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冷たい婚約者
《5》
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****
その夜。
カチャリと静かな音がして、キッチンのドアが開いた。
それから衣擦れの音とドアが生み出した風に乗ってギルティオムが香る。
圭吾さんだ。
彼はいつも『ただいま』を言わない。
最初はそれを寂しく思っていたけれど、今の私にその感情はない。
「あ、圭吾さん、お帰りなさい!」
鴨肉を低温のオイルで煮ていた私の両手は、上着を受け取るには綺麗じゃなかった。
でもいい。圭吾さんと暮らし始めた初日、帰宅した彼の上着と鞄を受け取ろうとして、
『君にこういう事をしてもらう気はない』
ケンもホロロにそう言われたのを私はしっかりと覚えていたからだ。
だから圭吾さんには触らない。
そんな事より火の通りを見なくちゃ。
自分ではこんなものかなと思うけど、やっぱり他人のアドバイスが欲しい。
圭吾さんは私から離れたところにある冷蔵庫を開けようとしている。
……ダメ元でお願いしてみよう。
「あの、圭吾さん。鴨肉のコンフィを作ってるんですけど味見をお願いしてもいいですか?後は表面を焼けば完成なんです」
「夕飯は済ませた」
相変わらず静かで冷たい声。
素敵な声なのに……台無し。
ミネラルウォーターを一口飲んで振り返った圭吾さんは『イチイチ張り切るなよ』とでも言いたそうな表情だ。
整ったカッコいい顔にウンザリ感が溢れ出ている。駄々漏れもいいところだ。
「圭吾さんの為に作ってるんじゃないから安心してください。ただ味見をして助言してもらいたいなあと思っただけなので。でもいいです、ごめんなさい。明日彼に直接感想を聞きます」
だってこの先も何かにつけて誤解されたり不機嫌な顔をされるのは嫌なんだもの。
ただでさえいつも叱られているし、結婚後もこんな調子だと息が詰まる。
だから私は決めたんだ。
もう、圭吾さんに期待しない。
彼の顔色を窺いながら一緒に暮らすのは止める。
あ、それよりもフルーツのワインムースの具合を見なきゃ。
……明日が楽しみだな。
凌央さん、喜んでくれるかな。
私はいつの間にか再び、慣れない料理に没頭していった。
*****
「彩ぁ!カメラマンとの打ち合わせ、午後イチに変更!」
成瀬さんの良く通る声に、私も身が引き締まる。
「了解です!」
峯岸グループのウェブデザイン課というのは、業種ごとに存在している。
例えば同期入社の麻広さんは《食品ウェブデザイン課》で、私はといえば《建築ウェブデザイン課》所属だ。
「あ、それとNロマンティックタウンのウェブ公開用のドローン撮影でアクシデント発生。台風の影響でドローン飛ばせられなくてね、カメラマンから納期遅らせて欲しいってさ」
Nロマンティックタウンは、一区画が45坪以上の戸建て住宅地だ。
道幅も広く木々を多く使っていて、緑豊かな美しい新興住宅地だ。
この度は建て売りエリアにドローンを飛ばしその動画をウェブ公開する予定なのだが、撮影日が流れると新たに日程の組み直しになるから、そこのところは仕方がない。
「じゃあ、動画差し込みは後日ですね。今日は打ち合わせ前にカメラマンから送られてきた画像データで何パターンか作っておきます」
「助かる。で、今日はそれが終わった後、夢川貿易行ってきてね」
夢川貿易は言わずと知れた私の婚約者、夢川圭吾さんの会社だ。
私はビクッとして成瀬さんに眉を寄せた。
「どうしてですか?」
そんな私の反応が予想外だったのか、彼女は少しだけ驚いた後、興味深げに私に歩み寄った。
「夢川貿易の北欧輸入雑貨をモデルハウスに使うんだって。AプランからFプランまで全部ね。で、写真映えする雑貨を実際にウェブデザイン課がチョイスする事になったのよ。ネットから見学会参加募集かけて、実際に契約決まると雑貨は契約者にプレゼントするらしいわ。それで……なに、麗しの社長にして婚約者と喧嘩中?」
こ、怖い。
成瀬さんの瞳が、獲物を狩る直前の肉食動物みたいだ。
けど、成瀬さんは私が峯岸グループの人間だと知っても差別しないでちゃんと叱ってくれるし誉めてくれる真っ直ぐな人。
私の中で成瀬さんの信用度は百パーセントだ。
「喧嘩なんてなりませんよ。圭吾さんはいつも、ひとりで怒ってるんです、私に。いつもツーン!ってしてますよ。だから家以外で会いたくないです。それにこれってインテリアコーディネーターの仕事じゃ?」
「インテリアコーディネーターは注文住宅で忙しく、建て売りモデルハウスのインテリアは私達が担当になる旨が昨日の部長会議で決まりました」
成瀬さんは噛まずにここまで言えた称賛を自分自身に送ったのか、小さくガッツポーズをした。
「えー……」
「仕方ないわよ。忙しい時はお互い助け合わないとね。それに二日もあればいけるでしょ」
「……分かりました」
「直帰していいからね。なんなら、イケメン社長の旦那とディナーでも行けば?」
ニヤニヤする成瀬さんを軽く睨むと、私は口を尖らせた。
「行きません。私、定時後は用事があるんです」
そう。今日から毎日私は凌央さんのお家にお手伝いに行くのだ。
昨日一生懸命練習した料理を食べてもらいたい。
選択や掃除だって。
「なに?!ニヤニヤしちゃって!不気味!」
可愛らしい顔をしかめて私を見た成瀬さんに、焦って私は咳払いをした。
****
午後三時。
圭吾さんの夢川貿易株式会社は港区で、峯岸グループの本社は千代田区にある。
電車なら三十分程で着く距離だ。
汐留駅から程近い25階建ての夢川貿易ビルは自社ビルで、地下の三階は全てパーキングとなっている。
15階に総合受け付けで、それ以下の階がテナント。
ああ、本当は凄く来たくなかった。
でも仕事だもの。それに立場上、来てるのに顔を見ずに帰るわけにもいかない。
その夜。
カチャリと静かな音がして、キッチンのドアが開いた。
それから衣擦れの音とドアが生み出した風に乗ってギルティオムが香る。
圭吾さんだ。
彼はいつも『ただいま』を言わない。
最初はそれを寂しく思っていたけれど、今の私にその感情はない。
「あ、圭吾さん、お帰りなさい!」
鴨肉を低温のオイルで煮ていた私の両手は、上着を受け取るには綺麗じゃなかった。
でもいい。圭吾さんと暮らし始めた初日、帰宅した彼の上着と鞄を受け取ろうとして、
『君にこういう事をしてもらう気はない』
ケンもホロロにそう言われたのを私はしっかりと覚えていたからだ。
だから圭吾さんには触らない。
そんな事より火の通りを見なくちゃ。
自分ではこんなものかなと思うけど、やっぱり他人のアドバイスが欲しい。
圭吾さんは私から離れたところにある冷蔵庫を開けようとしている。
……ダメ元でお願いしてみよう。
「あの、圭吾さん。鴨肉のコンフィを作ってるんですけど味見をお願いしてもいいですか?後は表面を焼けば完成なんです」
「夕飯は済ませた」
相変わらず静かで冷たい声。
素敵な声なのに……台無し。
ミネラルウォーターを一口飲んで振り返った圭吾さんは『イチイチ張り切るなよ』とでも言いたそうな表情だ。
整ったカッコいい顔にウンザリ感が溢れ出ている。駄々漏れもいいところだ。
「圭吾さんの為に作ってるんじゃないから安心してください。ただ味見をして助言してもらいたいなあと思っただけなので。でもいいです、ごめんなさい。明日彼に直接感想を聞きます」
だってこの先も何かにつけて誤解されたり不機嫌な顔をされるのは嫌なんだもの。
ただでさえいつも叱られているし、結婚後もこんな調子だと息が詰まる。
だから私は決めたんだ。
もう、圭吾さんに期待しない。
彼の顔色を窺いながら一緒に暮らすのは止める。
あ、それよりもフルーツのワインムースの具合を見なきゃ。
……明日が楽しみだな。
凌央さん、喜んでくれるかな。
私はいつの間にか再び、慣れない料理に没頭していった。
*****
「彩ぁ!カメラマンとの打ち合わせ、午後イチに変更!」
成瀬さんの良く通る声に、私も身が引き締まる。
「了解です!」
峯岸グループのウェブデザイン課というのは、業種ごとに存在している。
例えば同期入社の麻広さんは《食品ウェブデザイン課》で、私はといえば《建築ウェブデザイン課》所属だ。
「あ、それとNロマンティックタウンのウェブ公開用のドローン撮影でアクシデント発生。台風の影響でドローン飛ばせられなくてね、カメラマンから納期遅らせて欲しいってさ」
Nロマンティックタウンは、一区画が45坪以上の戸建て住宅地だ。
道幅も広く木々を多く使っていて、緑豊かな美しい新興住宅地だ。
この度は建て売りエリアにドローンを飛ばしその動画をウェブ公開する予定なのだが、撮影日が流れると新たに日程の組み直しになるから、そこのところは仕方がない。
「じゃあ、動画差し込みは後日ですね。今日は打ち合わせ前にカメラマンから送られてきた画像データで何パターンか作っておきます」
「助かる。で、今日はそれが終わった後、夢川貿易行ってきてね」
夢川貿易は言わずと知れた私の婚約者、夢川圭吾さんの会社だ。
私はビクッとして成瀬さんに眉を寄せた。
「どうしてですか?」
そんな私の反応が予想外だったのか、彼女は少しだけ驚いた後、興味深げに私に歩み寄った。
「夢川貿易の北欧輸入雑貨をモデルハウスに使うんだって。AプランからFプランまで全部ね。で、写真映えする雑貨を実際にウェブデザイン課がチョイスする事になったのよ。ネットから見学会参加募集かけて、実際に契約決まると雑貨は契約者にプレゼントするらしいわ。それで……なに、麗しの社長にして婚約者と喧嘩中?」
こ、怖い。
成瀬さんの瞳が、獲物を狩る直前の肉食動物みたいだ。
けど、成瀬さんは私が峯岸グループの人間だと知っても差別しないでちゃんと叱ってくれるし誉めてくれる真っ直ぐな人。
私の中で成瀬さんの信用度は百パーセントだ。
「喧嘩なんてなりませんよ。圭吾さんはいつも、ひとりで怒ってるんです、私に。いつもツーン!ってしてますよ。だから家以外で会いたくないです。それにこれってインテリアコーディネーターの仕事じゃ?」
「インテリアコーディネーターは注文住宅で忙しく、建て売りモデルハウスのインテリアは私達が担当になる旨が昨日の部長会議で決まりました」
成瀬さんは噛まずにここまで言えた称賛を自分自身に送ったのか、小さくガッツポーズをした。
「えー……」
「仕方ないわよ。忙しい時はお互い助け合わないとね。それに二日もあればいけるでしょ」
「……分かりました」
「直帰していいからね。なんなら、イケメン社長の旦那とディナーでも行けば?」
ニヤニヤする成瀬さんを軽く睨むと、私は口を尖らせた。
「行きません。私、定時後は用事があるんです」
そう。今日から毎日私は凌央さんのお家にお手伝いに行くのだ。
昨日一生懸命練習した料理を食べてもらいたい。
選択や掃除だって。
「なに?!ニヤニヤしちゃって!不気味!」
可愛らしい顔をしかめて私を見た成瀬さんに、焦って私は咳払いをした。
****
午後三時。
圭吾さんの夢川貿易株式会社は港区で、峯岸グループの本社は千代田区にある。
電車なら三十分程で着く距離だ。
汐留駅から程近い25階建ての夢川貿易ビルは自社ビルで、地下の三階は全てパーキングとなっている。
15階に総合受け付けで、それ以下の階がテナント。
ああ、本当は凄く来たくなかった。
でも仕事だもの。それに立場上、来てるのに顔を見ずに帰るわけにもいかない。
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