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第2章 不幸の手紙
化物の正体みたり枯れをばな
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地域新聞デイリーシティニューズを発行している柾社は、駅前にある古めかしい煉瓦造のオフィスビルに本社を構えている。創業からもうすぐ半世紀、発行地域は県内限りの中小企業ではあるが、地域に密着したニュースに関する情報収集能力や取材精度は右に出る者がない。
ビルの三階にある編集室社会係の部屋は、どのデスクも堆く原稿や資料が積み上げられていて、人がいるかどうかも判然としない。見慣れた光景ではあるが、目当ての人物が在席なのかどうか一目で分からないから不便だ。雑多な受付の机に置かれた場違いな呼び出し用のベルを鳴らして、誰かが気付くのを待つのも面倒臭い。
応対に出てきた若い社員に用件を伝え、ようやく馴染みの記者と落ち合うことが出来た。
「よお、御曹司。やっぱり資本家は身なりが違うな」
犀川耕哉は皮肉っぽい笑みを浮かべるが、いつものキレがなくて心配になる。くたびれたワイシャツは、二、三日替えていないようだったから、泊まり込みですかと聞くと、犀川さんは気怠そうに「案件、掛け持ちしてるから」と答えた。大欠伸をしながら自席にどかりと納まると、僕とミサは近くの席を勧められた。同僚は出払っているから座れ、ということらしい。
「お疲れのところすみません。連絡したとおり、例の不幸の手紙について教えてほしいんです」
「おう、何でも聞いてくれ……と言いたいところだが、最前も言ったとおり掛け持ちしててな、不幸の手紙については後輩がメインで取材してる。丁度、出払っちまってて、聞いたことしか答えられんが」
「謙遜なんて柄にもない。犀川さんならもう大方のことは整理されてるでしょう?」
「あんまり買い被るなよ、こちとら小規模新聞社のしがない一記者なんだから。で、不幸の手紙だが、市内全域は勿論、複数の近隣市でも確認されている。不幸の手紙といえば模倣犯による拡散だが、粗悪なパチモンも出回っちまって、すでに収拾がつかない。どの手紙も消印はなし、機械的なポスティングってわけじゃなさそうだが、投かんされた家の共通点もないから何とも言えないな」
「僕のところにも届いたんですけど、何か心当たりとかあります?」
「天下の柊家にか。じゃあ犯人は群咲の住人じゃない可能性が高くなるぞ。この町に住んでてお前さんとこにちょっかい出せる奴はもぐりだから」
「嫌だなぁ、地元で幅を利かす悪みたいで。僕はこんなにも親しみやすくて人懐っこいというのに」
「畏敬だよ。権力財力を抜きにしても、数百年間この町に根を下ろす豪族の末裔にして旧華族ってんだから、存在自体が一般市民の日常からかけ離れてるだろ。
それはともかく、ポスティングしていた怪しい奴は捕まえたのか?」
「残念ながら。敷地の外を四六時中見張ってるわけじゃないので」
「とはいえ、玄翁衆の眼も掻い潜るとは厄介だな」
犀川さんはチラッとミサを見る。ミサは何か言いたげだったが、ふんと鼻を鳴らして顔を背けた。
「怪しい奴なんて最近珍しくないが、ここまで目撃情報がないのは不気味だよなぁ。巷じゃあの世からの郵便とか別の世界線からの手紙とか噂されてるけど、実体がない犯人ならさすがの御曹司もお手上げなんじゃないか?」
「無理ですね、専門家を呼びます」
ふと、いつも僕をストーキングしている謎の英国人少女の姿が頭に浮かんだ。裏稼業で悪魔祓いとか悪鬼調伏とかそういうおっかない仕事を生業にしていたはず。僕の周りには忍者だとかエクソシストだとか思わず聞き返したくなる連中が多くて、今更ながら普通の境遇とは言えないなと苦笑してしまう。
「冗談はさて置き、不幸の手紙はその通称のとおり受け取ったほとんどの家庭でいさかいを誘発してる。犯人の狙いはこれだな、明確に他者を害する意志を持って被害者を選んでるはずだ」
「昂良と同じ見解か。何故そう断言できる?」
「目的が不明瞭だからさ」
犀川さんの簡潔な回答に僕達は少したじろいだ。
「手紙の文面は知ってるだろ? 脅迫か、告発か、警告か、悪戯か……とにかく、あれじゃ何がしたいのか解らない。解らないっていうのがミソなんだ。人間にとって一番恐ろしいことだから」
犀川さんはデスクに無造作に置いてあった飲みかけの缶コーヒーをあおる。
「横井也有の句に『化物の正体みたり枯れをばな』ってのがあるんだが、聞いたことあるか? 正体が解らないものを怖がるあまり、何でもないものが恐ろしい化け物の姿に見えちまうって人間の心理は昔も今も変わらない。不幸の手紙は、この心理を突いているんだと思う」
「差出人は、受け取った側が勝手に恐怖に慄くことそれ自体を狙っていると?」
「そうだ。怖い、嫌だと思っていることを回避しようとするあまり思い込みに囚われて、結局、自分の望まない未来を実現してしまうのが人間の哀しい性だ。那美川優飛はその典型だろう」
気の毒にな、と犀川さんは小声で呟く。斜に構えるのが常とは言え、根は善良な人なのだ。
「意思疎通が可能であることを前提とする手紙は、送り主が同じ人間だってことを暗に示している。やっぱり人間にとって人間は狼なのか、意図が読めない他人の行動は本能的な恐怖を引き起こすものだ。理解できないものを恐れる心理が、いもしない敵の存在を幻視させるし、得てしてそういう場合の無知は自己の安全にとって好ましいことじゃない。思考は悪い方へ悪い方へと流れ、不安の無間地獄から逃れたくて相手の正体や思惑を明瞭とさせたくなる。今まで知ろうとしなかったことや見て見ぬ振りをしてきたことも知りたくなる。青髭の童話に出てくる花嫁のように、鍵の付いた秘密の部屋は開けずにはいられないってわけさ」
「好奇心……いや、恐怖心なんですね。怖いからこそ知りたい、知ることで敵味方を明瞭に区別したい。でも憶測に基づく他者への恐れは、抱いた時点で既に平穏な日常を破綻させていく、か」
なんて独り善がり。しかしそれを詰ることはできない。霊長類の頂点に立ち、高度な文明を築いた人間の天敵は地球上にはほぼいないから、自ずと恐怖の対象は得体の知れない存在として空想や幻想の中にしか息づかないのだろう。根本的に独り善がりなのだ。もちろん、有史以来、いまだに分かり合えず争い合う人類は、お互いがお互いにとって潜在的な脅威には違いない。
僕達はいつも無意識に怯えているのかもしれない。いつ牙を剥かれるか分からない誰かと共存する日常というのは、薄氷を踏むように危うく、ややもすれば一瞬で足場が崩れる可能性を孕んでいるのだから。
地域新聞デイリーシティニューズを発行している柾社は、駅前にある古めかしい煉瓦造のオフィスビルに本社を構えている。創業からもうすぐ半世紀、発行地域は県内限りの中小企業ではあるが、地域に密着したニュースに関する情報収集能力や取材精度は右に出る者がない。
ビルの三階にある編集室社会係の部屋は、どのデスクも堆く原稿や資料が積み上げられていて、人がいるかどうかも判然としない。見慣れた光景ではあるが、目当ての人物が在席なのかどうか一目で分からないから不便だ。雑多な受付の机に置かれた場違いな呼び出し用のベルを鳴らして、誰かが気付くのを待つのも面倒臭い。
応対に出てきた若い社員に用件を伝え、ようやく馴染みの記者と落ち合うことが出来た。
「よお、御曹司。やっぱり資本家は身なりが違うな」
犀川耕哉は皮肉っぽい笑みを浮かべるが、いつものキレがなくて心配になる。くたびれたワイシャツは、二、三日替えていないようだったから、泊まり込みですかと聞くと、犀川さんは気怠そうに「案件、掛け持ちしてるから」と答えた。大欠伸をしながら自席にどかりと納まると、僕とミサは近くの席を勧められた。同僚は出払っているから座れ、ということらしい。
「お疲れのところすみません。連絡したとおり、例の不幸の手紙について教えてほしいんです」
「おう、何でも聞いてくれ……と言いたいところだが、最前も言ったとおり掛け持ちしててな、不幸の手紙については後輩がメインで取材してる。丁度、出払っちまってて、聞いたことしか答えられんが」
「謙遜なんて柄にもない。犀川さんならもう大方のことは整理されてるでしょう?」
「あんまり買い被るなよ、こちとら小規模新聞社のしがない一記者なんだから。で、不幸の手紙だが、市内全域は勿論、複数の近隣市でも確認されている。不幸の手紙といえば模倣犯による拡散だが、粗悪なパチモンも出回っちまって、すでに収拾がつかない。どの手紙も消印はなし、機械的なポスティングってわけじゃなさそうだが、投かんされた家の共通点もないから何とも言えないな」
「僕のところにも届いたんですけど、何か心当たりとかあります?」
「天下の柊家にか。じゃあ犯人は群咲の住人じゃない可能性が高くなるぞ。この町に住んでてお前さんとこにちょっかい出せる奴はもぐりだから」
「嫌だなぁ、地元で幅を利かす悪みたいで。僕はこんなにも親しみやすくて人懐っこいというのに」
「畏敬だよ。権力財力を抜きにしても、数百年間この町に根を下ろす豪族の末裔にして旧華族ってんだから、存在自体が一般市民の日常からかけ離れてるだろ。
それはともかく、ポスティングしていた怪しい奴は捕まえたのか?」
「残念ながら。敷地の外を四六時中見張ってるわけじゃないので」
「とはいえ、玄翁衆の眼も掻い潜るとは厄介だな」
犀川さんはチラッとミサを見る。ミサは何か言いたげだったが、ふんと鼻を鳴らして顔を背けた。
「怪しい奴なんて最近珍しくないが、ここまで目撃情報がないのは不気味だよなぁ。巷じゃあの世からの郵便とか別の世界線からの手紙とか噂されてるけど、実体がない犯人ならさすがの御曹司もお手上げなんじゃないか?」
「無理ですね、専門家を呼びます」
ふと、いつも僕をストーキングしている謎の英国人少女の姿が頭に浮かんだ。裏稼業で悪魔祓いとか悪鬼調伏とかそういうおっかない仕事を生業にしていたはず。僕の周りには忍者だとかエクソシストだとか思わず聞き返したくなる連中が多くて、今更ながら普通の境遇とは言えないなと苦笑してしまう。
「冗談はさて置き、不幸の手紙はその通称のとおり受け取ったほとんどの家庭でいさかいを誘発してる。犯人の狙いはこれだな、明確に他者を害する意志を持って被害者を選んでるはずだ」
「昂良と同じ見解か。何故そう断言できる?」
「目的が不明瞭だからさ」
犀川さんの簡潔な回答に僕達は少したじろいだ。
「手紙の文面は知ってるだろ? 脅迫か、告発か、警告か、悪戯か……とにかく、あれじゃ何がしたいのか解らない。解らないっていうのがミソなんだ。人間にとって一番恐ろしいことだから」
犀川さんはデスクに無造作に置いてあった飲みかけの缶コーヒーをあおる。
「横井也有の句に『化物の正体みたり枯れをばな』ってのがあるんだが、聞いたことあるか? 正体が解らないものを怖がるあまり、何でもないものが恐ろしい化け物の姿に見えちまうって人間の心理は昔も今も変わらない。不幸の手紙は、この心理を突いているんだと思う」
「差出人は、受け取った側が勝手に恐怖に慄くことそれ自体を狙っていると?」
「そうだ。怖い、嫌だと思っていることを回避しようとするあまり思い込みに囚われて、結局、自分の望まない未来を実現してしまうのが人間の哀しい性だ。那美川優飛はその典型だろう」
気の毒にな、と犀川さんは小声で呟く。斜に構えるのが常とは言え、根は善良な人なのだ。
「意思疎通が可能であることを前提とする手紙は、送り主が同じ人間だってことを暗に示している。やっぱり人間にとって人間は狼なのか、意図が読めない他人の行動は本能的な恐怖を引き起こすものだ。理解できないものを恐れる心理が、いもしない敵の存在を幻視させるし、得てしてそういう場合の無知は自己の安全にとって好ましいことじゃない。思考は悪い方へ悪い方へと流れ、不安の無間地獄から逃れたくて相手の正体や思惑を明瞭とさせたくなる。今まで知ろうとしなかったことや見て見ぬ振りをしてきたことも知りたくなる。青髭の童話に出てくる花嫁のように、鍵の付いた秘密の部屋は開けずにはいられないってわけさ」
「好奇心……いや、恐怖心なんですね。怖いからこそ知りたい、知ることで敵味方を明瞭に区別したい。でも憶測に基づく他者への恐れは、抱いた時点で既に平穏な日常を破綻させていく、か」
なんて独り善がり。しかしそれを詰ることはできない。霊長類の頂点に立ち、高度な文明を築いた人間の天敵は地球上にはほぼいないから、自ずと恐怖の対象は得体の知れない存在として空想や幻想の中にしか息づかないのだろう。根本的に独り善がりなのだ。もちろん、有史以来、いまだに分かり合えず争い合う人類は、お互いがお互いにとって潜在的な脅威には違いない。
僕達はいつも無意識に怯えているのかもしれない。いつ牙を剥かれるか分からない誰かと共存する日常というのは、薄氷を踏むように危うく、ややもすれば一瞬で足場が崩れる可能性を孕んでいるのだから。
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