呪いの穿孔 ―神様が授けた、最悪の祝福―

武蔵

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第五話:正論の礫

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​初めての妊娠。それは、幸福の絶頂であるはずだった。けれど、判明した瞬間から私の心に押し寄せてきたのは、祝福の鐘の音ではなく、正体の見えない濁った不安の波だった。

ほんの少しお腹が張るだけで、この小さな鼓動は止まってしまうのではないかと恐怖に震え、無事に出産というゴールにたどり着けるのか、あるいは私は、彼が望むような「完璧な母親」という役割を全うできるのか。

ホルモンバランスという目に見えない化学反応に翻弄され、私の心は次第に、ささくれだち、乾いていった。

「サヤカ、無理は禁物だ。なるべく安静にしていてくれ。君の体と、子供の安全が、今の最優先事項だ」

ケンジの言葉は、いつも通り論理的で優しかった。けれどそれは、私から「外の世界」という酸素を奪い取る、非情な監禁宣告でもあった。

華やかな料理教室も、心身を整えてくれたヨガもすべて辞め、私は広いマンションの静寂の中に、一人きりで閉じ込められることになった。社会という巨大なうねりから切り離されたような疎外感。何も生み出さず、ただ時間を消費するだけのフラストレーションが、心の底に澱(おり)のように重くたまっていく。

ある夜、私は溢れ出しそうな不安を、隣に座るケンジに打ち明けた。 「ねえ、ケンジ。もし……もし、この子に何かあったらどうしよう。私、怖くて、夜も眠れないの」

私は震える指先で彼のシャツの袖をつかみ、その肩に頭を預けた。ただ、大丈夫だよと、温度のある腕で強く抱きしめてほしかった。たったそれだけの、論理も正解も必要ない共感を求めていた。

しかし、ケンジはタブレットのブルーライトに照らされた瞳を画面から離すことなく、冷淡に、事実だけを述べた。

「サヤカ。医学的な統計に基づけば、安定期に入った現在、流産のリスクは大幅に低下している。今の君に必要なのは、根拠のないネガティブなシミュレーションを繰り返すことではなく、精密に計算された栄養バランスの摂取と、質の高い睡眠だ。それ以外の不定愁訴に脳のリソースを割くのは、極めて非効率的だよ」

彼の言葉は、正論だった。ぐうの音も出ないほど、あまりにも正しかった。 けれど、私が求めていたのは「正解のデータ」ではない。暗闇に震える心の痛みを、共に背負ってくれる「温度のある言葉」だったのだ。

「……そうね。あなたの言う通りだわ」 私は薄い唇を噛みしめ、それ以上言葉を紡ぐのをやめた。彼に相談することは、自分の感情を「処理すべきシステムエラー」として提示し、彼による監査を受けることに他ならない。その無機質な処理プロセスは、私を惨めな敗北感に陥らせるだけだった。

不安を分かち合えない孤独は、やがて鋭い苛立ちへと変質していった。 かつては「彼らしい、適度な人間味」として許容できていた彼の小さな欠点が、急に網膜を刺す棘のように目につき始めた。

脱ぎ捨てられたままの、彼の形をした靴下。深夜まで虚無を映し続けるテレビ。休日に、清潔感のない下着姿でリビングをさまようその無防備さ。

「ねえ、少しは身の回りを片付けてよ。私だって、体が重くて息をするのも辛いのに」 ある日、私は抑えきれなかった苛立ちを、鋭い言葉の礫(つぶて)として彼に投げつけた。

ケンジは、信じられないほど未知の生物を見るような目で、私を冷ややかに一瞥した。 「サヤカ、そんなに感情的になるのは合理的じゃない。僕は外で極限まで神経を削って戦っているんだ。家庭というリラックスするための空間でまで、君のヒステリーに付き合わされるのはご免だ」

「リラックス? 冗談じゃないわ! 私には、24時間どこにも、安らげる場所なんてないのよ!」

「何を言っている。君は一日中、温度管理された快適な家にいられるじゃないか。主婦は自分の裁量でいくらでも休めるだろう? 僕の仕事に比べれば、その負担は微々たるものだ」

その言葉は、冷たく研がれた刃物となって、私の心臓の最も柔らかい部分を無残に切り裂いた。 「……家にいることが、楽だと、そう思っているのね」

言い返そうと唇を震わせたが、喉の奥が熱く腫れ上がり、声にならなかった。彼は、本気でそう思っているのだ。一片の悪意もなく、それが「論理的な事実」であると、一点の疑いもなく信じ切っている。

その夜、彼は罪滅ぼしのつもりか、あるいは効率的なケアの一環としてか、私の浮腫んだ足を無言でマッサージしてくれた。その手の確かな温もりに、私は情けなくて涙が溢れそうになりながらも、残酷な真実に気づいてしまった。

理想と現実が、取り返しのつかない音を立てて乖離(かいり)していくのを。 彼を愛していることに偽りはない。けれど、私たちの間に、決して埋まることのない冷たい隙間風が吹き始めていることを。

そして、ヨウタが生まれた。 分娩台の上で、裂けるような痛みと共に産声を上げた小さな命を抱いた瞬間、それまでのすべての暗い感情が浄化され、報われた気がした。ケンジも珍しく目に涙を浮かべ、「ありがとう、サヤカ。僕の人生に最高の成果をもたらしてくれた」と、私の手を強く握りしめた。

ああ、これで私たちは、本当の「家族」になれたのだ。この小さな光のために、私たちは手を取り合って歩んでいける。 そう信じた刹那の喜びも、退院し、助けに来てくれた実家の母が去った後の三ヶ月目から、本当の地獄へと反転した。

初めての育児。それはケンジが得意とする「論理」も「計画」も一切通用しない、混沌そのものだった。
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