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第2章 不幸の手紙

オーバードーズ

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「御曹司、俺はこの不幸の手紙って奴が気に食わないんだ」

 犀川さんは嫌悪感を露にして吐き捨てた。

「他人との関係に不安を感じていない人間なんていないだろ? 俺達だって例外じゃない。それでも独りでは生きられないから、不安をなんとかやり過ごすしかないってのに、この手紙はその無自覚な処世術をつまびらかにして、まるで悪行かのようにあげつらう。記者である俺が言うのもなんだがな、物事を何でも明らかにして、善悪を判じるのは愚か者の所業だ。心臓の動かし方なんて俺達は知らないけど、知らなくたって生きることに支障は無い。そんなことをいつも気にしていたら、むしろ逆に生きにくいじゃないか」
 
 虚無的ニヒルで冷めた印象は仮の姿、犀川さんの素は静かに燃え上がる熱血漢である。捲し立てるような口調は自然と熱を帯びていた。

「同感です。ただ、この愚か者は、犀川さんの見立てどおりなら複数の家庭の内情に精通していることになる。そんな稀有な人物、自ずと犯人候補として名前が上がって来そうなものなんですけどね」

「そこなんだよ、この犯人が不気味なのは。家庭ってのは現代社会の聖域だ。外部から隠匿された閉鎖的な基礎集団だからこそ、表向きはありきたりな家族像を演じているだけにすぎない。そういう集団は内情を暴こうとする輩に対してかなり強く反発するんだが、被害に遭った家庭はそんな経験はないと言うし、盗聴器なんかによる情報漏洩もなかった。むしろ俺達の取材の方が警戒される始末だ」

 犯人は神の視点でも持つ超能力者なのか、と犀川さんは激しく頭を掻きむしる。らしくもない超常現象説なんかを口にするあたり、相当お疲れのようだ。疲労の所為で思考も鈍くなり、苛立ちも募っているらしい。これ以上、犀川さんを付き合わせるのは憚られたから、僕達は席を立った。

「苦労なさってますね、お察しします。あ、これ、差し入れです。お忙しいでしょうが無理はなさらずに。いろいろ教えてくれてありがとうございました」

「すまんな、気を遣わせて。御曹司も何か情報掴んだらこっちにも流してくれ」

「勿論です。ちなみに、犀川さんが掛け持ちしている案件を聞いてもいいですか?」

「御曹司の耳に入っているかどうか分からんが、最近、巷を騒がせているオーバードーズだよ」

 ニュースか何かで聞いた事のある言葉だったけれど、意味はよく知らなかった。ミサも僕と同じく小首を傾げていた。

「市販薬を過剰摂取する行為で、一時的な多幸感や高揚感が得られる。簡単だし、調達も手軽だから、生き辛さを感じてストレスを抱える若者達の間で蔓延していて、SNSにはオーバードーズ依存者同士が集まるサークルまで乱立している」

「過剰摂取って身体に良くないですよね」

「勿論、市販薬と言えど大量摂取すれば内臓に大きな負担がかかるし、場合によっちゃ死に至る。だがオーバードーズ問題は複雑でな、薬による依存性も然ることながら、オーバードーズ常習者はお互いの境遇に共感し合い、その繋がりが嬉しくてオーバードーズから抜け出せないって面もある。さらに厄介なのは、このオーバードーズを影で操る黒幕がいる事だ」

「黒幕?」

「ああ。亜砂木市郊外でヘロインの原料になるハカマオニゲシを堂々と栽培していた連中だよ。精神的に弱った若者に近づき、言葉巧みに現実逃避オーバードーズを勧め、もっと遠くに逃げたいという心理に漬け込み、純度が高く、効果も段違いな麻薬ヘロインに手を出させて金を巻き上げる。金が払えなくなれば男は犯罪を強要され、女は売春を強制される。群咲でも徐々に被害者が増えているんだが、こっちも不幸の手紙の差出人同様、巧妙に正体を隠していて、現状、収穫はゼロに等しい。薬には手を出してこなかった鉄選てっせん組が変節したとも思いたくないし、結構、行き詰ってるんだよ」

 不貞腐れる犀川さんに激励の言葉をかけながら、僕は盟友でもある鉄選組について考えを巡らせていた。

 鉄選組は群咲を拠点にする任侠集団だ。柊家との古くからの盟約に則り、この街の裏社会の暴走と膨張を抑制し、外部勢力の流入と干渉を防いできた歴史がある。言うなれば柊家と対をなす影の守り人であり、そのお勤め柄、全く悪いことをしていないとは言えないが、弱きを助け強きを挫く姿勢は群咲の人々も知っているところだし、鉄選組に対し好意的な意見を持つ人は多い。

 そんな気の良い荒くれ者達が任侠道を忘れて、私欲に走るとは考えたくないというのは僕も同意見だ。ただ、オーバードーズを皮切りにした一連の薬物問題に関し、後手に回っている点は気掛かりだった。近いうち、組長に話を聞いてみよう。
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