ゲート0 -zero- 自衛隊 銀座にて、斯く戦えり

柳内たくみ

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前編

前編-3

 拳銃の発砲音が続く。

「警視庁から八丁目PB! 落ち着いて繰り返せ。何が暴れてるって⁉」
『ば、化け物! …………』
「おい、どうした! 何があった? 化け物って何だ⁉」
『……』

 警視庁の無線システムは、一斉に発された『至急至急』の呼び掛けでたちまち飽和した。
 意外なことだが警察の指揮通信システムは脆弱である。かつて秋葉原でたった一人の通り魔が暴れた事件でも、通信システムはキャパシティーを超えてしまい警察官は個人所有の携帯電話を使用しなければならなかったのだ。その教訓から『Pフォン』という警察用携帯電話が導入されることになったのだが、それとて民間の携帯電話回線を使用している。従って数分の内に、千を超える勢いで同時に発された一一〇番通報でたちまちパンクした。そして指令本部長の頭の中も、通信システム同様に真っ白となった。
 事態がさっぱり理解できなかったのだ。
 何かただならぬ事件が起こっている。通り魔事件という報告もあるし、間違いない。とはいえ通報内容に意味不明な単語が多過ぎるのだ。

「化け物とは一体何なんだ?」

 混乱した市民が訳の分からないことを電話で叫んでしまうというのはよくある話だ。
 動転した人の目には、凶悪な犯人が怪物に見えてしまうこともあるだろう。しかしそうであったとしても、順を追って説明させ耳を傾けていればディテールは掴めてくることが多い。しかし今回に限っては、全体像が全く掴めないのだ。
群盲象ぐんもうぞうを撫でる』という逸話があるが、各所から入ってくる情報は全くそれに近い。
 一体何が起きているのだろう?
 通り魔事件ならば、ただちに犯人を検挙しなければならない。しかし獰猛な野生動物が銀座で暴れているだって? それならば犠牲者を救助し、害獣駆除をしなければならない。しかし一頭、二頭どころではない数となると、何故、どうしてと考える必要がある。人為的な事象とすると、一体誰が? もしや動物を用いたゲリラ事案?

「お、おい、すぐに現場近くの防犯カメラの映像を出せ」

 武田指令課長が言った。

「そ、そうだ。映像を見れば理解できるかもしれない」

 するとすぐに銀座中央通り各所にある防犯カメラの映像が、正面スクリーンに映し出された。
 そこに映っていたのは、猿、熊、そして猪を直立二足歩行させたような生き物の大群が――その数は歩行者天国を埋め尽くすほどだ――もの凄い勢いで駆け抜けていくというものであった。

「な、なんだ……これは?」

 指令本部長は、スペインで行われている牛追い祭りを連想した。
 それは石造りの古い街並みの中、約十頭の牛に追われて人々が逃げ惑うという「お祭り」で、毎年多くの怪我人が出る。今、監視カメラによって映し出されたのは、その規模の比ではない数のわけの分からん動物が、銀座にいる人々を追い回しているというものであった。それらが、停まった乗用車とトラックの間を駆け抜けていくのだ。

「なんだ、この生き物は?」
「遠目だし、動きが速くてよく見えませんね」

 しかもそれらが通り去った後には大勢の人達が倒れている。
 倒れた人々は血を流し、救いを求めているようにも見えた。すでに事切れているとしか思えない者の姿まであった。

「ど、どうなってるんだ?」

 事態は、本部長の理解力を完全に超えていた。彼に出来たのは、目の前で起きている事態を納得するため、現実を確かめることだけだ。

「すぐに調査させろ」

 本部長の指示で、オペレーターの一人がコンソールに向かう。

「了解しました。『警視庁各局、築地管内調査方、銀座中央通り近い局どうぞ』」
『築地五は単独で警察署PSから』
「警視庁、了解。築地に願います。銀座中央通り付近通行人より一一〇番、ヒグマ、ゴリラ、化け物などが通行人を襲っている云々の内容です。事態が判然とせず掴めないため、最優先で調査願いたい。ただし対象生物が獰猛と予想されるため十分注意せよ。どうぞ」
『築地五、了解』
「築地宛一一〇番整理番号一五八九番、十二時〇二分、担当望月もちづきどうぞ」
『築地了解。担当長崎ながさきどうぞ』
「警視庁、了解。以上、警視庁。続いて一一〇番入電……」
「本部長、配備を令しますか? 銀座付近からの一一〇番通報、同様の内容でひっきりなしです」
「分かっている。いずれにしてもこれだけ大量の通報が入った以上はただならぬ事態だ。通り魔事件にしろ、凶暴な動物が暴れているにしろ、怪我人が大量に出ているなら消防から救急車も出してもらわねばならんが、必要量が読めん。関係各所に動員をかけるにしてもどこまで広げたものか。動物が相手なら、猟友会に来てもらう必要もあるな……」

 すると、武田指令課長が進言した。

「本部長。今回ばかりは民間に頼る余地はありません。警察が全力で挑むべきです。戦力の逐次投入は不必要な犠牲を生みます。過剰警備だと批判されたら回れ右して帰ってもらって、あとでごめんなさいでいいじゃないですか」
「つまり、いざとなったら貴様が腹を切るというのだな?」

 指令本部長の強い言葉と視線に、武田はしばし躊躇った。何を考えているのか額に脂汗を流している。これまでの警察官人生、これからの余生、そして家族のことなどを考えているのかもしれない。しかし数瞬の後には、眼光を鋭くして大きく頷いた。

「は……はい! 自分が責を負います!」
「分かった、君の意見具申ぐしんを採用する。警視庁各機動隊はもちろん、特別機動隊、方面機動隊、関東管区機動隊にも応援を要請しての特別編成だ。銀座を中心に周囲の道路を完全封鎖しろ!」
「機動隊は、新見にいみ警備部長の指揮命令がないと出動できないかと」
「だから機動隊運営規程の但し書きを利用する。第一方面本部長から出動の要請を出してもらえばよい。警務部の大野おおの参事官(兼第一方面本部長)は今日勤務しているはずだ。それと各県警には内々で伝えておいて、正式な要請で後から整えてもらえばよい。それと、おい! 上野動物園に、動物が逃げ出してないか問い合わせろ」
「ど、動物園にですか?」
「突如として銀座のど真ん中に凶暴な動物が大量に現れるだなんて、動物園あたりが原因としか思えんだろうが⁉」
「ならば他の動物園にも問い合わせたほうが。動物の移送中に逃げ出したという可能性もあります」
「そう言えば昔、サーカスだか競争馬だかの移送トラックが、高速道路を走行中に横転して馬が街を逃げ回るという事件がありました。あり得る話です」

 それら予想できる可能性の全てを排除していけば、後に残るのは――人為的かつ意図的なものとなる。

「よし、手分けして問い合わせろ……それと武田、お前は私に代わって大急ぎで警視総監を呼び出すんだ。他県警の協力を求める以上は、対策本部を立ち上げて、指揮を一元化する必要がある。そもそも総監は今日どこにいる?」
「本日は土曜なので、お偉いさん達とゴルフだったかと……」
「ゴルフ? どこだ」
小金井こがねいです。確か涼しい早朝からのラウンドだったはずです。きっとハーフが終わって、クラブハウスで食事をなさっている頃かと」
「小金井なら立川からヘリを飛ばせばすぐだな。お偉い方々が揃ってるならなおさら都合がいい。早急に事態をお知らせしてくれ。それとだな武田……」
「はい?」
「お知らせした際、総監から様々な指示があるはずだ。その一切を貴様が仕切れ。その間に俺は参事官に事情を説明して、機動隊の出動要請を出してもらって、あと地域部長と警務部長にも事情の説明をする!」
「は、はいっ!」

 武田は総監の随行員を呼び出すべく受話器を取り上げた。
 本部長は指令センター中に響き渡る声で告げた。

「銀座中央通り……四丁目交差点を中心に半径一……いや、二キロ圏内の配備を発令だ! どの程度の数のゴリラ共が暴れているかよく分からんが、直ちに鎮圧するんだ!」
「はい!」
「警視庁指令本部長より全所轄署に達する。築地管内、銀座中央通りで発生した一連の凶暴な動物複数が行楽客を襲撃している事案につき、十二時八分、銀座五丁目七番地二号中心の二キロ圏全力配備を発令する。なお回申かいしんは省略、以上。警視庁」


    *    *


「Guiitemmono ottlo bugarria!!!」

 聡子はその場を動くことが出来なかった。緊張のあまり身じろぎ一つ出来ないのだ。
 それは聡子の前にSMの女王みたいな黒革鎧を纏った、褐色肌の女が現れたからだ。その蛇に似た金色の視線に睨まれていたからだ。動いたらやられるという警戒心で、身が震えていたからであった。
 女?
 そもそも聡子はどうしてその存在を女だと思ったのだろう?
 それは聡子ですら嫉妬心を抱かずにいられない蠱惑こわく的な肢体があったからである。
 人間に照らし合わせると、年の頃は二十代中盤だろうか? 細過ぎず太過ぎずで背丈は聡子とそう大差はないのだが、様々な部位が聡子のコンプレックスを刺激していた。
 簡単に言えば、胸が大きく膨らみ、腹部はぎゅゅうっと引き締まっていて、再び腰回りは滑らかかつ魅惑的な曲線を描きつつ、すらりとした下肢へと続いているのだ。
 しかも胸部の先端部は、日本人女性ではあり得ないほどの角度で上方を向いている。
 こんな容姿を持つ存在は、聡子の認識では生物学的なオス・メス分類とは関係なく、明らかに女なのである。
 だがしかし、その外見は人間ではなかった。
 あるいは、人間の女がそのように装っているだけかもしれないが、様々な特徴が人間とは全く異なっているのだ。
 例えば、その女が聡子を見る瞳は金色に輝いており、瞳孔は縦に割れていた。
 もしかしたらコンタクトレンズで擬装しているのかもしれないが、瞳孔のサイズが、感情や表情の変化に合わせてくるくる変わるようなレンズがあるなど聞いたことがない。
 その上、褐色の肌は蛇かトカゲのような爬虫類系の鱗で覆われていた。
 革鎧の隙間から覗く腹部や肩、腕やうなじ、ももといった肌、顔貌がんぼうの縁などに細かな鱗が見える。蛇やトカゲの類いと同じく、腹部は人間のそれとほとんど変わらないきめの細かさだが、側腹部や背中にサイズの大きい鱗がある。
 あるいはもしかすると、それはボディスーツの類いかもしれない。
 しかし被服というものは、人体の凸部をぴったり覆うことは出来ても、腹筋の隆起が作る谷間やへその凹みにまでは張り付かないものだ。とすれば、自前のものと考えてよい。肌にペイントを施してそのように見せている可能性もあるが、染料で染めただけではこのワニがわ感は出ないはずだ。
 さらに髪や眉は薄紫だ。
 髪はうなじから後頭部や耳の傍らまで、大胆かつ精悍に刈り上げている。そのためバイキングの女戦士かアマゾネスといった印象になっていた。
 腰には、細身の長剣を鞘に納めてぶら下げている。
 右手には鞭。長さ四~五メートルはあろうかという革紐を編んだもの。
 左手には手綱が三本。その先は、三頭の双頭の犬――獰猛そうに牙を剥き出しにした大型犬に繋がっていた。
 そんな女が瞳に好戦的な色を湛えて聡子をじぃっと睨み付けている。そして薄桃色の唇の隙間から、先端部が二つに分かれた舌が現れ、唇をペロリと舐めた。

「舌の先が二股に割れている?」

 現代では、舌の先端をファッション感覚で二つに裂くスプリットタンという人体改造手術を施した者もいる。なのでこれもまたこの女が人間ではないという証拠にはならない。
 とはいえ聡子は、その女をこう名付けた。

蜥蜴とかげ女」
「Guiitemmono ottlo bugarria!!!」

 蜥蜴女は聡子と十メートルほどの距離の所で対峙すると再び舌舐めずりした。
 しかし不意に聡子から意識を逸らすと、鞭を大きく振って大地を打つ。そして同時に、左手に繋いでいた三頭の内、二頭を放した。
 すると二頭の双頭犬はアスファルト上を疾駆しっくした。
 聡子は襲われると思って思わず警棒で身構えた。この犬が噛み付いてきたら、口に左手の警棒を突っ込み、右手の拳銃で撃とう。そう考えた。
 しかし二頭の双頭犬は聡子には目もくれず両脇を駆け抜けていった。

「えっ⁉」

 振り返ると双頭犬は、銀座の各所にある高級ブランド店のショーウィンドウから宝飾品を略奪しようとしているゴブリンやオークに激しく吠えかかった。
 双頭犬に吠えられたゴブリンやオークは、略奪した宝飾品を投げ捨てると銀座の街へと散っていく。あちこちに隠れている人々を見つけ出し襲いかかっていく怪異達の群れに参加していったのだ。
 その様子を見た聡子は、双頭犬が羊の群れを追うシープドッグの役目を果たしていると考えた。
 だとすれば、この女はサーカスの猛獣使いか? 要するに今銀座で暴れているゴブリンやらオークやらトロルの群れは、この女が操っているということになる。

「そうか。そういうことか。……あんたが犯人ってわけね?」

 聡子が声を震わせながら問いかけた。

「Fuyooslli Mttduiidu!!」

 するとニヤリと嗤いながら、蜥蜴女が答える。
 意味は分からないが、それが侮辱あるいは見下しの籠もった言葉であることは不思議と理解できてしまった。
 拳銃の弾は残り一発。
 そして特殊警棒が一本。
 実に心許ないが、これだけあればこの女をなんとか出来る――かもしれない。
 今、銀座で起きている惨劇がこの女一人のしでかしたことであるならば止められる――かもしれない。
 否、それが出来るのは聡子だけだ。聡子こそが何とかしなければならないのだ。
 本音を言えば、しゃがみ込んで悲鳴を上げたいところだ。「誰か何とかして」と叫んで目を瞑り、耳を塞いでいれば、きっとこの事態は過ぎ去っていくだろう。そうしたかったのだ。しかしここでも『しっかり者』という呪いが聡子を縛り付けた。

「至急至急、築地二四から警視庁……」

 聡子は警察無線で呼びかけた。

『至急至急……こっちが至急だ! みんなとりあえず黙ってくれ! ……報告はPフォンを用いること。繰り返す、報告はPフォンを用いること!』

 しかし同時にあちこちから至急の付いた呼びかけがなされていて、聡子の声は指令センターどころか、誰の耳にも届かない。負傷者の発生報告、悲鳴にも似た救援の要請が警視庁の使用する電波帯域全てで飛び交っているのだ。
 この瞬間聡子は、自分は誰にも支えられていない、一人きりだ、孤独だと感じた。あまりの心細さに、目尻からは涙が零れそうになった。
 だがそれでも聡子は続けた。誰も聞いていなかったとしても、聡子は誰かが聞いてくれていると信じるしかなかったからだ。

「銀座で発生している凶暴な動物複数が行楽客を襲撃している事案について報告。動物を使役していると思われる身長一六五センチ、褐色の肌を持つSM女王風の女を確認。意思疎通不可能な言語を使用しており、外国人と思われる。当事案は、これらによって意図的に引き起こされたものと思慮される。これより築地二四はマルの検挙に着手する――」
『……』

 当然のごとく返事はない。
 しかし聡子は、組織に属する一ユニットとしてなすべきことはなしたと理解した。後は個人として出来ることをするだけだ。

「あんたは、このわたしが刺し違えてでも止めてみせる……」

 聡子は親指を使って、右手の拳銃の撃鉄を引き起こす。
 そして左手の警棒を蜥蜴女へと向けた。


    *    *


 銀座七丁目の交詢社こうじゅんしゃ通りとすずらん通りの交差点付近で街の声を取材していたテレビ旭光報道部アナウンサーの物部さおりは、カメラマンの一ノ瀬が構えるレンズの前に立っていた。
 銀座ニューテーラーを背景にする形で撮っていたのだ。そのためカメラやマイクといった機材を扱うスタッフ達の背中越し、つまり六丁目交差点のほうから、道路を埋め尽くすほどの怪異の群れが大海嘯だいかいしょうがごとく押し寄せてくるのを真っ向から見ることになった。

「わたしが、銀座の街角で大勢の方々にマイクを向けたところ、街の声の多くが、強く厳しいものばかりでした。この言葉を、一着百五十万円のスーツを仕立てに来た総理が、どのように、どの、どのどのように受け止め考えるのか注目し続け……って、何、何、何何何あれ何よ、きゃあああああああああああああああああ!」

 仕事を放棄して突如叫ぶさおり。
 その血相の変わりぶりに何事かと振り返った金土日葉は、逃げ惑う人々、そしてそれを追う異形の怪異達を認めた。

「カメラ、あれ撮って、あれ撮って!」

 一ノ瀬は訳が分からぬまま、金土に言われた通り肩に担いだカメラごと振り返った。
 そして直後、彼は怪異達の襲撃を真っ向から受けてしまう。
 その際、報道カメラマン一ノ瀬が撮った映像は、歴史に残ることになる。その映像は、彼が振り返った瞬間、画面一杯を無数のゴブリンの群れに埋め尽くされたというものであった。
 そしてその内の一頭が大映しとなり、それに突き出された短剣によって、一ノ瀬カメラマンは刺され、踏み倒される。やがてそのまま天を仰ぐように倒れた。
 画面には、快晴の空が広がっている。
 その上をゴブリンの群れが駆け抜けていった。


 取材クルーは、怪異達の群れに瞬く間に呑み込まれた。

「い、一ノ瀬さん! 一ノ瀬さん!」
「かおり、行くわよ!」

 金土は、一ノ瀬を助けようともせず、カメラを素早く拾い上げた。
 プロ用の撮影機材は民生用のそれと違って高価だ。金土はそれを知っていたからか、あるいはこれまで撮りためた映像を守るためか、反射的に拾い上げた。

「でも、みんなを放ったままではっ!」
「もう助けようがないわっ!」

 この時、物部さおりと金土日葉が助かったのは、小さな偶然が重なったからだ。
 マイクなどのクルー達が防波堤になってくれたおかげで、数秒ほどの時間が稼げたこと。そして二人が慌てて逃げ込んだのが、銀座ニューテーラーだったからである。
 金土とさおりは、店に飛び込むと扉を閉めた。

「お客様、どうかされたのですか?」

 はあはあぜいせいと肩で息をする二人を見て、店内の女性店員がいぶかしがった。
 さおりと金土はなんと説明したものかと答えに窮してしまった。今、目の前で突然起きたことを簡潔にまとめる方法が思い浮かばなかったのだ。
 しかし結局二人が説明する必要はなかった。直後、トルソーの飾られたショーウィンドウが叩き割られ、ゴブリンが店内に乱入してきたのだ。

「な、何ですか⁉」

 ゴブリンは女性店員に向かって襲いかかった。

「ぎゃあ‼」

 首を横に裂かれて喉から憤血が飛び散った。そしてゴブリンは次の獲物を物部さおりに見定めると襲いかかった。
 しかしその瞬間、横合いから黒服の男が現れ、腰から特殊警棒を取り出して振り下ろした。
 その一閃はゴブリンの頭部を叩き割り、床面に叩き付けることになった。
 頭部を割られたゴブリンは、痙攣けいれんしたのか床を激しく転げ回り、その後、動かなくなった。

「一体何があった?」

 内閣総理大臣笹倉泰治やすはると銀座ニューテーラーの店長が採寸室から顔を出した。
 その瞬間、何を思ったのか金土はカメラを構える。総理の姿を撮影しようとしたのだ。

「や、安見やすみ君!」

 すると店長が、首を切られた女性店員に歩み寄った。
 金土は血だらけになって床に転がる女性店員の遺骸と、それに駆け寄る店長の姿にカメラを向けた。
 店長が痛ましそうな表情で、倒れた女性店員にスーツの上着を掛けた。
 ところが、金土は邪魔だと言わんばかりにスーツを取り払った。そして無残な姿となった女性店員を撮り続けたのである。

「キンドーさん、それは流石に……」
「うるさいわよ! 一ノ瀬がいない以上、あたしが撮るしかないでしょ⁉ 涙を堪えてカメラを回し続ける。それがジャーナリストの使命なのよ!」

 金土は思いの丈を言い放った。
 しかし店長はそんな意見に同意できないようだった。大切な店員の無残な姿を曝し続けることは、彼にとっては害悪だからだ。だからなのか店長は、金土を睨み付けると再び女性店員にスーツを被せた。
 そして金土も、今度ばかりはそれを邪魔できなかった。
 金土は冷たい空気から逃げるようにしてショーウィンドウの外へとカメラを向けた。
 すずらん通りでは、大勢の人々が逃げ惑って悲鳴を上げている。そして怪物達がそれを追い回している。その光景をカメラに収めようとしているのだ。
 黒服のSPは、金土の肩越しに外の様子を一瞥すると総理に向き直った。

「総理、ただちに身支度をなさってください。どうやらこの騒ぎは銀座全体で起きているようです。裏にお車を回します。急いで官邸へと戻りましょう」
「分かった。ただし店長も一緒だ。いいね?」

 採寸のためにワイシャツ姿になっていた笹倉総理は、ネクタイを締め直しスーツに袖を通した。そして呆れ顔をして金土に問い掛けた。

「君達は一体何なんだ?」
「テレビ旭光の者よ」

 金土の慳貪けんどんな態度に眉根を寄せたさおりは、総理にぺこりと頭を下げた。

「局アナの物部さおりです! こっちは主任の金土日葉です」
「我々は脱出する。君達はここに残るのか? 撮影なんぞしとらんでとっとと避難したほうがいいんじゃないのか?」
「逃げるなんて出来るわけないでしょ⁉ 最高の絵が撮れてるのに!」
雲仙普賢岳うんぜんふげんだけの惨劇を、またここで繰り返すつもりかね?」
「うんぜん?」

 さおりが首を傾げると笹倉は続けた。

「君などは生まれたか生まれてないかくらい昔の出来事だ。九州長崎県の雲仙で噴火が起きた。その際に迫力ある映像を撮ろうとマスコミが避難勧告を無視してふもとの街に居座った。注意を促しても報道の自由を振りかざして拒否した。住民の不在をよいことに近くの民家に勝手に入り込んで勝手に電気を使用する者までいた。おかげで地元消防団、警察官は、警戒と監視で現場から避難できなくなった。マスコミが移動のために借り切っていたタクシーの運転手も巻き添えになった口だな。そんな時に火砕流が発生した。マスコミ関係者らは自分の意志で残ったのだから殉職も本望だろうが、合計十八名もの人間が彼らの巻き添えとなったのだ」
「そ、それってマスコミが消防団、タクシーの運転手さん、警察の人を殺したってことですか?」
「君もジャーナリストなら言葉を正しく使いたまえ。殺すというのは明確な殺意を持って、その意図を達成するために合理的な方法を行使することだ。だから殺したわけではない。しかしながら彼らの無作法と無見識と無謀さが、警察官とタクシー運転手、そして消防団員の死に繋がった」

 笹倉の言葉に衝撃を受けたさおりは金土を振り返った。

「ちっ……」

 金土は舌打ちすると言い返した。

「けどね、その時に死んでいったあたし達の仲間の残した映像が、火砕流の恐ろしさを語る時に使われているのよ! あの映像は人類の貴重な財産となって永遠に残り続けるわ! 彼らはジャーナリストとしての使命に殉じたのよ!」
「君も残念だろ? その他大勢の巻き添えを作ってさえいなければ、その言葉にも毛の先ほどの説得力はあったろうからな」
「くっ……」
「まあ、いい。それが使命だと言うのなら、それに殉じればよい。私も総理としての使命をまっとうしよう。では行きましょう、店長」

 総理はそう言うと、店員の傍らに膝を突いていた銀座ニューテーラーの店長を誘って店の奥へと向かった。

「ま、待ってよ! どこに行くって言うの? あたし達を置いていく気? 日本国民の命を見捨てようって言うの⁉ ちょっと待ちなさいよ!」

 金土は慌ててカメラを下ろすと、さおりと共に総理の後を追ったのである。


「総理。お車が参りました」

 銀座ニューテーラーの裏口前に、総理の私用車が停まった。その後ろには、SP達が乗る警護車も続いていた。
 まずはSP達が裏道に出て私用車周辺を警戒する。あちこちで騒ぎが起き、人々が逃げ惑っているが、裏口周囲にはゴブリン共の姿は見えなかった。

「すぐに危機対策会議を招集したい。官邸に急いでくれ」
「よし。今です!」

 合図を受けて総理は私用車に向かった。
 笹倉は銀座ニューテーラーの店長を先に乗せた。そして自分がそれに続く。

「あ、あたし達はどうすればいいのよ?」
「来るのならとっとと乗りたまえ!」

 総理が嘆息し、仕方なさそうに許可する。すると金土とさおりはそれぞれ助手席、後部座席に乗り込むためドアを開いた。
 しかしその時、ゴブリンの群れが彼らの前に現れた。ゴブリン共の数頭が、さおりと金土に目を付けると襲いかかってきたのだ。
 総理の私用車はあっという間に怪異の群れに包み込まれた。
 SPが運転手に向かって叫んだ。

「は、早く車を出せ! 早く出せ!」

 総理の運転手はフロントガラスに張り付いたゴブリンの姿を見た瞬間、恐慌に捉われてアクセルを踏み込んだ。

「うわーーーーーーーーーーーーーー!」

 結局、総理の私用車はドアを開いたままシートに腰を下ろしてすらいない金土やさおり、そしてSPとゴブリン共を周りに纏わり付かせたまま、銀座の裏道を走り出すことになった。

「うわわわわわわわわわわわわわわわわ!」

 ゴブリンの群れから逃れるために最初の交差点で右折を試みて、一方通行を逆走してゴブリン数頭をね、そのまま付近のビルに衝突した。
 金土やさおり、SP達、そして群がったゴブリン達はその衝撃で弾き飛ばされた。

「そ、総理!」

 何とか立ち上がったSPの一人が叫んで私用車に駆け寄る。
 ゴブリン達もダメージを受けながらも立ち上がろうとし始める。そして物部さおりもだ。
 さおりは擦り傷だらけで立ち上がると周囲のゴブリン達から逃れようと足を引きずりながら前に進み始めたのである。
 銀座ニューテーラー裏口前には、SPの警護車だけがエンジンをかけたまま残されることになった。


    *    *


 聡子は意を決すると蜥蜴女に向かって走った。
 聡子は拳銃射撃がそれほど巧くない。必中を期するならば距離をとことん詰める必要がある。
 それを無謀な特攻と見たのか、蜥蜴女はニヤリと嗤う。そして鞭を振り上げた。
 右手のスナップを利かせて振り下ろす。その鞭の先端部は音速を超えて聡子に向かって襲いかかった。
 しかし聡子は左へのサイドステップで軽やかに躱した。
 鞭の先端は腕を振り下ろした方向に飛ぶように出来ている。つまり腕の動きに少し遅れて追従するだけなのだ。ただその距離が長く、遠いからその先端部は音速を超えるのである。ならば鞭の先端ではなく手の動きを避ければよい。つまり原理としては、竹刀の先端を躱すのと全く同じなのだ。
 紙一重で鞭を躱した聡子は拳銃を蜥蜴女へと向けた。
 蜥蜴女は鞭を再度振りかぶったが、彼我ひがの距離はすでに三、四メートル。この距離ならきっと命中する。命中して欲しい。
 しかし聡子の足に、双頭犬がその顎を大きく広げて喰らい付こうとしていた。

「くっ」

 蜥蜴女が手綱を放していたのだ。
 聡子も警察官だ。その教育課程で警察犬・警備犬の恐ろしさは十分に学んでいる。そこで知ったことは、一対一ならば人間より犬のほうが強いということ。その獰猛な牙はいかに気を強く持っても人の心を怯えさせる。
 意識を足下に割いた聡子の拳銃の銃口は、蜥蜴女から大きく逸れることになった。聡子の放った最後の執行実包は、付近にある商用ビルの壁面をえぐって終わった。

「ちっ」

 双頭犬の二つの頭、二つの口が大きく開かれ、聡子に喰い付こうとしていた。
 犬に喰い付かれたらもう戦い続けることは出来ない。もう蜥蜴女を止めることは出来ない。
 聡子の口内に悔しさの味が広がる。その味はどこか血の味に似ていた。
 しかしその時、突如として横合いから黒塗り乗用車が現れた。それは全く減速することなく双頭犬を押しのけて、そのままビルの壁面に追突したのである。
 ガラスと金属の砕ける甲高い音。続くクラクション音。
 あっという間に高級車が一台、廃車となった。
 ボンネットから噴き出すラジエーター水の蒸発する湯気。壁とボンネットの間に挟み込まれてぺしゃんこになった双頭犬。
 車内を見れば、エアバッグが膨らんでいた。

「婦警さん!」

 運転席から中年男性――善良な一市民が飛び出してきた。

「あ、貴方は⁉」
「早く、逃げるぞ!」

 男は聡子の手を取って引っ張った。

「こ、この車、どこから……」

 真っ黒な高級車。どう見ても堅気かたぎの一般市民が乗るような車ではない。これは警視庁のSP達が使うような車なのだ。

「エンジン掛かったまま停まってた」
「他人の車を勝手に⁉ しかも一方通行を逆走?」
「今は細かいこと言ってる場合じゃないだろう⁉」

 見れば、周囲からゴブリンやオーク達がわらわらと集まりつつあった。そして蜥蜴女は背中を向けて遠ざかろうとしていた。蜥蜴女は聡子の相手をゴブリン達に任せて逃げようとしているのだ。
 あの女を捕らえるチャンスは、今しかない。今しか残っていない。
 しかし、善良な一市民は聡子の手を引っ張った。

「婦警さん、早く!」

 聡子は後ろ髪を引かれる思いで、引っ張られるままにその場を後にしたのである。




 第一章 平事ののう・有事の能吏



 一二一一時午後十二時十一分


 新橋駅――


『雑踏』という単語がある。
 大勢の人々がひと所に集まり行き交う様子を、漢字二文字だけで見事に表現した、言語の発達史に残る名発明とでもいうべき単語だ。
 そこからイメージされるのは、目的地の異なる雑多な人々が行き交う光景、そして人々が大地を踏みしめる音が無秩序に入り交じる様。その大地が土かあるいはアスファルトか、それとも石畳かの違いはあろうが、この二文字から人々が得る印象にそれほどの大差はない。つまり無秩序とは言いつつも、漠とした秩序がそこに形成されていることを意味する。全てが「ある程度」「ある範囲」に収まるのだ。故に、そこから少しでも逸脱した事柄が交ざると、人間はそれを異常現象として認知するのである。
 伊丹耀司がその日、その時の異常発生を悟ったのは国際展示場へと向かうため、新橋駅で乗り物を乗り換えようと、第一京浜を横切る橋を渡っていた時のことであった。
 常時耳に飛び込んでいながら、無意識という名のフィルターによって被覆ひふく処理される雑踏の音の中に、微かな悲鳴、どよめき、怒号、叫び、そして人々の逃げ惑う足音が感じられた。

「ん?」

 今現在新橋にいて、これからゆりかもめ東京臨海新交通臨海線に乗り換える、といった趣旨のメッセージを梨紗に送り終えたちょうどそのタイミングで、伊丹は顔を上げて周囲を見渡した。

「何、あれ?」

 異常を感じ取ったのは伊丹だけではない。多くの人々が足を止め、手元のスマホや進行方向、同行する友人の顔から視線を外し、音のする方向、すなわち橋の北側窓へと顔を向けた。
 そして目に飛び込んできた、理解を超越した事態に言葉を失い、あるいは愕然と凍り付くことになった。

「な、何あれ?」
「猿?」
「違うだろ?」
「んじゃゴリラ?」

 彼らの見たものは、彼らがこれまでの人生で実際に見たこと聞いたことのある既知の物体のいずれともかけ離れていた。SF、あるいはファンタジーと呼ばれる、想像力の豊かな者が脳内に結実させ、イラストやCGという形で映像化したような代物ばかりであった。
 それらの怪異は、群れをなしてやってきて、通り魔がごとく行き合う人を殺傷していた。剣で刺し、槍で抉り、あるいは棍棒で殴り倒して大地を鮮血色に染めていた。
 皆その非現実的光景をどう受け止めていいのか分からずにいた。
 伊丹はふと、ビル壁面を横切った影に誘われ視線を上げる。すると青い空を背景に、コウモリのものによく似た翼を広げて飛翔滑空する生物がいた。

「ワイバーン⁉」

 この瞬間、伊丹は他の誰よりも早く硬直状態から解放された。

「ヤバイ! ヤバイヤバイヤバイ! このままでは……同人誌即売会が中止になってしまう!」

 おいおいこの瞬間に口から出てくるのがそれかと誰もが突っ込みたくなるセリフである。しかし彼はそのことばかりを考えていたわけではない。裏では多くの思考が――この事態についての推測、予測、さらにこの後の展開等々の憶測が渦巻いていて、その結果、彼個人にとって最悪と思われる結末がそれだったというだけのことなのだ。

「みんな、逃げろ。逃げろ。すぐに!」
「逃げろってどこに?」

 問われた伊丹は即答できなかった。
 舌打ちした伊丹は、すぐに駅構内に設置されている近隣の案内図に飛び付いた。

「怪物が現れているのはここ。奴らは北方から現れた。とすると――」

 この時、伊丹の思考を支配したのは、怪物の進行方向に逃げてはいけないということだ。

「真っ直ぐ南に逃げるのはマズい。奴らの進路を躱さないと――とすると、誰もがよく知っている地形地物と言えば、ここからだと浜離宮はまりきゅうか日比谷公園か? だが浜離宮に向かうには幹線道路を横断しないとならない。それだと化け物の進路を横切る形になるからダメ。行くなら西だ。一番近いのは日比谷公園だが無防備過ぎるから避難場所にならない。安全地帯を作れるのは、警察署と警視庁に囲まれて、お堀と土塀に囲まれたココ。皇居だ!」

 伊丹は振り返ると、パニックに包まれた人々に向けて叫んだ。

「みんな、西方向だ! 皇居に逃げろ!」
「皇居なら安全だぞ!」
「警察署もすぐ側だ!」

 伊丹は繰り返して声を上げた。新橋駅近辺にいた人々もその声を抵抗なくすんなり受け容れられたのか、速やかに駅の西へと向かって走り出したのである。


 皆が戸惑った様子を見せつつも走り去っていく。
 それを見た伊丹は満足げに頷く。

「これでヨシ」

 目の届く範囲、声の届く範囲への働きかけは終わった。しかしまだまだ不十分だ。声の届かない範囲、目の届かない範囲ではもっと大勢の人々が逃げ惑っていることだろう。しかし彼ら彼女らを救うには、伊丹だけでは手が足りない。
 伊丹は新橋駅方向へと向かうと駅構内でパニックを起こしている人々に、「皇居へ逃げろ」と声を掛けた。そして同時に周囲を見渡した。新橋ほどの大きな駅ならば、必ず交番がある。そこに行けば警察官がいるはずなのだ。
 交番は見つからなかったが警察官の所在はすぐに知れた。
 拳銃の発砲音が響いたのだ。
 聞き慣れない者にとっては、爆竹、花火、あるいは自動車のバックファイヤー音との区別すらつかないだろうが、日頃から銃砲火器を取り扱う伊丹にとってその違いは明白だ。
 伊丹は音のした北側方向へと向かった。
 すると警察官三人が、日本猿サイズの怪異複数とゴリラサイズの怪異一頭と向かい合っているところだった。制服の一部を引き裂かれた警官が、怪我をした女性を助け起こそうとしている。そしてそれを守るように、警察官二人が立ちはだかって拳銃を向けていた。
 警察官達は拳銃を連射。小型の怪異数頭が倒れ、他の小型怪異はその威力と音に驚いたのか逃げ散っていった。
 しかしゴリラサイズの怪異は獰猛だった。一発二発の弾丸が当たっても怯むことなく突き進み、警官の一人に肉迫して斧を振り下ろした。

「ぐあっ!」

 制帽が吹き飛び、警察官が殴り倒された。

「くそがぁぁっ!」

 慌ててもう一人の警官が拳銃を連射する。その一発が頭部を掠めると、ゴリラサイズの怪異もようやく悲鳴を上げて逃げていった。

「大丈夫か?」

 伊丹は倒れた警官に駆け寄る。
 斧の一撃を食らった警官の左側頭部からは、どす黒い血液が溢れている。砕かれた頭蓋骨の隙間から、白い脳の一部が見えていた。今すぐにでも手当が必要だろう。
 しかしその時、黒い影が大地を走った。
 風を切る音と共にワイバーンが突っ込んできたのだ。
 見ればワイバーンの背には、人間が跨がっている。コスプレまがいの古代式甲冑かっちゅうを纏って、長い槍を手にしているが、明らかに街で暴れている怪異達とは一線を画した人間の姿であった。

「来るな、止まれ。止まらないと撃つぞっ!」

 警官が拳銃を乱射。しかしすぐに弾が尽き、空撃からうちの音に変わってしまう。
 そしてすれ違うようにしてワイバーンは警察官の傍らを通過していった。残った警察官は胸部を槍で深々と貫かれ膝を突くと、仰向けに倒れていった。
 しかしその警察官とて、ただやられてばかりではなかった。一矢報いていたのだ。
 警官の放った拳銃弾は、ワイバーンに跨がった兵士――竜騎士の身を掠めたらしく落馬ならぬ落竜させていた。
 飛び去っていくワイバーン。背から地に落ちた竜騎士。
 地に落ちた竜騎士は、素早く受け身を取ると、立ち上がって腰から剣を抜いた。
 その竜騎士が最優先で倒すべしと見做みなしたのは、怪我をした民間人女性を救おうと肩を貸している警察官だ。腰から抜かれた剣の切っ先は紛れもなく彼を指向している。まばたきするほどの時間があれば竜騎士は数歩の距離を詰め、その剣身を警官の脇腹ないし胸に埋め込んでしまうだろう。
 そう悟った伊丹は考えることすらしなかった。訓練で身に付けた動作が条件反射の速度で自動的になされた。
 地に落ちていた小型怪異の短剣を拾うと、竜騎士の側方から膝を蹴る。膝が折れて前進が止まったところを背後から羽交い締めにし、掌で顎を上げさせる。そして右頸部側面から刃を差し入れ、そのまま前方へと押し出す。
 この竜騎士の肉体が人間と同じなら、これで諸々の筋肉、食道、気管、そして二本の頸動脈が切断されたはずだ。
 よく映画や漫画表現で、喉の正面からカミソリなどを押し当て横に掻き斬る描写があるが、それでは人は死なない。喉の喉頭隆起の下にあるのは気管であり、切断したとしてもそこを流れているのは空気だからである。モチなどの食べ物を喉に詰まらせた際、応急処置で喉を切って空気の通り道を作ることがあるくらいなのだから、この程度で人は窒息しないのだ。従って致命的な一撃を狙うなら、分厚い筋肉の下に隠されている頸動脈を切断し、失血死を狙わなくてはならない。
 心臓の一回の鼓動で送り出される血液量は平常時約七十CC。一分間で約七十回鼓動するので毎分約五リットルになる。興奮時や運動時なら、さらに多くなってこの五倍の二十五リットルに達するという。その三~四パーセントが頭部に配分されて頸部を通過しているのだが、それを途中で断たれれば血液は噴水のごとく溢れていって生命活動は停止する。
 伊丹は、盛んに抵抗していた敵兵から次第に力が抜けていき、ずっしりとした肉の塊と化してその重みがのしかかってくるのを感じていた。
 やがて十分に重くなったところで、その肉塊を地面に転がす。
 アスファルトには真っ赤な血だまりが広がっていく。伊丹はおもむろにスマホを取り出すとその姿の写真撮影を始めた。


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