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24話

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曹操が呂布軍の殲滅に失敗した事で、徐州城の戦況が大きく変わった。
まず曹操が徐州城の呂布軍を相手にする時間が増え、その結果として徐州城の守りは強固になった。
さらに曹操軍が呂布軍と戦っている間に、陶謙の援軍が来る事が確実となった。
徐州軍のみで呂布軍を打ち破ろうと思えば不可能ではないが、やはり呂布軍の半数以上は曹操との戦いに回されている。そこに陶謙軍の合流があれば、一気に逆転されてしまう恐れがある。
そうなれば、曹操に勝つ術は無い。曹操の勝ち筋としては、陶謙と呂布軍の力を合わせたとしても徐州城に届くかどうかといったところであり、それはすなわち呂布の死を意味する。
曹操は呂布軍の壊滅を断念し、徐州攻略に切り替える事になる。それでもかなりの犠牲は出たのだろう。陳宮を討つまでには至らなかったようだ。
陶謙の裏切りと呂布の武勇によって勢いを増し、曹操軍はついに徐州城をも落とした。これによって曹操は南進し、曹操軍は西へ進路を取る。
徐州城を落とすのにかなり消耗しているはずだが、それでもなお曹操の勢いは止まらない。
「殿! 今すぐ曹操に降参するべきです!」
高順が呂布の前に出て進言する。
「今の曹操は気が立っているはず。このまま曹操に攻め込まれては、勝てる戦いも落とす事は出来ません」
「いや、駄目だ」
呂布は首を振る。
「俺達は負けないと言ったろう? このまま曹操に下っては、いずれどこかで裏切られるか曹操の罠にかかるかしてしまう。そんな事になったら、俺は曹操を殺すしかない。それではお前達を殺してしまうじゃないか。だから、曹操とは戦う。今は辛抱の時だ。いずれ好機は必ず来る。その時、曹操に一泡吹かせてやればいい。その機会を、見逃すわけにはいかない。それにな、ここで負けたら本当に終わりだぞ?」
呂布は笑って言う。
だが、それは無理をしている笑顔であると誰もが分かった。
張遼も臧覇も李典も、皆その事に気付いている。だが、それ以上に呂布は苦しんでいる。
自分の決断により部下のほとんどを失ってしまった事もそうだが、何より呂布自身が一番悔しく苦しい思いをしているのだと、誰もが理解している。
だが、これ以上の反論は出来なかった。
呂布の言葉の通り、呂布の周囲には優秀な武将が揃っている。
張遼、臧覇、李典、成廉、魏続、侯成など、それぞれが呂布が選び抜いた猛将豪傑である。だが、それだけに彼らが呂布の為になる事をしてくれるという保証が無い以上、彼らに全てを賭ける事は出来ない。その事を理解し、その期待に応えてくれたからこそ、呂布はこの四人を選んだのだろう。
だからこそ、この状況においても呂布は一人で悩み苦しみ続けているのだ。
それなのに呂布を支えてくれる人間は、あまりにも少ない。陳宮を失った悲しみが癒えていないどころか、今もって呂布の心を傷つける。
陳宮がいなくなって、呂布が悲しまなかった事は一度も無い。呂布にとって陳宮は最愛の人であるだけでなく、尊敬出来る素晴らしい人物でもあったのだ。
だが、この喪失感を埋められるのは陳宮しかいない。その事に気付いた呂布は心に大きな穴を開けられた様な気持ちになったが、陳宮のいない戦場を戦い抜く覚悟は決めたつもりだった。しかし、いざ目の前にしてみれば、それがいかに甘い考えであったのかを思い知らされた。
自分はこんなにも陳宮を必要としていたのだと思い知らされてしまった。陳宮を失った事で心にぽっかりと大きな穴が開き、それを埋めようと呂布は躍起になっていた。だが、どんなに求めても手に入れられず、そして失った痛みを拭う事さえ呂布には出来ない。
せめてもの救いは、陳宮は自分に対して最後まで付き従ってくれた事くらいだろうか。
曹操に敗れた時、呂布が真っ先に思ったのは陳宮の事だった。曹操は徐州を手に入れたが、陳宮が殺されたとあっては意味がない。
もし曹操に敗れて陳宮を失ったままだとしたら、呂布は間違いなく絶望していた。曹操への怒りと、そして陳宮を失った事による失意の底に沈んだだろう。
呂布はそうならない様に、陳宮を助け出した上で、なおかつ陳宮と共に戦える状態での再戦を望んでいる。もし、陳宮を失えば呂布には戦う理由がなくなってしまう。そうなれば、陳宮も共に死んでしまう事になってしまう。陳宮だけは、失いたくはなかった。
その為には、曹操軍を打ち破るしか道は無い。その為には、陳宮が必要だ。
だが、陳宮は既に失われてしまっている。ならば、どうすればいいと言うのだ。
呂布は答えが見つからず、頭を抱える。そこへ現れたのが、王允の息子・韓浩と言う若者だった。
見た目には線の細い印象の、どこにでもいそうな青年にしか見えない。
彼は父譲りの文官気質の人物であり、武勲よりも政務を重んじる人間として周囲から見られていたが、実際のところそれほど評価が高いわけではない。
確かに有能ではあったが、それは曹操のような突出した才能では無く、ごく普通の範囲に留まる程度の才能でしかなかった。
ただ、それでも彼には他の誰にも真似する事が難しい特殊な能力を持っていたと言える。彼の持つ知識の量や正確さは凄まじいものがあり、彼がいれば他の人間が思いつかないような作戦を立てた事もあったほどだ。その事は彼自身も自負しており、その能力を買われて宮廷内に入り込んでいたのである。その彼を呂布軍が拾い上げた事が、全ての始まりとなった。
「将軍。曹操軍は我々と互角以上に戦っています。今、曹操と戦っても勝利は難しいでしょう」
韓浩はまず呂布軍全体の現状を説明し、それから曹操軍との戦い方を説明する。
「そこでです。徐州城を落とすのは諦め、今は耐えて待つべきではありませんか? このまま戦い続けても無駄に兵を消耗するだけですし、今は陶謙の援軍を待つべきです。今、曹操軍は兵力が不足しています。そこを突いて攻めれば、まだ勝ち目はあります」
「……ふむ」
正直なところを言えば、呂布もその意見を聞きたいところではある。
だが、やはりここで安易に逃げる事はしたくない。
それに何より、曹操軍に降った陶謙軍の残党兵がいるはずなのだが、それらと合流するまで戦いは持ちこたえられない。いくら曹操軍を相手にして勝ち目が薄いとはいえ、逃げるのなら徹底抗戦をして全滅してからにすべきだ。
もちろん、その考えに至らない者がほとんどなので、それを説得する手間を省けるという利点もある。
呂布は陳宮を喪い、呂布軍と高順達を残してほぼ壊滅していると言って良いのだが、陳宮を失った事と呂布軍の強さにはまだ関連付けが出来ていない者もいて、むしろここで降っても呂布は殺さないはずだ、などと希望的観測をしている者もいるらしい。
陳宮の非情とも言える采配を間近で見ていた呂布だったが、陳宮の恐ろしさを知らない者には理解出来ない様だ。
陳宮は自らの保身の為に他者の命を使う事に一切躊躇がなく、場合によってはその人物を生贄に捧げても生き残る事を最優先とする冷酷さと狡猾さを持ち合わせている。
だからこそ、あの陳宮が曹操に敗れた時に呂布が無事であると考える者は一人もいなかった。おそらく呂布自身も、同じ判断を下すだろう。その事に気付いているのは、今のところ呂布の身近にいる者達だけだ。張遼達は呂布を守る為に戦おうとしているが、呂布はそれを良しとしない。
自分が戦うからこそ、彼らは生き延びられるのだ。
曹操と正面から戦った場合、いかに呂布が優れていると言えど勝目は皆無であり、負ける事はなくとも被害を抑える事も出来なくなる恐れがある。だが、それでも勝機が無いとは言い切れない。
問題はその先にある。
曹操の首を取れるか否かではなく、その後の曹操との付き合い方こそが問題になる。
曹操は優秀な男だが、それ故に呂布にとっては危険な存在でもある。
陳宮がいなくなった事で呂布が絶望の淵に落ちてしまった時も、その底無し沼から引っ張り上げてくれたのが曹操だった。それ故、陳宮を失った時の呂布にとって、今の呂布にとってもっとも頼れる人間は曹操だった。
陳宮を失った事で絶望の闇に覆われていた呂布にとって、差し伸べられた曹操の手はまさに救いだったのかもしれない。陳宮を喪って絶望に打ちひしがれていた呂布にとって、他に選択肢は無かったと言うべきだが、結果として呂布は曹操の元へと身を寄せ、それによって呂布は呂布なりに救われたのである。
陳宮を失った呂布に対し、曹操が何かしらの利益を与えようとしたら、その時は陳宮以上の策を用意しなければならなかった。陳宮を失った呂布に対して何も利益を提示しなければ、呂布は必ずその事に気付いた。呂布にとってそれは屈辱以外の何物でもないからだ。そしてそんな屈辱に耐えられそうも無いと言う事は、この期に及んで曹操にも判っているはずである。
しかし今曹操は、敢えて呂布の前に姿を現そうとしている。
その意図するところは不明だが、少なくとも呂布を生かすつもりはないようだ。
そうでなければ呂布を討ち取る事を諦め、撤退すればいいだけの話である。呂布の追撃を恐れるのであれば、呂布軍を打ち破るために多くの犠牲を払ってでも戦う必要は無い。曹操ほどの知略の持ち主ならば、そのくらいの判断が出来るだろう。
つまり、それだけ曹操は呂布に恨みを抱いていると言う事だ。
それも当然の事ではある。
天下無双の武勇を誇り、しかも人望篤い呂布が、たかが小沛一つを落とした程度の功績を上げた程度で大抜擢されたと言う事実が気に入らないのだろう。
呂布の徐州における働きは確かに並々ならぬものがあった。だが、その功績も全ては呂布自身の手によるものではない。
それは呂布だけでなく、陳宮も同じだったと言える。だが陳宮は曹操に敗れ去ったが、その死後もなお、その名声に傷が付くような出来事は一切起きてはいない。
陳宮が死んでしまったがために、呂布は陳宮に頼る事は出来ず、結果徐州での功績は全て呂布のものとして扱われる事となった。呂布には不本意極まりない話で、実際不満を持っていたのは陳宮だけだったので、その辺りの事は曹操も重々承知していたはずだ。
もし陳宮を喪う事が無ければ、呂布と曹操は対等の立場として戦えた。そうなれば曹操は勝利出来たかどうか疑わしいものの、呂布としてはそれなりに満足のいく勝利となったはずだ。
曹操には陳宮に対する負い目がある。それが無いのなら、今頃徐州で徐州太守をしていたのは陳宮であるはずなのだ。
呂布はともかく、陳宮は今の地位を望んではいなかった。それを曹操に利用されたとも言えるのだが、陳宮自身が曹操を恨んでいるとは思えない。曹操の手腕や能力を認めているところもあり、むしろ信頼を寄せてさえいたのではないかと思われる。
それを思うと曹操の呂布への敵意の大きさが伺えるのだが、それがどれほど大きくても曹操はここで呂布を仕留めなければならない。
そうしなければ、いずれ呂布は曹操の脅威となる。
それには理由があった。今回の戦いは呂布が曹操の器量を試すため、曹操が応えるための戦いだったが、本来曹操はこのような戦い方を好む武将ではない。むしろ戦いに勝つよりも、戦いを回避する方が好みなのだ。
これはおそらく曹操の父譲りなのだろう。
若い頃から数々の戦いに身を投じてきた曹操であるが、その戦いのほとんどは戦いを回避出来るものであった。それでも自ら兵を率いて戦う事もあったが、それでも勝敗を焦る事はなく、可能な限り戦いを避ける事に心血を注いでいたのだ。
曹操自身も父程ではないが慎重な男であり、自らの力を過信する事なく慎重に事を運ぼうとする。それは息子の曹操も変わらないが、父親以上に慎重な曹操の方が慎重すぎる嫌いがあり、また一度決めたら徹底してやり通す性格でもある。だから曹操は呂布と戦う事になった時、呂布と一騎打ちをしてでも殺す必要があったのだ。
今回の呂布軍との戦いにしても、本来はもっと早い段階で和睦交渉に入り、その上で時間を掛けて呂布軍の兵を減らすつもりでもあった。
ところが、陶謙軍が曹操の援軍に来てしまい、そのまま徐州城へ攻め込む事になる。曹操軍にとって徐州城を落とされる事だけは避けなければならず、その防衛のために呂布軍と徹底抗戦をするしかなくなった。
これが徐州城の攻防戦だけであったのなら、曹操としてもこれほどの強硬手段に出る事は無かっただろう。だが、呂布が高順と共に下ヒを攻めた事で状況が変わった。
呂布が許昌に攻め込んで来た時には、まさかここまで大きな脅威になるとは思っていなかったのだ。
曹操と呂布では、その立場に大きな差がある。曹操の強みはその情報網にあるが、逆に言えば呂布の情報は得にくい。一方呂布は曹操から警戒されていたとは言え、それほど重要視されていたわけではなく、あくまでも呂布と言う存在に対処しなければならないのは陳宮であった。
陳宮の策が功を成し、陳宮が敗れ去った後も呂布の威名は衰えず、その武力を恐れてはいたが呂布個人の戦力はそれほど高くないと思い込んでいた。曹操の誤算は、呂布が思っていたより遙かに強大だったと言う事で、この差を埋める為には呂布軍を徹底的に叩き潰し、呂布個人の強さではなく曹操軍に大きな被害を与えたと言う事実が必要だった。
その為に徐州の劉備に呂布討伐の大義名分を与え、徐州兵を動かしてもらった。
それだけでなく、さらに援軍を出す事まで確約させ、さらには徐州の民達にまで呂布を討ち取るように煽動したのである。
曹操がこの徐州での戦を最優先したのはこの為であり、徐州城内での戦いだけにこだわっていたらこの策は成り立たなかった。
この戦での勝利により、曹操はようやく安心出来た事だろう。だが、曹操にとってもこの戦は苦しいものだったに違いない。
呂布を討ち取ったと言う功績を上げ、なおかつ兵力を残したまま徐州を手に入れる事によって、呂布を討つ事に賛同してくれた者達に恩賞を与える事が出来る。
しかし、それも一時の事である。このまま徐州を手に入れた曹操に対し、徐州の豪族達は不満を抱く事だろう。その怒りは曹操に向けられるのではなく、呂布に向かう事になりかねない。
だからこそ、曹操は呂布との決戦を望む。
呂布さえ討つ事が出来たのなら、他の事はどうとでもなる。たとえ徐州が呂布の手に落ちようと、曹操であれば奪い返す事も容易い。
曹操の狙いはそこにあった。
陳宮であれば見抜いただろう。
そう言うところばかり似た親子であると、張遼も感心したものだ。
「曹操軍は陣を整えていますが、まだ布陣を開始していません」
偵察に出た兵が戻って来て報告する。それはそうだ。こちらに気付かれていないと思っているのだろうが、既に呂布は曹操軍の動きを見抜いている。
曹操軍は陳宮の策に嵌められ、その総数の半分近くを失っているはずだ。そんな状態での決戦は、自殺行為と言っていいだろう。
曹操軍には撤退以外の選択肢はないはずなのだが、呂布の予想通り陳宮は曹操への恨みを忘れていなかったらしい。
呂布には陳宮の気持ちが良く分かるので、止めるつもりは無い。
ここで陳宮の望み通りに戦ってやろうと思う。
呂布には戦う理由は無いのだが、呂布にとっては陳宮の復讐は正当なものであると考える。そして何よりも、呂布には戦いたい理由があった。呂布自身がそう望んでいる。陳宮が命を賭して得たものは、この瞬間のためにあったのではないか、と。ならば今この時こそが戦い時である。
曹操軍には撤退しか道は無くとも、呂布には戦わなければならない理由があるのだ。ここで逃げてしまえば、今まで耐えてきた意味が無くなってしまうどころか、今度こそ呂布は陳宮の信用を失う事になってしまう。
だから、ここで退くわけにはいかない。
呂布の号令の下、呂布軍は一斉に動く。その動きに呼応して、曹操軍の陣地も慌ただしくなっていた。
やはり数に勝る曹操軍と言えど、まともに呂布軍と正面からぶつかるのは無謀だと判断しているのだろう。曹操軍の主力は、歩兵による強襲。
騎兵を持たない曹操軍にとって、唯一の長所が機動力の高さであったが、その利点を完全に失っている。
それを補う為の重装騎馬隊なのだが、今回の戦ではその数は減らされているだろう。呂布は曹操軍の弱点とも言えるものを、しっかりと把握していた。
突撃してくる曹操軍に呂布は弓を構える。矢が届く範囲に入ると、曹操軍と呂布軍との距離はまだ遠いにも関わらず、曹操軍が騒然となった。
これまでも散々弓矢を使ってきたが、ここまで近距離での斉射は初めてだった。
それでも構わず向かってくる曹操軍に向かって、呂布は容赦なく一斉射撃を加える。
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