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第13帖 東京 昭和13年 でっち上げのスパイ団
しおりを挟む横須賀軍港は、軍港都市といわれるだけの人通りをあやなしていた。
人波もおびただしいく、陸の玄関横須賀駅の、降車口から吐き出される人の列には、熱気が込められていた。
横須賀軍港一帯は横須賀憲兵分隊の管内である。主要駅には憲兵が歩哨よろしく立ち、駅から降りる人々に厳しい目を向け、怪しい者がいないか見張っていた。
電車はひっきりなしに入って来る。電車を降りた人波は、改札口を過ぎ、やがて市電や市内に消える。
そんな人並みの中に足取り重い一人の女がいた。駅員に道を尋ねている。
すると駅員はうしろをふり向いて、何か憲兵を指差したようである。女は駅員に礼を述べた。
それから女は憲兵のそばまでやってきて、うやうやしくお辞儀した。そして弱々しく言った。
「憲兵隊に伺いたいのですが、お役所はどちらにあるのでしょうか」
元気のよい若い憲兵は、張り切って答えた。
「何か憲兵隊にご用がおありですか。用件ならわたしが承ってもよろしいが」
「いえ、主人がご厄介になっていますので、ちょっと」
女そう言うと、うつ伏した。
30分後、若い憲兵はこの女を連れ立って、横須賀憲兵分隊の門をくぐった。分隊はずっと町はずれの深田町、段々山の山裾にあった木造の建物だった。
◆
ここ数日前から、大がかりなスパイ団の情報が横須賀憲兵分隊に流れ込んでいた。
杉森曹長を班長とし、どしどし参考人を呼んで証拠固めを行っていたのである。そうしていたところ、3名の日本人が共謀して外国人に情報を流しているという。
横須賀だけではない。夏頃から、東京でも活動を始め、主として渋谷の道玄坂で何かやっているらしかった。さきの女は、このスパイの一味と見られた男の妻であった。男は民間からの密告を受けて、ここ横須賀憲兵分隊に留置されていたのである。
横須賀には海軍工廠がある。日本の海を守る海軍主要艦艇が生まれる場所であり、ここをスパイされると国防が脅かされる。
よって、何を探知されているかが問題だった。
横須賀と東京にスパイ団あり、の急報が東京憲兵隊本部に伝えられてきたとき、本部は色めきたった。
特高課長も外事課長も、敵がどうやって情報を得ているか気にしていた。それが海軍水兵からの情報入手であるか、あるいは工廠や軍需部からもたらされるものであるのか。いずれにしても日本人がスパイに協力していることになる。
憂慮すべき事態であったが、本部では同時にこの情報を疑いもしていた。
それというのも当時、このくらいの時期ともなると、国民の間でも防諜意識は相当浸透しており、怪しい外国人から情報提供を求められればスパイと疑うくらいの意識があったからである。
だから東京憲兵隊本部では、スパイが精巧な写真機をもって横須賀で艦船のスパイをやっているとか、しばしばアメリカ人と渋谷の道玄坂で会っているとかいうのはどうもおかしいと思っていた。
そんな盛り場で外人が跳梁しているというのが事実であれば、東京憲兵隊の面目は丸つぶれだ。防諜のやり方を真剣に考え直さねばならない。
どうあれ真偽を確認すべく、横須賀憲兵分隊からの続報を首を長くして待っていた。
◆
さて、横須賀でのスパイ事件で、渋川中佐も、事、重大とみて注視していた。
この事件は、東京憲兵隊本部をへて憲兵司令部に報告された。
「戻りました」
その報告に赴いたのは、副官の乙倉憲兵曹長であった。
「おう、ご苦労」
「帰りすがら第3課長局にも通報しました。海軍でもこの事の成り行きに心配おりましたよ」
「東京のド真ん中でスパイ行為があったのならば大変なことだ。帝都でさえそうなら地方はどうなる。海軍さんも気を揉もう」
「これほどの行為が今まで明るみに出なかったのはおかしいですね。何かしら前兆があっても良さそうなものなのに……」
「そこでだ。司令部に意見具申しようと思う。このスパイ事件の経緯を知りたいから、横須賀憲兵分隊に人をやろうじゃないか」
「本部と分隊で合同の調査団を作るのですね。賛成です。今のまま分隊は分隊で、本部は本部で動いていてはまとまりに欠けます。さっそく書類を作って参ります」
さすがは副官である。渋川の言いたいことを瞬時に読み取ったらしい。
「ああ、待て。さすがにいきなりではいかんから折衝役をやらせよう。我が本部の外事特務をひとり派遣させるから、1週間くらいの間に書類を作成してほしい」
「分かりました」
◆
こうして東京の本部・横須賀の分隊が一致団結すべく、乙倉は案をまとめた。
外事特務とは外事課に勤務する憲兵を指し、外事課主任の野村憲兵少佐を横須賀にやって、このスパイ事件の全貌や見通しを聞かせておくことになった。
横須賀憲兵分隊に着いた野村は、さっそく捜査主任の杉森と出会う。杉森は得意そうに語り出した。
「いやあ、わざわざ東京からお疲れ様です」
「調子はどうかね」
「それが大変ですよ。彼らはなかなか白状しません。相当に手ぎつい手段を用いておりますがね。それでも口を割らんのです」
たいへん得意気であった。
帝都を脅かすスパイ団を検挙したも同然なのだ。意気揚々と語る気持ちは、野村にも分かる。
「それで杉森君。この際だから事件解決には東京の本部と合同で当るのはどうかな」
「結構であると思います」
「話が早くていいじゃないか。まあ今日のところは外事警察上の連絡に過ぎないから、もし東京で協力することがあれば遠慮なく申し出てください。分隊としてももちろん協力いたします」
こうして野村は本部に心良い返事を持って帰ることになった。
◆
それから1週間あまりたち、書類が出来上がる頃、渋川は野村を呼び寄せた。
「そろそろ合同の捜査に移ろうと思うが、横須賀憲兵分隊との連絡を密にしておけよ」
「はあ、それが」
「何か歯切れが悪いな」
「それがその、横須賀からはこう言って来たのです。横須賀分隊の今の捜査段階では、これを東京に移すことは困難だ、と」
「ふうん。それはつまり我々本部にに功を横取りされることを嫌がって、そんなことをいってきたと感じたのであろう」
「恐らくは。本部と合同であれば、上部機関たる本部が司令塔となりますから。分隊は単なる使いっ走りになってしまうことを嫌がっているのだと思います」
「どうあれ司令官の命令として行うのだから、いかなる事情があろうとも犯人の身柄は至急東京に渡してもらうことになると思うがなあ。そのくらい分かっていると思うのだが」
「不満があればわたくしが行ったときに言うべきであると思うのです」
「それは同感だ。とにかく野村。すぐ身柄受領者として犯人を受け取って来い」
◆
東京隊では再び野村少佐を身柄受領にやった。ところが、野村がいってみると分隊内の空気はガラリと変わっており、もうほとんど事件を語らないし、歓迎されない客であることはすぐ知れた。
――何があったんだ。
まるで結婚式翌日に新郎も新婦も死んだかのような雰囲気である。
杉森は応対に出ず、代わって古参の曹長が言った。
「とにかく、いま2、3日すると一段落するので、こちらからお送りします」
そういうので野村は手持ち無沙汰でかえってきた。
◆
先方から送ってくるという以上は待つしかなかったが、渋川はこれはおかしいと感じた。
何かあるとにらんだが、しばらくこれを待つことにした。
5日もすると、午後5時近く横須賀から東京へ、ひとりの中年が送り込まれて来た。名を山口といい、逮捕した3名のうちとりあえずひとりを送るということで、あとの2人は取り調べが一応すんでから送るという。
野村を捜査の軸に添えることとし、渋川は山口にこう論した。 君が横須賀憲兵分隊で自供していることに嘘いつわりはないか。
山口はすぐさま答えた。
「絶対にありません。調書に述べているとおりです」
「そうか。だが、東京では横須賀での取り調べをおうむ返しに、もう一度くり返すのではない。全部を調べ直すのだから、もし嘘を言ってもすぐ分かる。言いたいことがあれば、ここではっきりと、そういってもらいたい」
「何も言うことはありません」
◆
間もなく夕暮れが迫る頃、野村が慌てて駆け込んで来た。
「大変です、大変です」
「何事だ」
「あの山口という男のしゃべることはまっかなウソでした。これまでのことは全くのデタラメで、苦痛に堪えかねて嘘をしゃべったというのです」
「ええっ。……そうすると、横須賀ではひどく痛い目に遭わせられていたというのだな」
「そうです。もう殺されると思ったというのです」
「それにしても、大ゲサじゃないかね」
「いや、実はわたしの方の手落ちもありましたが、彼のチョッキの裏には、かきおきが書いてあるというのです。彼を留置するとき、一応の身体検査はしたのですが、チョッキの裏まで見ませんでした。が、そこにはこれこのとおり」
野村少佐は一着のチョッキの裏を開いた。白いしま物の裏ぎれに「わたしはあくまで潔白だ、信じてくれ」と薄汚なく血のあとが見られた。
「なるほどね。すぐ取調室にその山口を出し給え。わたしが聞こう」
渋川は、野村を立ち会わせて、その山口なる男を直接尋問した。
「どうして、ここにきたとき初めからいわなかったのだ」
山口はビクビクしながら答える。
「あっちを出るとき、やかましく、ここで白状したとおりをいわないと、あとが恐ろしいぞといわれていましたので、よう、口から出ませんでした」
「では、どうして今ごろになって嘘だというのか」
「ここでは、理づめで攻めたてられるので、答弁が続かなかったのです」
横須賀憲兵分隊での事件は、こういう結論だった。
取り調べは杉森が一人で行った。いろいろ聞かれるが、心当たりもなく、知らぬ存ぜぬを通していた。すると道場に連れ込んで別の兵隊が、わたし(山口のこと)をたたいたり、責苦にかける。そして戻ってくると取り調べが始まる。
どういえば、この苦痛から逃れられるかと考えつづけていた。そんなときフト傍らにほご紙がおいてあってなにかいたずら書きがしてあるのが見えた。
そこには自供の文章が並んでいた。コレコレ、これをいうのだな、と思って、そのとおりいうと 「そうだろう。なぜ、そのように早くいわぬか」と杉森は上機嫌になった。
それを聞いた渋川は激怒した。
「つまり君は杉森の暗示誘導にかかって、心にもない作り話をしたというのだな」
「そうです。これを見てください」
山口は上衣を脱いだ。至るところに打撲によるしみが残っていた。
「ひどい話だ。こんな調べをしているのに、憲兵分隊長は何も言わなかったのか。憲兵だって大勢いるのに、なぜ、これを分隊長の耳に入れなかったのか」
長が聞かなかったのか、ともかくも、ひどい憲兵がいたものだ。
拷問に堪えかねて、いずれ殺されるか、自分では出られぬと思った。そこで、わが身の潔白を身内の者だけにでもらいたかった。どこで手に入れたか、爪楊子を房内に持ち込んで、歯ぐきをつついてそ先に血をつけて、書きつけたのが、チョッキの裏の「遺言」だったのである。
渋川は慣りを感ずるやら、馬鹿らしくなるやらで腹の中が暑くなった。
東京憲兵隊本部はこの捜査を中止し、横須賀分隊の進展を待つことにしたが、山口の受領から3日たっても残りの被疑者を送ってこなかった。
だが、連れてこられなかったのは、事件に確証がなく、拷問による傷あとを恐れ、その傷あとが消えるまで外には出せなかったのではないかと渋川は邪推した。
その後、横須賀では実地検証と称し、車で残り2人の被疑者が訪問したという、アメリカ人の居宅に案内させた。日黒あたりを池袋から豊島園近くまで車を走らせた途中、被疑者たちは、泣き出してしまった。
ここでも、被疑者たちは取調官の圧迫に堪えかねて思いつきの外人の名前を出して、とりつくろっていたのだった。それを案内せよといわれてもできるものではない。
何日も車を乗り回したあげく、ウソだと自白すれば、折檻を覚悟しなければならない。無実の一般人を拷問したとあれば分隊長も行政処分は免れないであろう。分隊長が何も言わなかったのはこれを恐れたがためかも知れない。
まったくもってデッチ上げられた事件であって、山口ら3名はスパイとは何の関係もなかった。
人の不幸を専任にし、その捜査官が功名心というよりも、自分の面子にかけても、自分の頭でデッチ上げたスパイ事件だった。
気の毒なのは、傷ついた被疑者たちである。防諜、防諜といっていたその ころ、仕事熱心だといっても、このようなことが許されるわけがない。一口に憲兵といってもこんな私心のカタマリみたいな憲兵がいたことは揺るぎない事実だった。
応援ありがとうございます!
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