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第一章 少年 (全知視点)

一話 ① ※暴力表現

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「おい! のろま!」

 突然の怒号。床に這いつくばるようにして拭き掃除をしていた少年が顔を上げた瞬間、頬に燃えるような痛みが走った。突然の衝撃にべしゃりと床に倒れ込み、口の中には錆びた鉄のような味が広がる。なにが起こったのか──、男が少年の頬を強くぶったのだがあまりに突然すぎて少年は自分の身になにが起こったのかをすぐには理解することができなかった。追いつかない思考に固まる少年の腹を今度は力一杯蹴り上げられ、まるでボールかなにかのように壁に向かってポーンと飛んでいく。そしてそのまま少年の小さな身体は鈍い音を立てて壁にぶつかり、床へと落ちた。
 少年の身体はガリガリで発育も悪く、幼く見えるが年齢は十八と見た目通りの子どもではないが『青年』とも違う為、便宜上『少年』と呼ぶことにする。見た目に合わせたのと、少年には名乗れる名前がないからだ。

 少年に暴力を振るうこの男は名をゲヘ・・といって、レント伯爵領の領主であるレント伯爵の屋敷で下男として働いて、もう十五年ほどになる。本来貴族に仕える者は末端であっても身元のしっかりした者が選ばれる。それが領主ともなれば尚のこと、生家が下級でも貴族であったり裕福な商家でなければならない。なのに身寄りもないスラム暮らしの、平民以下のゲヘがレント伯爵の屋敷で働くことができたのは、ただの運や偶然によるものだった。たまたま・・・・下男がやるような仕事を受け持っていた男が辞め、他に成り手がいなかった。たまたま・・・・出かけた先でレント伯爵はゴミを漁るゲヘを見かけた。そしてそのときたまたま・・・・成り手のない仕事があることを思い出した。その結果、レント伯爵は捨て犬でも拾うようにゲヘを拾った。だからゲヘは同じ雇われの身であっても他の使用人とは全く違う立場だった。そのことを知らないゲヘはこんなどうしようもない、最下層スラムに身を置いていても領主直々に見出された自分は他とは違う、とても立派な人間になったような気がしていた。だが蓋を開けてみれば、誰もが嫌がる仕事ばかりでゴミ漁りとなにが違うのか、おまけに自分よりも年下の新人・・メイドにすら見下され、散々バカにされるという屈辱的な日々を送ることになった。それでもゲヘが頑張ってこられたのは、スラム出身のゲヘはここで働く者の中で一番低い身分であることは間違いなかったが、この屋敷の頂点に立つレント伯爵に見出され、直接・・雇われた身だということが自慢だったのだ。だからメイドたちのような生まれのよさだけで雇われ、数年もすると入れ替わる愚鈍な者たちに侮られることが悔しくて仕方がなかった。
 これについてもゲヘは知らなかった。貴族の子女はメイドといいながら実は行儀見習い・・・・・であり、縁談が整うと辞めていくのが通例だということを。つまり最初からゲヘとはなにもかもが、比べるにも値しないほどに違っていたのだ。ゲヘを支えていた自慢についても勘違いでしかなく、レント伯爵はゲヘのことなどとうの昔に忘れてしまっていた。だがゲヘにそれを知る術はなかった。




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