向こうでは寝ずの番をしている者たちもいる。煙草に火を付けようとしたが、眠っている友人に申し訳ないのでゆっくりと立ち上がった。どうせ眠れないならば、寝ずの番をしている者と交代をした方がいいだろう。
 と、思って立ち上がろうとした瞬間。脚ががくん、と力が抜けて地面に倒れ込んだ。
 おかしい。昼間は普通に両足で立って居た。どうして、と疑問に思って足元を見るとそこには血だらけで千切れた両足が見えた。

「あああッ!!」
 悲鳴を上げて起き上がると、そこは白い光が射す寝室だった。綺麗に整えられたベッドテーブルの上には水差しとグラス、薬が置いてある。そしてベッドの横には車いすが置かれていた。
 そうか、そうあの時ではない。俺は戦場を下りたのだった。
 しかし、まだあの時の記憶が脳裏に焼き付いている。いまだに火薬の匂いが鼻についていて、取れる気配がない。受け入れられない現実、自分が両足を失ったこと。たくさんの色んなことがあって、戦争が亡くなった今でも記憶が消えることはない。
 ガチャ、とドアが開いた。ドアが開いてやって来たのはふわふわとしたタンポポのような赤毛の髪の女性がいた。普通の女性に比べたらガタイがいいが、引き締まった体に女性らしい胸や尻は男性を誘惑するだろう。そしてその女性は何とも言えない美しさがあった。大人びた美しさだけではなく、まるで何も知らない生娘のような。純粋な雰囲気があった。白い肌に桃色の唇は、花びらのようだ。
「大丈夫か」
 女性はゆっくりと近づいてきて、ベッドのサイドの椅子に腰かけた。
 そう、この美しい女性こそ自分の恋人。そして、自分が軍人だったころの上司だ。しかし、今やそんなことを気にするのは自分しかいない。
「だ、大丈夫…ではないっす。夢見が悪すぎて、気分が悪い…」
「昨日は少し寒かったからな、傷が痛んだのだろう。水を飲むと言い、少し落ち着くだろう」
「それより、エリオットに抱きしめてほしいです」
 水差しを傾けた女性、エリオットに言うと彼女は困った顔をして水差しを置いた。そして、ゆっくりと俺を抱きしめてくれた。俺はその抱きしめてくれた細い身体を抱きしめる。生きている、ここに。彼女の豊満な胸に顔をうずめて、苦しくうめく。
「身体が冷たいぞ。ちゃんと布団をかけていなかったのか」
「昨日の夜はエリーがいてくれなかったから。一人の夜は冷たくて寂しいんだよ」昨日の夜、彼女は激務に負われて帰ってこなかった。恐らく自宅に帰って来たのは先ほどだろう。抱きしめてくれた時、彼女から石鹸の良い匂いがした。
 エリオットは今も国軍に所属し、国軍中央司令部のエリオット・スタンリー大将として毎日仕事に追われている日々である。戦争が終わりに向かっていると言っても、国の安寧を保つためには軍が必要だ。そして、心の底から終戦を願っていたエリオットは戦争の終わりに向けて、今は少しも休んでいる暇がないのだ。
 しかし、こうして自分のために仕事の合間を縫って自宅へ帰ってきてくれる。もう両足を失って車椅子生活には慣れた。身の回りのことは自分でできる。しかし、世話焼きの彼女はご飯を作ったり洗濯をしたりと色々と世話を焼いてくれるのだ。
「それはすまなかった。本当は昨日の夜に帰る予定だったのだが…、急な仕事が入ってしまって…。アレックスにいち早く教えるべきだったな」
 アレックス、それが俺の名前だ。アレックス・ジャクリーン。
 1年前までは、戦争の第一線で人を殺していた軍人の一人だ。そして、エリオット・スタンリーの直属の部下であった。1年前までは彼女の隣でともに仕事をして、戦争の終わりを夢見ていた。しかし、俺は爆撃に巻き込まれて両足を失った。
「良いですよ、大将が忙しいのは俺が一番よく知ってますから。あ、朝飯食べますか?この前対象が買ってきてくれた材料が残ってるから、良いものが作れそうですよ」
「…アレックス、大将なんて呼ぶな。エリーと呼んでくれ」
「あ、すいません。つい癖で」
「ほら、まずは車椅子に移らないと。手を貸そう」と、言ったが俺は慣れた手つきで車椅子に乗り移る。この作業も随分と慣れたものだ。脚を失ってから1年間、自分で生活をしていく中でたくさんのことを覚えた。
 車椅子での移動も、何もかも。これがあれば出来ないことは殆どない。それに元々軍人ということもあって力があるので、腕で身体を支えるのもたやすい。車椅子生活でも、自分でできる範囲が多いことは、軍人で体を鍛える習慣があってよかったと思った瞬間だ。しかし、エリオットがいる時はわざと甘える。彼女に手伝ってもらってもらうことが多い。身の回りのことはそうでもないが、食事を作って貰ったり、掃除をしてもらったり。彼女は良いところのお嬢様の割には家事も何でもできるいい女だ。
「そういえば、今日はこの後出勤なんですか」
 朝食を手際よく作っていくエリオットの背中に問いかけると、彼女は手を止めずに頷いた。
「ああ、13時に出勤だ。その後はできるだけ早く帰ってこれるように努力しよう」
「そうすか。でも、エリーも忙しいでしょ?急がないでちゃんと仕事してきてくださいよ。俺のことは良いですから」
「…別に仕事をちゃんとしたいわけじゃない。早く家に帰りたいと思うのは当然だろう」
 フレッシュなサラダ、ベーコンと目玉焼き。帰りに買ってきたのか、シンプルなブレッドをテーブルに置いて、彼女は不満そうに言った。もちろん、彼女が早く家に帰りたい理由など分かっている。俺がいるからだ。この女大将は無表情で不愛想で分かりづらいが、惚れた男にはトコトン尽くすタイプのようである。おまけにこの綺麗な顔とスタイル。そんな彼女がいるなんて、世界中のどんな男でも羨ましがるだろう。
 国軍中央司令部、エリオット・スタンリー大将は齢18から国軍に所属しているような根っからの軍人だ。もちろん、10年以上も戦場にいるとなると、女性らしい性格はとっくになくなっていく。残るのは生き残るためのすべと、男社会の中でも潰されないような強い精神力だ。彼女は今年で29歳になるが、若年で大将の地位に君臨する女性というのは上層部から見ると邪魔な存在。また、他の男の軍人からすれば気に食わないだろう。アレックスが知っている限りでは、彼女は他の軍人からもたくさんの嫌がらせを受けていた。大将に昇格するのも容易ではなかっただろう。
 しかし、彼女は周りの嫌がらせなどでは屈しない。
 10年前のこの国を挙げて起きた大戦争を生き抜いた精神力は伊達ではないということだ。その時彼女はまだ軍人になりたての18歳の少女だった。それでも彼女は国軍の一員として戦場に出なくてはならない理由があったのだ。
 その理由は、この戦争しかなかった世界に唯一存在する希望の光。魔術だ。
 エリオット・スタンリーは、もともとは南西の国に生まれた少女だった。しかし、魔術の才能を買われ、中央の国の魔術名家、スタンリー家に引き取られた。スタンリー家は代々偉大な魔術師を育てているようなところだ。スタンリー家には血のつながりは関係なく、この国中から魔術に優れている子供を集めては魔術の勉強を教えるのだ。だからこそ、エリオット少女は孤独に育っただろう。
 彼女に聞いた話によれば彼女が中央に来たのは14の時だったという。スタンリー家に引き取られて、毎日魔術の勉強を繰り返し、魔術の訓練をした。何名もの自分と同じ境遇にある子供たちが魔術に耐えられずに逃げ出していく姿を見ていたという。魔術というのは、例え優れていたとしてもスタンリー家の魔術回路に適応するかどうかは分からないのだ。一定の魔術の知識を得ると、身体に魔術回路を縫い付けられるという。先ほど言った、彼女が見ていたのは魔術回路を縫い付けられた時に生じた反発によって起きた激痛に耐えられなくなった子供が、たまらずに逃げ出したのだろうと言っていた。
 優秀なエリオットが魔術回路を手にするのはそう遅くはなかった。15歳の誕生日の前だったという。多くの子供たちの中でも特に優秀だったエリオットには期待がかかっていた。スタンリー家の人間はエリオットの右腕に魔術回路を縫い付けた。その時の激痛は、言葉では表せないほどだったという。痛くて辛くて、泣いて嫌がっても大人たちは止めなかった。意識を失いかけたその時、白いライトがまぶしくて目を閉じた。
「成功だ…」
 大人たちが声を上げて喜んでいた。
 スタンリー家の代々継がれてきた魔術回路はエリオットに引き継がれたのだ。

「じゃあ今日は夜に帰ってくるんですね。そしたら、今日は寒いからシチューでも作って待ってますよ」
 朝食を食べながらアレックスが口を開くと、エリオットは少し複雑な顔をした。
「帰れると言っても何時になるかは分からない。食事は先に済ませておけ」
「でも、今日は頑張って帰ってきてくれるんでしょ?そしたら、それに期待してますよ」
 彼女が小さな口でブレッドにかぶりつく。白い頬が少し桃色に染まっていた。
 本当は一緒に食事をとりたいのだろう。しかし、アレックスのことを考えたら先に食事をとったほうがいいと彼女は思ったのだろう。本音も言えない彼女を、こんなにも愛らしく思うのは彼女のすべてを知っているからか。
「…じゃあ、今日は20時までは家に帰るようにする。待って居ろ」
「イエッサー。じゃあ、エリーにお遣い。帰りに牛乳を買ってきてくれない?」
「お前、上司にお遣いとは…随分と良い身分だな」ふん、と彼女が鼻を鳴らして笑った。
「そりゃもちろん。俺はもう軍人ではないですから」
 朝食を済ませてのんびりとしていると、エリオットがせっせと食器を洗い、洗濯を始めた。こうしていると、本当にただの夫婦に見える。しかし、実際の稼ぎ頭は彼女で、自分は両足を失った元軍人だ。二人からはいくら洗っても取れない火薬のにおいがしている。
 アレックスは彼女の好意に甘えて、洗濯物を干している彼女を横目にラジオを聞いていた。ラジオでは今日の天気や隣国の情勢、戦争が収まったことについての国からの報告などが流れている。新聞でも情報を得ることはできるが、エリオットは新聞が好きではない。新聞は記者や会社によって書き方や情報が全く異なる。明確な情報が欲しい彼女からすれば、新聞と読むとなると全社の新聞を買い漁り、情報の錯誤を探さなくては気が済まないという。それは新聞だけに限らないが。
 何もすることもなくソファに腰かけていたが、やることを全て終わらせたエリオットがどさりと隣に腰かけてきた。長い赤毛がふわりと揺れる。いつも仕事中は後ろでまとめているが、家では髪をほどいている。その髪はふわふわとしていて触り心地がいい。それを知っているのは、この世界でアレックス一人だと思うとアレックスは気分がいいのだ。
「色々としていたらもう時間だな」
「そうですね、まあ。俺が起きたのも遅かったですし。しょうがないですよ」
「…少しは、上官を敬い、休日を増やしてくれてもいいとは思うのだが…」
「あはは、それは人事課に申請してみないとですね。でも、そんな時間もないでしょ?」
 戦争を収めたエリオット大将がどれほど忙しいのか、アレックスは知っている。簡単に説明するのならば、トイレに行く時間もないほどだ。彼女のスケジュールは分単位で区切られている。しかし、そんな多忙な彼女でもこうして少しの休みを貰えるのは、彼女の隣にいる優秀な補佐官のおかげだ。
 エリオットの優秀な補佐官、名前はマリア・ハーツ。彼女は魔術師ではないにしろ、一般の軍人として銃の腕は優秀、そして頭脳明晰。元々は中央支部の司令官の補佐官を務めていた経験もある。そんな彼女が今やエリオット大将の補佐官となった。マリアが補佐官になったのはもう5年も前の話だ。彼女は軍人でも珍しい女性軍人だ。彼女もまた、エリオットと同じように男社会で強く生き抜いてきた。そして、女性でありながらも人の上に立ち、国を変えようとするエリオットに憧れて、彼女の補佐官を志願したのだという。
 アレックスが軍人だったころ、マリアは同じ隊の人間だった。狙撃手として優秀だった彼女は絶対に狙いを外さない。アレックスはそんな彼女に憧れていた。狙撃手としても補佐官としてもエリオットを支えられる彼女に憧れていたのだ。しかし、マリアからすれば階級など関係なく、上官であるエリオットを一人の女性として守れるアレックスのほうがずっとすごい人間だと思っていた。
「今度マリアに申請を出すように言ってみよう。魔術師とはいえ、同じ人間だ。疲れは溜まるものだからな」
「そうですねえ、せめて2日くらいはゆっくりのんびりしたいですよね」
「そうだな。2日も休むなんて、もう何年もしていないからな。夢のような話だ」
 アレックスはゆっくりと手袋をしている彼女の手を握り締めた。黒の本革で作られている立派な手袋の上からでは彼女の体温は分からない。指を絡ませて、アレックスはエリオットを見つめた。
「手袋、外しちゃだめですか」
「…少しだけだぞ」
 プチ、とボタンが外れた音がして黒い手袋がソファに投げ捨てられる。潔さににんまりとしていると、彼女が手を差し出してきた。その手を迷いなく握り返すと、彼女の温かい手に安心した。
「俺、エリーの手が好きです」
「こんな手を好きになるなんて、お前は趣味が悪いな」
 すりすりと指の先で彼女の手を撫でる。ところどころ肌が掠れていて、手のひらの指紋は少しも残っていない。この目で見なくてもわかる。彼女の手は火傷や傷だらけで、綺麗な手とは言えないだろう。それに大剣を振るうためか、手のひらには大きなタコや傷ができており、痛々しい。
 それを分かったうえでエリオットは皮肉を並べたのだろう。
 彼女は自分の手が嫌いだ。だからこそ、仕事中でもプライベートでも厚手の手袋を外したりはしない。
「さて、そろそろ行かねば」
「もうそんな時間ですか?まだ時間ありますよ」エリオットは自分から手を離して、手袋を付けると立ち上がった。
「もう家の前に、マリアを待機させているんだ。これ以上待たせるのは悪いだろう」
「あ、そうなんですね。すいません、わがまま言っちゃって」
「構わない。マリアも承知している。それに、少し元気が出た」
 エリオットは、アレックスの前髪を持ち上げると額に軽くキスをした。
 ちゅ、と音がしてからキスされたことに気付いてアレックスは顔を真っ赤にした。いつもは冷たい彼女からの珍しいキス。あまりにも愛しすぎてわなわなとしている間に、彼女は椅子に掛けていた軍服に腕を通して、鞄を握り締めた。
「じゃあ、また夜に。美味しいシチューを期待しているからな」
「…い、イエッサー」
 不意打ち。見送りもできずにドアが開く音が効いて、アレックスはその場に丸くなった。
 
俺の彼女、かっこよすぎないか?


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