呪いの穿孔 ―神様が授けた、最悪の祝福―

武蔵

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第一話:完璧な城郭

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東京都心を見下ろす地上三十階。このタワーマンションの広大な窓から切り取られる景色は、私、サヤカが心血を注いで手に入れた人生の勝利品そのものだ。

眼下に広がるのは、神の視点で眺めるミニチュアのように整然とした街並みと、大都市の血管のように絶え間なく拍動する首都高速の光の帯。

夜の残り香を孕んだ朝靄(あさもや)が、コンクリートのジャングルを乳白色のベールで優しく包み込み、街の鋭い輪郭を甘くぼかしている。ここは地上から百メートル以上離れた聖域。下界の喧騒も、埃(ほこり)も、湿った生活臭も、この強化ガラスを透過することは決してない。

午前六時。 私は目覚まし時計が無機質な音を立てる数分前に、体内時計の精密な歯車に導かれるように瞼を開けた。隣で眠る夫、ケンジの寝息は、メトロノームのように一定のリズムを刻んでいる。彫刻のように整ったその横顔は、意識を失っている眠りの縁でさえ論理的で、一片の隙も見せない。

結婚して五年。彼は一流企業の最前線という戦場で、知性と体力を削りながら戦い続けてきた。私は、その戦士が唯一、鎧を脱いで羽を休めるための「完璧な城郭」を維持する城主だ。そしてその城には、四歳になる最愛の息子、ヨウタという無垢な天使が、未来への希望を象徴するように眠っている。

私は絹のようなシーツの音を立てぬよう慎重にベッドを抜け出し、洗面所へ向かった。鏡の中の自分と対峙する。三十代半ばという、女としての「賞味期限」を意識せざるを得ない年齢に差し掛かりながらも、私の肌はまだ、高価な美容液と節制によって若々しい弾力を保っている。

冷たい水で意識を研ぎ澄まし、丁寧に化粧水をハンドプレスしながら、私は鏡の中の自分に聖句を唱えるように囁く。 「今日も、完璧な一日を」 それは自分にかけた呪いであり、同時に世界を統べるための魔法だった。

リビングダイニングキッチンへ足を踏み入れると、東側の巨大なパノラマウィンドウから、圧倒的な太陽の光が洪水となって押し寄せてきた。二十畳を超える空間が、微細な黄金色の粒子で満たされ、埃一つないフローリングが鏡面のようにそれを受け止める。私はその神々しいまでの眩しさに少し目を細めながら、慣れた手つきでキッチンの主導権を握った。

トントントン、とまな板を叩く軽快な包丁のリズム。 炊飯器から噴き出す、穀物の甘い香りを含んだ白い湯気。 銅製のフライパンの上で、バターの香りを纏って踊る卵液の鮮やかなイエロー。 これらすべてが、私の完璧な王国を構成する、美しく調和した五感の要素たちだ。

しばらくすると、寝室の奥から「パタパタ」という小鳥のような足音と、それを追う「ズシン」という少し重たい足音が近づいてきた。 「まま、おはよー!」 寝癖のついた柔らかい髪を揺らしながら、ヨウタがキッチンに飛び込んできた。その屈託のない、朝露のように純粋な笑顔を見た瞬間、私の胸の奥に、不浄なものをすべて焼き尽くすような温かい光が灯る。

「おはよう、ヨウタ。よく眠れた?」 「うん! あのね、きょうのおべんとう、なにが入ってるの?」 ヨウタは私のエプロンの裾を小さな手でギュッと掴み、背伸びをして調理台を覗き込もうとする。その必死な、愛くるしいまでの仕草。

「ふふ、まだ内緒。開けてからのお楽しみよ」 「えー、おしえてよぉ。あ、たまごやきだ! ママのたまごやき、せかいいちだいすきだから、もういっこ入れて!」 「もう、欲張りさんね。わかったわ、特別に一個おまけね」 私が悪戯っぽくウインクしてみせると、ヨウタは「やったぁ!」と小さな両手を天に突き上げて踊った。

その様子を、いつの間にか現れたケンジが、ダイニングテーブルの定位置に座って穏やかに見つめていた。新聞を広げる前の、数分間だけ許される彼の「無防備な夫」の表情。私はその繊細な均衡を壊さぬよう、音を忍ばせて歩き、最高のタイミングで淹れたてのコーヒーを彼の前に置いた。

「おはよう、ケンジ。今日のコーヒー、どうかしら」 ケンジはカップを持ち上げ、立ち上がる豊かな香りを、肺の奥深くまで吸い込んだ。一口含み、舌の上で転がすように、そのテクスチャーと酸味を分析する。その所作の一つひとつに、エリートとしての矜持と洗練が宿っている。

「……ん。サヤカ、豆を変えたか?」 彼の鋭い指摘に、私は内心で快哉を叫ぶ。私の細やかな気遣いが、彼の鋭敏なセンサーに捉えられたことへの充足感。

「ええ、わかった? あなたの好きな銘柄をベースに、今朝は少し酸味を抑えたブレンドにしてもらったの。今日の東京の空気に、その方が合う気がして」 ケンジはもう一口飲み、深く、満足げにうなずいた。 「さすがだな。君の感覚はいつも正しい。完璧な目覚めだ」 「よかった。気に入ってくれて嬉しいわ」

ダイニングテーブルの上では、ヨウタが大好きな苺ジャムを山盛りに塗ったトーストを、口の周りを真っ赤に染めながら頬張っている。 「おいしーい!」と無邪気に叫ぶ息子。それを、香り高いコーヒーを片手に、タブレットで世界の経済ニュースを確認しながら、慈しむように見守る夫。窓の外では、完全に覚醒したメガロポリスが、強烈な朝光に照らされて銀色に輝いている。

私はキッチンのカウンター越しに、額縁の中の絵画のようなこの光景を眺めていた。 それはあまりにも美しく、完璧に計算された映画のワンシーンのようで、現実感が希薄になるほどの悦楽を感じた。ああ、これこそが、私が守り抜き、幾多の犠牲を払って築き上げてきた「理想の家庭」という名の聖域なのだ。

その時、ふと、胸の奥で何かがチクリと、毒針で刺されたような痛みを立てた。 あまりにも眩しすぎる光は、逃れようのない濃い影を同時に生み出す。この完璧な幸福の裏側に、触れてはいけない「何か」が不気味に張り付いているような、かすかな違和感。それは喉の奥に刺さったまま取れない魚の小骨のように、意識をそらせば消えるが、確かにそこに存在し続ける異物感だった。

けれど、私は瞬時にその思考を断ち切った。 目の前で天使が笑っている。夫が穏やかな眼差しを向けている。この笑顔こそが、今の私のすべてだ。この光景を守るためなら、私はどんな深淵にだって手を伸ばす。自然と、私の口元から深い慈愛の笑みがこぼれ落ちた。

「それじゃあ、行ってくるよ。会議が長引くかもしれない」 「いってきまーす!」 身支度を整えた二人が、玄関で仲良く手を繋いでいる。お揃いの高級ブランドのスニーカーが並んでいる様子さえ、計算された美学のように愛おしい。

「ええ、行ってらっしゃい。車、気をつけてね」 私は二人の背中が見えなくなるまで、エレベーターの扉が閉まるまで、優雅に手を振り続けた。重厚な鋼鉄の扉が閉まり、電子錠がガチリと掛かる無機質な音が響いた瞬間、部屋の中は真空のような静寂に包まれた。

以前の私なら――この瞬間に糸が切れたマリオネットのように、床へ崩れ落ちていただろう。完璧を演じ続けることへの摩耗と、心の空洞を吹き抜ける孤独感に耐えきれずに。

けれど、今の私は違う。 私はすぐに、まるで新しい軍服を纏うようにエプロンの紐を強く締め直し、最新式の掃除機を手に取った。家族が呼吸する空気を清め、彼らの肌に触れる衣類を、天上の雲のように柔らかく洗い上げる。その労働の一つひとつが、最高の喜びになった。彼らの笑顔のための『献身』こそが、私の存在意義を、そして私がここにいていい理由を確かなものにしてくれる。
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