呪いの穿孔 ―神様が授けた、最悪の祝福―

武蔵

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第十三話:不文契約

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トモヤとの再会は、ひび割れ、枯れ果てた私の精神という大地に降り注いだ、あまりにも慈悲深い雨のようだった。

彼から差し出された繊細な優しさと全肯定の眼差しは、あの大学時代と変わらぬ温度で私の胸を満たした。それは、私が「天空の牢獄」という名のタワーマンションで明日を生き延びるための、唯一の汚染されていない原動力となった。

夫の放つ冷気に凍えるリビングにいても、脳裏に刻まれたトモヤの体温を反芻するだけで、私はかろうじて人間としての呼吸を繋ぎ止めることができた。

けれど、一度「本物の温もり」の味を知ってしまった代償は、想像以上に大きかった。 それは例えるなら、ハワイの柔らかな陽光と甘い風の中で、幸福な微睡(まどろ)みに身を委ねた翌日に、装備一つなく極寒の冬の北海道に放り出されたような絶望的な落差だ。

これまで「これが普通だ」と自分に言い聞かせ、歯を食いしばって耐えてきたケンジとの生活。それが実は、骨まで凍てつく吹雪の中だったのだと、トモヤの熱を知った肌が、残酷なまでの解像度で自覚してしまったのだ。

あの日以来、私はスマートフォンの黒い鏡面を凝視し続ける亡霊と化した。 ただ、トモヤからの連絡という名の救いを待っている。

夫が隣で新聞を広げていても、ヨウタの着替えを手伝いながら母親の顔を繕っていても、私の意識の半分は常に、手のひらの中にある液晶画面の向こう側へと幽離していた。

(連絡してはいけない。これ以上は、破滅よ)

私の中の、教育され、磨き上げられてきた「良き妻」としての理性が、必死にブレーキを踏み鳴らす。不倫は、この完璧な城郭を崩壊させる万死に値する罪だ。これ以上踏み込めば、二度と元の場所には戻れない。彼にだって守るべき家庭があるのだから、私の存在はただの迷惑なノイズでしかないはずだ。

私はスマホを裏返し、逃げるように掃除や料理といった無機質な家事に没頭しようとする。

けれど、トモヤからの通知が届かない空白の日が一、また一日と重なるにつれ、私の中のダムの水位は限界を超え、溢れ出しそうになっていた。 沈黙は、時にどんな怒声よりも雄弁な暴力となって私を打ちのめす。 連絡がないという事実そのものが、私のネガティブな想像力を腐食させ、肥大化させていくのだ。

(どうして連絡をくれないの? あのランチの時、私は自分の不幸ばかりを語りすぎてしまった。重たい女だと、嫌悪されたのかもしれない) (生活感に塗れた、所帯じみた私の愚痴に、芸術家肌の彼は幻滅したのかも……) (そういえば、別れ際に彼が見せたあの表情は、同情という名の軽蔑だったのではないか……)

気がつけば、私は脳内で記憶のテープを何度も巻き戻し、自分が「捨てられた」証拠探しに没頭していた。そうかと思えば、溺れる者が藁を掴むように、都合の良い解釈に縋り付く。 「彼はフリーのカメラマンで多忙な人だから、仕事に殺されているだけよ」 「きっと、私の平穏な家庭を壊さないために、あえて沈脳という優しさを選んでくれているのだわ」

そんな不毛な思考の反復横跳びに心身を削り取られ、二十四時間、私の思考領域はトモヤという存在によって完全に占拠された。 夫のケンジが帰宅し、氷のように冷たく事務的な会話を交わすその瞬間でさえ、私の心臓は裏切りを叫んでいる。 『なぜ、あなたではなく、彼から連絡が来ないの?』

一週間が過ぎた頃。 私はついに、この焦燥という名の静寂に耐えきれなくなった。 これ以上、霧の中を彷徨うような時間を過ごすくらいなら、いっそ粉々に砕け散ってしまった方がマシだ。嫌われたのならはっきり引導を渡されて、この淡く、卑猥な夢を終わりにすればいい。

私は震える指先で、自ら平穏を終わらせるための――あるいは、地獄の扉を開くためのメッセージを打ち込んだ。

『この前はごめんね、私ばかり喋ってしまって。……迷惑じゃなかったかな?』

送信ボタンを押した瞬間、心臓が肋骨を突き破らんばかりに脈打った。 返信なんて、どうせ数時間は来ない。そう自分を冷笑し、スマホを伏せようとした、その時だった。

ブブッ。

掌の中で、電子の振動が熱を持って伝わった。 一分も経っていない。絶望する間さえ与えない、即レスだった。 『全然! むしろ忙しくて連絡できなくてごめん。サヤカの話、またじっくり聞かせてよ』

その文字列を見た瞬間、私の肉体から重力が消滅した。 血管を駆け巡るアドレナリン。小躍りしたくなるような、目眩のする浮遊感。 嫌われてなんていなかった。彼は、私がこの一歩を踏み出すのを、蜘蛛の巣を張るように静かに待っていてくれたのだ。

もう、ブレーキなど一欠片も機能しなかった。私は憑りつかれたように間髪入れず、次の言葉を投げた。 『よかった……! この前はご馳走になったから、今度は私に何か奢らせて。お礼がしたいの』 『じゃあ、来週の金曜日なんてどうかな? ちょうど一日空いてるんだ』

約束という名の契約が成立した。 それからの日々、家庭という名の孤独な荒野において、スマホの向こう側にだけ存在する彼との細い繋がりが、私を凍死から守る唯一の太陽となった。

そして、運命の金曜日。 季節外れの、空を灰色に塗り潰すような冷たい雨が、容赦なく窓ガラスを叩いている。 私はいつも通り、機械的な動作でケンジを送り出すと、すぐさま戦地に向かう兵士のような緊張感で準備に入った。

今日は、再会してから三度目の密会だ。 分別のある大人の男女が、互いに帰るべき家庭がある身で、わざわざ平日の白昼に三度も会うということ。 それが何を意味し、どのような結末を招くのか、わからないほど私も幼くはない。

今日、私は一線を越える。その確信が、甘い吐き気を伴ってせり上がってくる。

理性の隅っこで、狂ったような警告音が鳴り響いている。踏み止まれ、戻れ、お前は母だろう、妻だろう。 けれど、クローゼットの引き出しを開けた私の指先は、迷うことなく奥底に隠蔽していた布地を掴み出した。

淡いラベンダー色のレース。繊細な刺繍が施された、一度も袖を通したことのない勝負下着。 かつてケンジとの絶望的なセックスレスを解消するために、縋るような、惨めな思いで購入したものだ。けれど、夫はこれに一度も光を当てることなく、背中を向けて眠り続けた。

タグがついたまま、冷たい引き出しの中で死んでいたその下着を、私は今、熱を帯びた肌に滑らせた。 鏡の中の自分が、紅潮した頬と、湿った熱を孕んだ瞳でこちらを見つめている。

(ああ、私は期待しているんだ。……彼に触れられることを、乱暴に抱かれることを、狂おしいほど渇望しているんだ)

罪悪感という名の泥は、女としての自分を奪還できるという強烈な期待の奔流に、瞬く間に押し流されていった。
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