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第二話:平穏の代償
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昼過ぎ、私は同じマンションに住む「選ばれた」ママ友たちとのランチ会に出かけた。
併設されたラウンジのテラス席で、色とりどりの有機野菜とパスタを囲む。話題は他愛もない芸能人のスキャンダルや、同じ幼稚園の保護者の経済力への品定め、連れては夫たちへの、どこか自慢を含んだ愚痴。
「うちの主人、昨日も銀座で会食。帰ってきたのは三時よ。健康管理が大変だわ」 「わかるわ。うちも週末はゴルフ三昧で。たまには家族サービスをしてほしいものよね」
以前の私は、こうした虚飾に満ちた会話の輪が、嘔吐が出るほど苦痛だった。彼女たちの抱える「贅沢な不満」が、私がかつて抱えていた、むき出しの孤独の前ではあまりにも滑稽で、浅薄に見えていたからだ。
けれど、今は違う。私も同じように声を立てて笑い、適度に相づちを打ち、時には「完璧すぎる夫への、愛らしい愚痴」を即興で演じることさえできる。
「うちはケンジさんが几帳面すぎて。クローゼットのシャツのグラデーションまで気にするから、こちらが気を抜けないの」 「えー! サヤカさんのご主人、完璧なエリートなのにそんな一面があるの? 素敵だわ」
盛り上がる彼女たちを、私は少し冷めた視線で眺めながら、心の中で安堵の息を吐く。 (私はここに馴染んでいる。私は、何の影もない『普通の幸せな主婦』として、この世界に再構築されたのだ)
ランチを終え、幼稚園バスを待つバス停へと向かう。 定刻通りに現れた黄色いバスから、エネルギーの塊のような子供たちが溢れ出してきた。
「ママー!」
真っ先に私を見つけ、腕を広げて駆けてくるヨウタ。私は膝をついてアスファルトに降り、その小さな、温かい体躯を力いっぱい受け止めた。 「おかえり、ヨウタ! 今日は何が一番楽しかった?」 「おすなばで、パパのお城をつくったんだよ!」
汗と、砂と、太陽の匂いが混じり合う息子の首筋に顔を埋めながら、私は誓う。この子の笑顔のためなら、私は何度でも嘘をつく。この純粋な瞳を曇らせないためだけに、私は強くあらねばならない。
帰りに立ち寄ったスーパーの、冷房が効いたお菓子売り場。 「ママ、これ買って! おねがい!」 キャラクターが描かれた、毒々しい色彩のチョコレート。ヨウタが期待に満ちた目で私を見上げてくる。
私は一瞬、その輝く瞳に負けそうになったが、即座に「理想の母親」のスイッチを入れた。 「今日はダメよ、ヨウタ。おうちに無添加のクッキーがあるでしょう? 身体にいい方を食べようね」 「えー、やだ! これがいいの! これじゃなきゃやだー!」
ヨウタが床を蹴り、声を張り上げる。周囲の客の視線が、刃のように私に突き刺さる。けれど、ここで折れることは「完璧な教育」の放棄を意味する。 「ダメなものはダメ。わがままを言うなら、もう一緒にお買い物には来ません」
私は努めて低く、感情を排した声で言い放った。ヨウタは唇を震わせ、大きな瞳に涙を溜めて、折れた花のようにしょんぼりと俯いた。その小さな、無力な背中を見るのは、私の心臓を素手で握りつぶされるように辛い。
けれど、これもまた愛なのだ。彼が将来、父のような勝者として生き抜くために必要な「自制」を教える、痛みを伴う愛なのだ。私は鉄の意志で彼の手を引き、レジへと向かった。
午後八時。ヨウタを清潔なリネンの香りに包まれたベッドへ寝かしつけ、リビングに戻った私は、深く、長い溜め息を吐いた。一日のタスクは、すべて完遂された。
洗面台の前で、私は今日という一日を共に戦った「完璧な妻」のメイクを、クレンジングオイルで丁寧に落とし始めた。オイルが体温で溶け、肌の上で乳化していくたびに、一日中貼り付けていた仮面が剥がれ落ち、ドロリとした本音が露出していく。素顔に戻った私は、高級美容液を肌に叩き込みながら、鏡の中の自分を凝視した。
そこに映っているのは、昼間の太陽のような輝きを失い、どこか深く、底の見えない淵のような瞳をした女だ。
(幸せ? ええ、これ以上ないほど幸せよ) 鏡の中の私に、心の中で強く言い聞かせ、暗示をかける。 最高級のマンション。非の打ち所のない夫。天使のような息子。誰もがひれ伏すような、完璧な人生。あの地獄のような、無機質な日々から、私は自力で這い上がったのだ。自らの意志で、この光あふれる城郭を再建したのだ。
(……本当に?) 朝、感じたあの小骨のような違和感が、またチクリと喉を刺す。私は無意識に、左の耳たぶに指を添えた。そこには、あの男の――熱く、卑猥な指先の感触が、呪印のように焼き付いているような錯覚に陥る。
「……っ」 私は激しく首を振り、その汚らわしい記憶を排水溝へと押し流すようにイメージした。考えるな。今のこの平穏こそが真実であり、正義なのだ。それ以外は、取るに足らない悪夢なのだ。私は化粧水を両手で顔に押し当て、鏡の中の、一瞬だけ揺らいだ女を叱咤するように呟いた。 「これでいいの。今の幸せを守り抜くためなら、私は……」
そのためになら、どんな巨大な嘘だって一生つき通してやる。秘密は、永遠に封印し、私の血肉の一部として隠し通す。 「……墓場まで、持っていけばいいだけだわ」
その言葉は、かつては自分を縛り上げる冷たい鎖だった。けれど、今は違う。 私は鏡の中の自分と、真っ直ぐに視線を合わせた。そこにいるのは、何かに怯える犠牲者ではない。自らの手で運命を操り、愛する家族という「作品」を守り抜くと決意した、冷徹で強靭な城主の顔だった。 (そうよ。私はもう、あの頃の無力な女じゃない)
泥沼の中で、私は一度死に、そして「母」として再誕したのだ。この完璧な家庭は、誰かに与えられた恩寵ではない。私が嘘を重ね、罪を糧にして、力づくで守り抜くと決めた不落の城なのだ。秘密も、裏切りも、すべては、この究極の幸福というパズルを完成させるための、欠かせない影のピースに過ぎない。
ガチャリ、と重厚な玄関の扉が開く音がした。 ケンジが帰ってきた。
私の心臓は、もう恐怖で震えることはない。代わりに、愛する夫を迎え入れる甘美な喜びと、この完璧な城壁を維持し続けるという、鉄のような使命感で力強く脈打っている。私は自然に、頬に「幸福」を象徴する最高の微笑を浮かべた。それはもはや仮面ではなく、私の覚悟そのものが結晶化した表情だった。
「おかえりなさい、ケンジさん。お疲れ様」
私は自信に満ちた、凛とした声で呼びかけた。 光に満ちた廊下を、自らが支配する城郭の王妃として、堂々と夫を出迎えるために歩き出した。
併設されたラウンジのテラス席で、色とりどりの有機野菜とパスタを囲む。話題は他愛もない芸能人のスキャンダルや、同じ幼稚園の保護者の経済力への品定め、連れては夫たちへの、どこか自慢を含んだ愚痴。
「うちの主人、昨日も銀座で会食。帰ってきたのは三時よ。健康管理が大変だわ」 「わかるわ。うちも週末はゴルフ三昧で。たまには家族サービスをしてほしいものよね」
以前の私は、こうした虚飾に満ちた会話の輪が、嘔吐が出るほど苦痛だった。彼女たちの抱える「贅沢な不満」が、私がかつて抱えていた、むき出しの孤独の前ではあまりにも滑稽で、浅薄に見えていたからだ。
けれど、今は違う。私も同じように声を立てて笑い、適度に相づちを打ち、時には「完璧すぎる夫への、愛らしい愚痴」を即興で演じることさえできる。
「うちはケンジさんが几帳面すぎて。クローゼットのシャツのグラデーションまで気にするから、こちらが気を抜けないの」 「えー! サヤカさんのご主人、完璧なエリートなのにそんな一面があるの? 素敵だわ」
盛り上がる彼女たちを、私は少し冷めた視線で眺めながら、心の中で安堵の息を吐く。 (私はここに馴染んでいる。私は、何の影もない『普通の幸せな主婦』として、この世界に再構築されたのだ)
ランチを終え、幼稚園バスを待つバス停へと向かう。 定刻通りに現れた黄色いバスから、エネルギーの塊のような子供たちが溢れ出してきた。
「ママー!」
真っ先に私を見つけ、腕を広げて駆けてくるヨウタ。私は膝をついてアスファルトに降り、その小さな、温かい体躯を力いっぱい受け止めた。 「おかえり、ヨウタ! 今日は何が一番楽しかった?」 「おすなばで、パパのお城をつくったんだよ!」
汗と、砂と、太陽の匂いが混じり合う息子の首筋に顔を埋めながら、私は誓う。この子の笑顔のためなら、私は何度でも嘘をつく。この純粋な瞳を曇らせないためだけに、私は強くあらねばならない。
帰りに立ち寄ったスーパーの、冷房が効いたお菓子売り場。 「ママ、これ買って! おねがい!」 キャラクターが描かれた、毒々しい色彩のチョコレート。ヨウタが期待に満ちた目で私を見上げてくる。
私は一瞬、その輝く瞳に負けそうになったが、即座に「理想の母親」のスイッチを入れた。 「今日はダメよ、ヨウタ。おうちに無添加のクッキーがあるでしょう? 身体にいい方を食べようね」 「えー、やだ! これがいいの! これじゃなきゃやだー!」
ヨウタが床を蹴り、声を張り上げる。周囲の客の視線が、刃のように私に突き刺さる。けれど、ここで折れることは「完璧な教育」の放棄を意味する。 「ダメなものはダメ。わがままを言うなら、もう一緒にお買い物には来ません」
私は努めて低く、感情を排した声で言い放った。ヨウタは唇を震わせ、大きな瞳に涙を溜めて、折れた花のようにしょんぼりと俯いた。その小さな、無力な背中を見るのは、私の心臓を素手で握りつぶされるように辛い。
けれど、これもまた愛なのだ。彼が将来、父のような勝者として生き抜くために必要な「自制」を教える、痛みを伴う愛なのだ。私は鉄の意志で彼の手を引き、レジへと向かった。
午後八時。ヨウタを清潔なリネンの香りに包まれたベッドへ寝かしつけ、リビングに戻った私は、深く、長い溜め息を吐いた。一日のタスクは、すべて完遂された。
洗面台の前で、私は今日という一日を共に戦った「完璧な妻」のメイクを、クレンジングオイルで丁寧に落とし始めた。オイルが体温で溶け、肌の上で乳化していくたびに、一日中貼り付けていた仮面が剥がれ落ち、ドロリとした本音が露出していく。素顔に戻った私は、高級美容液を肌に叩き込みながら、鏡の中の自分を凝視した。
そこに映っているのは、昼間の太陽のような輝きを失い、どこか深く、底の見えない淵のような瞳をした女だ。
(幸せ? ええ、これ以上ないほど幸せよ) 鏡の中の私に、心の中で強く言い聞かせ、暗示をかける。 最高級のマンション。非の打ち所のない夫。天使のような息子。誰もがひれ伏すような、完璧な人生。あの地獄のような、無機質な日々から、私は自力で這い上がったのだ。自らの意志で、この光あふれる城郭を再建したのだ。
(……本当に?) 朝、感じたあの小骨のような違和感が、またチクリと喉を刺す。私は無意識に、左の耳たぶに指を添えた。そこには、あの男の――熱く、卑猥な指先の感触が、呪印のように焼き付いているような錯覚に陥る。
「……っ」 私は激しく首を振り、その汚らわしい記憶を排水溝へと押し流すようにイメージした。考えるな。今のこの平穏こそが真実であり、正義なのだ。それ以外は、取るに足らない悪夢なのだ。私は化粧水を両手で顔に押し当て、鏡の中の、一瞬だけ揺らいだ女を叱咤するように呟いた。 「これでいいの。今の幸せを守り抜くためなら、私は……」
そのためになら、どんな巨大な嘘だって一生つき通してやる。秘密は、永遠に封印し、私の血肉の一部として隠し通す。 「……墓場まで、持っていけばいいだけだわ」
その言葉は、かつては自分を縛り上げる冷たい鎖だった。けれど、今は違う。 私は鏡の中の自分と、真っ直ぐに視線を合わせた。そこにいるのは、何かに怯える犠牲者ではない。自らの手で運命を操り、愛する家族という「作品」を守り抜くと決意した、冷徹で強靭な城主の顔だった。 (そうよ。私はもう、あの頃の無力な女じゃない)
泥沼の中で、私は一度死に、そして「母」として再誕したのだ。この完璧な家庭は、誰かに与えられた恩寵ではない。私が嘘を重ね、罪を糧にして、力づくで守り抜くと決めた不落の城なのだ。秘密も、裏切りも、すべては、この究極の幸福というパズルを完成させるための、欠かせない影のピースに過ぎない。
ガチャリ、と重厚な玄関の扉が開く音がした。 ケンジが帰ってきた。
私の心臓は、もう恐怖で震えることはない。代わりに、愛する夫を迎え入れる甘美な喜びと、この完璧な城壁を維持し続けるという、鉄のような使命感で力強く脈打っている。私は自然に、頬に「幸福」を象徴する最高の微笑を浮かべた。それはもはや仮面ではなく、私の覚悟そのものが結晶化した表情だった。
「おかえりなさい、ケンジさん。お疲れ様」
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