海のシンバル

久々原仁介

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第2話 息をする、白

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正午から始まった秋山さんの取材は、十四時を過ぎたあたりで一旦区切りがついた。

 待ち合わせ場所だったダイニングカフェは、僕たちの他に客はいなかった。遅め昼食を摂っていると、変に食器とスプーンがぶつかる音が耳に障った。

「……さっき、ウェブライターとおっしゃってましたが、普通の記者とは違うのでしょうか」 

 秋山さんは最後の一口だったパエリアを飲み込むと、「よく訊かれるんですよ」と、一呼吸置いた。

「磯辺さんの言う記者というのは会社に勤めているライターのことですよ。わたしの場合は、インターネットで個人的に記事を書いて広告収入を得たり、出版社と契約して雑誌の記事を書かせてもらったりって感じですかね」

 秋山さんはそこまで話すと、力のない笑顔を向けてきた。

「けどウェブライターとしての仕事は、これで最後になるかもしれません。一週間くらい前に、契約していた週刊誌に切られてしまいまして……」

 相手に不快な思いをさせまいと秋山さんは明るく努めていた。しかしテーブルの上で握りしめられた彼女の拳が、諦めきれていないことを訴えている。

「ウェブの広告収入だけで、生活できるとは思ってませんから。だから、ここへは取材ってより一人旅のつもりできたんです」

 秋山さんは、オレンジブラウンの唇をやわらかく結んだ。僕は、自分のかたい唇を舌で触って、彼女の方が年下なのだとなんとなくわかった。

「梶栗郷まで来たのは仕事じゃないんですか」
「ルポルタージュの、個人的なウェブ記事はつくるつもりですけど、雑誌に掲載はされないので。それに、ドライブ好きなんですよ。わたし」
「ああ、それなら山陰はうってつけですよ。道も広いし、綺麗に補装してありますから」
「そうですよね。東北自動車道と違ってガタガタしませんし」

 そんな遠くからいらしたんですねと声に出した気でいたが、ふと気づくと僕は何も口に出せなかった。

 空いてしまった間を誤魔化すように、ぬるいコーヒーに口をつける。

 暖房がきいているおかげでいくらか温かいが、窓際に置いていた右手はすっかり冷えていた。

 外を覗くと、大きな牡丹雪が降っている。

「こっちの雪は、なんだかべちょってしてますよね」

 秋山さんは同意を求めようと会話を振ってきたが、それに何とも答えなかった。

 僕が知っている雪というのはやはり、梶栗郷に降るこの不格好に膨れた結晶のことで、それ以外の雪を知らなかった。

 カップをソーサーに置いたらカチンと鳴る。背もたれに体重をかけると椅子が軋む。秋山さんが僕を注意深く観察していた(僕にはそのように感じた)。早くこの店から、彼女の前から消え去りたくなった。

 お互いカップの中身が空になっても、秋山さんからの『ピシナム』に関する質問は続いた。

 僕はそれらの質問に、会話のようなものを取り繕ってやりすごした。自分の中で、圧倒的な何かが変わっていた気がして、それを上手く表現できなかった。

 伝わらないことは怖いことだから、それを秋山さんに知られまいと、貝のようにカラダを小さくしていた。

「磯辺さん、今日はありがとうございました」
「いえ……こちらこそ」

 秋山さんは名残惜しそうにしていたが、最後の彼女はほとんどメモを取っていなかった。僕が座ったままカーキーのモッズコートに腕を通していると、ブラウンのチェスターコートを羽織った秋山さんがじっと僕の顔を見ていた。

「磯辺さんさえよかったら、連絡先を交換しませんか? わたし、もっとホテルの話聞きたいかもしれません」
「いや実は、携帯電話をもってないんですよ」

 秋山さんがそれとなく訊いてきたから、僕もそれとなく断った。

 下手な嘘に、秋山さんは怒るよりも落ち込んでいた。

「そうですか……。連絡先はお渡しした名刺に書いてあるので、気が変わったらいつでもご連絡ください。とは言っても、今日でここを発つんですけど」
「……なんだか、急な話ですね」
「急と言っても、二泊三日はしたんですよ」
「帰るんですか」
「そうですね。一度、実家のある岩手に」
「……そうですか」

 相槌は何を肯定するわけでもない。秋山さんは何かを喉元まで出しかけていたようだが、その前に席を立った。

 会計を終えて外に出ると、やはりちらほらと雪が降っている。歩くと足あとが残るくらいには、うっすらと雪が積もっていた。

 なんとなしに、靴底からカラダが冷えていく気がした。

「磯辺さんは、車ですか?」
「いや、歩いて駅まで」
「よかったら、駅まで送りましょうか?」

 嘘みたいな善意が痛くて、そっと目を背けた。

「……近いですから、自分で、歩いて帰ります」

 秋山さんから声をかけられると、何かに追いつかれそうになって、僕はそれを頑なに遠ざけた。

 自分はすでに歩き始めていた。なんと別れの挨拶をしたのか記憶にない。歩いて、歩いている分だけ秋山さんとの距離が離れていった。

 ときおり振り返って、小さくなる秋山さんの背中を確認した。おそらくこの人とは会うことはないんだろうと思って、襟に顎を埋めた。

 僕は、秋山さんに『ピシナム』の話をしたことを後悔していた。ずっと大事にしていたワインを我慢できずに空けてしまったあとのようだった。

 線路沿いに出ると、ライトイエローの電車が若干や線路に積もった雪をすりつぶしながら走っていた。あんな大きな乗り物を使っても、きっと僕はどこにも帰れなかった。

 自然と足は線路沿いを下って、梶栗郷へと向いていた。

 一つの足音もない雪道は、その上を歩く僕をどうしようもなく不安にさせる。

 追い越す人影がいくつかあった。僕はそれを数えて、ひとりひとり覚えていた。そのほとんどが高校生だった。

 誰もが家に帰るなか、自分だけが別の場所へと歩いている。

 不意に、セーラー服に厚手のカーディガンを羽織った女子高生が脇をすり抜けた。その女子高生だけは走って僕を追い越した。金魚の尾ひれのような胸元の赤いスカーフが、視界を泳いだ。

 左の頬を、つうーと指でなぞるみたいに線が通った。雪だろうと思った。けれど頬を伝っているその一線だけが熱かった。

 手で顔を拭ったときにはもう乾いていたため、それが本当は何だったのか分からなかった。

 どっちつかずの僕を置き去りにして、カラダだけは『ピシナム』に行こうとしていた。
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