【完結】泡になった約束

山田森湖

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第6話「洗濯物の向こう側」

第6話「洗濯物の向こう側」


 家に帰ると、誰もいなかった。

 莉子は部活で遅いし、健一も残業だと朝言っていた。

 私は一人、リビングに立ち尽くす。

 静寂が耳に痛い。

 バッグを置いて、キッチンに向かう。水を一杯飲む。喉が渇いていた。

 いや、渇いていたのは喉だけじゃない。心も、何かに飢えている。

 ベランダに出る。洗濯物を取り込まなきゃ。

 健一のワイシャツ、莉子の体操着、私のエプロン。

 一枚一枚、畳んでいく。

 この作業を、何百回、何千回繰り返してきたんだろう。

 洗って、干して、畳んで、しまう。

 また汚れて、洗って、干して、畳んで。

 終わりのない循環。

 拓也の手の温度が、まだ消えない。

 あの優しい目が、頭から離れない。

「もう一度、やり直せないかな」

 彼の言葉が、耳の奥で響いている。

 駄目だ。考えちゃいけない。

 私には家族がいる。夫がいる。娘がいる。

 でも。

 でも、心の奥底で、小さな声が囁く。

「本当に、これでいいの?」

 洗濯物を抱えて部屋に戻る時、ふと鏡に映った自分の顔を見た。

 拓也の言葉を思い出す。

「目が笑ってない」

 確かに、そうかもしれない。

 いつから、私は本当の笑顔を忘れたんだろう。

 夕方。

 莉子が帰ってきた。

「ただいまー」

「おかえり。疲れた?」

「うん、めっちゃ走らされた」

 莉子は汗だくでリビングに倒れ込む。

「シャワー浴びてきなさい。その後、ご飯にするから」

「はーい」

 娘の元気な声に、少しだけ心が軽くなる。

 この子のために。この家族のために。

 私は、ここにいなきゃいけない。

 キッチンに立って、夕飯の支度を始める。

 今夜は、鮭の塩焼きと味噌汁。シンプルな献立。

 フライパンに油を引く。鮭を並べる。

 じゅうっという音。

 この音も、何千回聞いたことだろう。

 でも、今夜は違う。

 すべてが、どこか遠くにあるような気がする。

 私は、ここにいない。

 体はここにあるのに、心はどこか別の場所を彷徨っている。

 夜。

 健一が帰ってきたのは八時過ぎだった。

「ただいま」

「おかえり。お腹空いてる?」

「うん、まだ何も食べてない」

 健一は疲れた顔でネクタイを緩める。

「すぐ用意するね」

 私は温め直した料理を食卓に並べる。

 莉子はすでに二階の自分の部屋。最近は家族で食卓を囲むことも減った。

 健一と二人、向かい合って座る。

「いただきます」

「いただきます」

 健一は黙々と食べる。私も箸を動かす。

「今日、何してた?」

 健一が聞いてきた。

「え?」

「いや、別に。ただ、なんか今日、化粧濃いなって思って」

 ドキリとする。

 気づいていたんだ。

「そう?気のせいじゃない?」

「そっか。綺麗だなって思っただけ」

 健一は笑う。

 その笑顔が、今は少し辛い。

「ありがとう」

 私も笑顔を返す。

 でも、その笑顔の裏側で、罪悪感が膨らんでいく。

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