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第三話:理想の対掌
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夫・ケンジという存在を、異性としての輪郭を持って初めて意識したのは、私が新卒という名の「未熟な歯車」として巨大な組織に入り込んだ、あの春のことだった。
同じ大学の先輩と後輩という、ありふれた紐付きこそあったものの、当時の私にとって彼は「雲の上の存在」などという陳腐な表現では収まりきらない、決定的に種類の違う生き物のように見えていた。
彼は、感情という名のノイズを排し、純粋な論理と成果だけで世界を彫琢していく、選ばれし人種だった。
二十五歳の時。 社運を賭けた大規模プロジェクトに、私が幸運にもアサインされたあの日、初めて彼と言葉を交わした瞬間の衝撃を、私は今でも細胞の一つひとつが覚えている。
彼は私とわずか三つしか歳が離れていない。それなのに、まとっている大気の密度が、周囲とは決定的に違っていた。
会議室の重厚な空気の中で、彼は常に三手先、いや、五手先までを精緻に読み切り、盤面を支配する冷徹なチェスプレイヤーだった。彼が発する言葉は、研ぎ澄ませたクリスタルのように硬質で無駄がなく、それでいて聴く者の知性に深く浸透する美しい響きを持っていた。
同席していた同僚の男性たちが、まるで遊び半分で仕事をしている未熟な子供に見えてしまうほど、彼の「プロフェッショナル」としての完成度は群を抜いていた。
正直なところ、私ごときが軽々しく話しかけて良い相手ではないとすら思った。彼と視線を合わせることさえ、自分の凡庸さを暴かれるようで恐ろしかった。
けれど、同じチームに配属されたことで、私たちは必然的に膨大な時間を共有することになった。
「サヤカ、例の資料の件だが、ランチミーティングで詰めようか。十五分で済ませたい」 「はい、承知いたしました。すぐに準備します」
昼食を摂りながらの打ち合わせは、私にとって極度の緊張と、それ以上の、痺れるような高揚感をもたらす時間だった。
普段はカミソリの刃のように鋭く、一切の妥協を許さないケンジだが、私が必死に彼の背中を追い、期待以上の成果を提示した時には、氷が解けるようにふっと表情を緩めてくれた。
「いい視点だ。そこまでデータを読み込んでくるとは思わなかった。……助かるよ、サヤカ」
その、温度の低い、けれど確かな称賛の一言が、当時の私にはどんな高級な宝石よりも眩く見えた。彼の役に立ちたい、彼の思考のスピードに一瞬でもいいから追いつきたい。その狂おしいまでの向上心が、私を仕事という名の宗教に没頭させた。
当時、私には学生時代から付き合っている恋人がいたから、ケンジへの感情がすぐに卑俗な恋愛に結びつくことはなかった。けれど、私は無意識のうちに、オフィスの雑踏の中で彼の広く、揺るぎない背中を目で追っていた。そこには、私が渇望してやまない「強さ」と「正解」が、確かに存在していたから。
転機が訪れたのは、二十七歳の冬、街が華やかなイルミネーションで彩られていた頃だった。 五年付き合っていた彼――トモヤから、プロポーズされたのだ。
「サヤカ、俺と結婚してほしい。今はまだ不安定だけど、この作品が認められたら、絶対に夢を叶えるから」
彼はフリーのカメラマンだった。夢という名のアヘンに酔い、ファインダー越しに世界を切り取るその純粋な姿に、かつての私は惹かれていた。
けれど、「結婚」という現実的な契約の文字が目の前に提示された瞬間、私の脳内で冷徹な計算機が、音を立てて作動した。
愛という名の情緒だけで、明日の生活は回らない。夢という名の不確かな燃料だけで、子供は育てられない。
私は何日も、胃を焼くような思いで悩み抜き、結果、別れを選んだ。 「ごめんなさい。私、あなたの夢を一緒に背負うほど、強くないの。……未来が、見えないのよ」
泣きながら私の足元にすがる彼を振り切ったあの夜、私の心は引き裂かれるように痛んだ。五年間という月日を「なかったこと」にする罪悪感。けれど、私は自分自身の人生という名のプロジェクトに対して「誠実」でありたかった。
曖昧な夢に酔うのではなく、確かな現実を見つめ、石を積むように堅実に歩むこと。それが、厳格な教育を施してきた両親の期待に応える道であり、逃れられない私の性分だったのだ。
独り身になった私は、傷口から流れる血を仕事で止めるように、以前にも増してケンジの背中を追い続けた。 そして、大規模プロジェクトが無事に完了し、莫大な利益をもたらした夜の打ち上げ。それがすべての始まりだった。
リーダーとして成功を収め、ようやく重圧から解放されたケンジは、珍しく酒が進んでいた。二次会の喧騒をすり抜け、ホテルの最上階にあるバーのカウンターで二人きりになった時、彼は琥珀色の液体が入ったバカラのグラスを揺らしながら、ぽつりと零した。
「……実は、怖かったんだ」 「え?」 私は耳を疑った。あの、常に全能感を纏っているケンジが、弱音を吐くなんて。
「今回のプロジェクト、一度だけ致命的な判断ミスをしそうになった。もしあの時、君が僕の死角を補うデータを出してくれなかったら、今頃僕は、キャリアのどん底にいただろう」
彼は自嘲気味に苦笑しながら、私の方を向いた。その瞳は、いつもの冷徹な指揮官のものではなく、一人の等身大の、孤独な青年のものだった。
「ありがとう、サヤカ。君がいてくれて、本当によかった」
その瞬間、遥か彼方の銀河にある恒星のようだった彼の存在が、急速に重力を持って近づいてくるのを感じた。完璧に見える彼もまた、暗闇の中で迷い、傷つきながら戦っている人間なのだ。
斜め後ろから見上げていただけの距離が、隣に座って互いの体温を微かに感じられる距離へと縮まった、運命の夜だった。
それから、私たちが「上司と部下」という強固な枠を超えるのに、時間はかからなかった。 お互いに独身であり、仕事という名の共通言語を持っている気安さもあり、仕事帰りに隠れ家のようなレストランへ行く回数は増えていった。
「サヤカの考え方は、地に足がついていて好きだな。僕の論理を、君の現実感覚が補完してくれる」 「ケンジさんこそ。常に揺るがないその強さを、私は心から尊敬しています」
尊敬が親愛に変わり、親愛が熱を帯びた、出口のない恋情へと変わっていく。 それは、複雑なジグソーパズルの最後のピースが、音もなく、完璧な位置にはまっていくような、美しく必然的な流れだった。
同じ大学の先輩と後輩という、ありふれた紐付きこそあったものの、当時の私にとって彼は「雲の上の存在」などという陳腐な表現では収まりきらない、決定的に種類の違う生き物のように見えていた。
彼は、感情という名のノイズを排し、純粋な論理と成果だけで世界を彫琢していく、選ばれし人種だった。
二十五歳の時。 社運を賭けた大規模プロジェクトに、私が幸運にもアサインされたあの日、初めて彼と言葉を交わした瞬間の衝撃を、私は今でも細胞の一つひとつが覚えている。
彼は私とわずか三つしか歳が離れていない。それなのに、まとっている大気の密度が、周囲とは決定的に違っていた。
会議室の重厚な空気の中で、彼は常に三手先、いや、五手先までを精緻に読み切り、盤面を支配する冷徹なチェスプレイヤーだった。彼が発する言葉は、研ぎ澄ませたクリスタルのように硬質で無駄がなく、それでいて聴く者の知性に深く浸透する美しい響きを持っていた。
同席していた同僚の男性たちが、まるで遊び半分で仕事をしている未熟な子供に見えてしまうほど、彼の「プロフェッショナル」としての完成度は群を抜いていた。
正直なところ、私ごときが軽々しく話しかけて良い相手ではないとすら思った。彼と視線を合わせることさえ、自分の凡庸さを暴かれるようで恐ろしかった。
けれど、同じチームに配属されたことで、私たちは必然的に膨大な時間を共有することになった。
「サヤカ、例の資料の件だが、ランチミーティングで詰めようか。十五分で済ませたい」 「はい、承知いたしました。すぐに準備します」
昼食を摂りながらの打ち合わせは、私にとって極度の緊張と、それ以上の、痺れるような高揚感をもたらす時間だった。
普段はカミソリの刃のように鋭く、一切の妥協を許さないケンジだが、私が必死に彼の背中を追い、期待以上の成果を提示した時には、氷が解けるようにふっと表情を緩めてくれた。
「いい視点だ。そこまでデータを読み込んでくるとは思わなかった。……助かるよ、サヤカ」
その、温度の低い、けれど確かな称賛の一言が、当時の私にはどんな高級な宝石よりも眩く見えた。彼の役に立ちたい、彼の思考のスピードに一瞬でもいいから追いつきたい。その狂おしいまでの向上心が、私を仕事という名の宗教に没頭させた。
当時、私には学生時代から付き合っている恋人がいたから、ケンジへの感情がすぐに卑俗な恋愛に結びつくことはなかった。けれど、私は無意識のうちに、オフィスの雑踏の中で彼の広く、揺るぎない背中を目で追っていた。そこには、私が渇望してやまない「強さ」と「正解」が、確かに存在していたから。
転機が訪れたのは、二十七歳の冬、街が華やかなイルミネーションで彩られていた頃だった。 五年付き合っていた彼――トモヤから、プロポーズされたのだ。
「サヤカ、俺と結婚してほしい。今はまだ不安定だけど、この作品が認められたら、絶対に夢を叶えるから」
彼はフリーのカメラマンだった。夢という名のアヘンに酔い、ファインダー越しに世界を切り取るその純粋な姿に、かつての私は惹かれていた。
けれど、「結婚」という現実的な契約の文字が目の前に提示された瞬間、私の脳内で冷徹な計算機が、音を立てて作動した。
愛という名の情緒だけで、明日の生活は回らない。夢という名の不確かな燃料だけで、子供は育てられない。
私は何日も、胃を焼くような思いで悩み抜き、結果、別れを選んだ。 「ごめんなさい。私、あなたの夢を一緒に背負うほど、強くないの。……未来が、見えないのよ」
泣きながら私の足元にすがる彼を振り切ったあの夜、私の心は引き裂かれるように痛んだ。五年間という月日を「なかったこと」にする罪悪感。けれど、私は自分自身の人生という名のプロジェクトに対して「誠実」でありたかった。
曖昧な夢に酔うのではなく、確かな現実を見つめ、石を積むように堅実に歩むこと。それが、厳格な教育を施してきた両親の期待に応える道であり、逃れられない私の性分だったのだ。
独り身になった私は、傷口から流れる血を仕事で止めるように、以前にも増してケンジの背中を追い続けた。 そして、大規模プロジェクトが無事に完了し、莫大な利益をもたらした夜の打ち上げ。それがすべての始まりだった。
リーダーとして成功を収め、ようやく重圧から解放されたケンジは、珍しく酒が進んでいた。二次会の喧騒をすり抜け、ホテルの最上階にあるバーのカウンターで二人きりになった時、彼は琥珀色の液体が入ったバカラのグラスを揺らしながら、ぽつりと零した。
「……実は、怖かったんだ」 「え?」 私は耳を疑った。あの、常に全能感を纏っているケンジが、弱音を吐くなんて。
「今回のプロジェクト、一度だけ致命的な判断ミスをしそうになった。もしあの時、君が僕の死角を補うデータを出してくれなかったら、今頃僕は、キャリアのどん底にいただろう」
彼は自嘲気味に苦笑しながら、私の方を向いた。その瞳は、いつもの冷徹な指揮官のものではなく、一人の等身大の、孤独な青年のものだった。
「ありがとう、サヤカ。君がいてくれて、本当によかった」
その瞬間、遥か彼方の銀河にある恒星のようだった彼の存在が、急速に重力を持って近づいてくるのを感じた。完璧に見える彼もまた、暗闇の中で迷い、傷つきながら戦っている人間なのだ。
斜め後ろから見上げていただけの距離が、隣に座って互いの体温を微かに感じられる距離へと縮まった、運命の夜だった。
それから、私たちが「上司と部下」という強固な枠を超えるのに、時間はかからなかった。 お互いに独身であり、仕事という名の共通言語を持っている気安さもあり、仕事帰りに隠れ家のようなレストランへ行く回数は増えていった。
「サヤカの考え方は、地に足がついていて好きだな。僕の論理を、君の現実感覚が補完してくれる」 「ケンジさんこそ。常に揺るがないその強さを、私は心から尊敬しています」
尊敬が親愛に変わり、親愛が熱を帯びた、出口のない恋情へと変わっていく。 それは、複雑なジグソーパズルの最後のピースが、音もなく、完璧な位置にはまっていくような、美しく必然的な流れだった。
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