上 下
63 / 98

63話

しおりを挟む
先ほどまで表情を隠している様な無表情だった陳宮だったが、今は怒りに顔を歪め、全身から殺意を発しているような恐ろしさを放っている。
その豹変ぶりに徐州兵が騒然とするが、それでも陳宮は表情も変えず殺気を放ちながら言った。
「私を呼び止めたな? 誰であっても容赦はせぬぞ」
その言葉で徐州兵は黙る。徐州最強の武人が李蒙なのに対し、呂布軍でも最強と思われる武将と言えば目の前にいる小柄な女性だと分かると誰もが言葉を呑んでしまった様だ。
その陳宮の横を抜けて、徐盛だけが慌ててその後を追いかけていった。

***
呂布軍において軍師としての顔を持つ高順、張遼、臧覇は徐州城内にいた。
とは言ってもこの三人は正式な役職があるわけではなく、客将と言う立場であるらしい。ただ、軍略や戦略に優れているのは間違いなく、それ故に徐栄も三人に対して一目置いていた。呂布も徐州に戻って来るまでの道中、何かあった時は頼ってくれと言っていた。呂布自身もそのつもりでおり、また何かしらの役を与えようかと考えていたのだが、徐州城にたどり着いた時にはすでに陳宮の姿は消えており呂布軍の三人が残っていたと言うだけの話で有った。しかし、呂布の姿を見て徐州兵の緊張はかなり解れた事は確かなので、三人とも大して問題ないと思ってくれたようで良かったと言えるだろう。
ただ一つ問題があるとすれば、徐州の将軍達に会おうとしても忙しいと追い返され続けてしまう事で呂布達もどうしたら良いのか分からなくなってしまっていた事だ。一応は李粛がいるとは言えその権限はそれほど強くなく、しかも曹操の配下である李厳の妨害もあって中々会う事が出来ない状態になっている。
このまま何事もなければ時間が解決してくれそうではあるが、徐州にとって悪い方向へ流れていく事も考えられた。その為呂布達は時間を見付けてはこの三人の将軍の元へ足を運んでいたのだった。
「で、どうなんだお前達から見て徐州は」
呂布は三人に尋ねる。徐州の諸将との話し合いも重要だとは思うものの、それよりもまず自分の部下達から情報を集める方が優先される。それは例えどんなに重要な事であろうと優先順位と言うものは変えられないし、呂布も変えるつもりはなかった。だからこそ徐州での仕事を終え次第曹操と雌雄を決する事にしていたのだから。
だがそれとは別に徐州での情報収拾の為に動き出しているのだが、それを察したのであろう、李粛が呂布を案内すると言い出してくれた。この李粛と言う武将、決して悪い人物ではないのだがどうにも小物感が抜けないと、率直に言えば凡庸さが目立って見えるのだ。おそらくは本人もその事を気にしていて、何とか取り繕うとしているのだと思うがそれも無駄に終わっている印象だ。
そのせいと言う訳ではないのかもしれないが、他の武将達からあまり相手にされていない感じが呂布には見受けられた。もちろんそれだけではなく、徐州兵にも避けられていたり嫌われている者もいるのでその辺りも加味すれば尚更である。
李粛と共に歩く道すがら、呂布はふと思った。
(んー……なんとなくだけどこの道知ってるような気がするんだよなぁ)
今向かっている先は、かつて劉備が徐州城の守りについて徐州軍と相談しているのをこっそり覗いていた時に通った道と同じ様な気がしてきた。あそこは今より狭い路地であったはずだが。
そう思った矢先、李粛が言う。
「殿、着きましたよ。ここでよろしかったでしょうか?」
この辺りかなと思っていたが、案の定目的地に到着してしまったらしい。この李粛という男。本当に劉備陣営では不遇の立場に置かれていたらしく、劉備と顔を合わせる度に辛辣にあしらわれていると聞く。劉備の方こそ特に嫌っているわけではない様な雰囲気ではあったが、この二人を会わせると言うのも不味い気もして来た。そう思って李粛を制止しようとすると、先を歩いて行った李粛の口から驚きの言葉が漏れる。
「李粛とやらがここにいるとは珍しいな」
李訓の声が聞こえる。と言うより目の前にいる李訓本人が声を発したのだから間違いないのだが、なぜこの場所に李家の四男が、いやもうすぐ五男の李粛になるのだろうが。それにその李訓の側にいる男は見覚えがない顔なのだ。しかしそれでも李家は兄弟が多いから知らない人間だとしてもおかしくはない……なんて事があるはずもないと思うのでこれはどういう事なのだろうか? と呂布はその光景を見て疑問に思っていたところに、先程部屋から出て行こうとした高順が再び現れる。
相変わらずの不機嫌そうな表情ではあるが、その眉間のシワの深さは怒りよりもむしろ焦燥に近い感情を抱いている様に見える高順である。
そんな様子に呂布だけでなく臧覇までも不思議に思ってしまう。臧覇に限ってはいつも笑みを絶やさない穏やかな武将なのでその分違和感が大きくなっていたとも言えるだろう。
そして何があったのか訊こうと思って口を開きかけたところ、陳宮の方が先に行動を起こした。高順を押し除け、李粛に声をかける為に近づいて行く。その手には愛刀の宝剣がある事も確認出来る。陳宮も高順同様怒っているのか? とも思えるくらいだったが、陳宮の怒りの対象はあくまで李粛のようである事は、李粛に対する言葉を聞いてよく分かった。陳宮は本気で怒った時の迫力があり過ぎる為呂布も少々怖いものがある。普段冷静沈着な者ほどキレると怖くなるの典型でもあるので、正直な所陳宮と関わりたくない気持ちもあるのは確かだ。陳宮は呂布に対しても容赦なく毒舌で対応してくれる事が多く、ある意味付き合いやすいところもあるので呂布の方は問題無いのだが、周りの者は呂布と違って気遣いも必要だと思われる。それはさておき陳宮だが、今は本気で怒っていても仕方ないので一旦置いておく事にして、とりあえず呂布も李粛へ声を掛けようとする。その時だ。李克用の側に仕えている李儒が現れた。李粛の実兄にして李家の当主である李厳の子であるこの男は本来ならばもっと上の役職に就いていて当然の人なのだろうが、徐州軍の内政において李粛の右腕となっているので、必然的に呂布軍でも同様の役割を担っていた。ちなみに徐州ではまだ当主の位を継承していない李粛の補佐として兄であり従兄弟の李則が務めていた。ただ、こちらも徐州太守に就任した時にすでに元服していたにもかかわらず未だ成人に達していなかった事もあり、現在は文官ではなく李粛の下で軍略を学び武官を目指していると聞いている。この二人も劉備の引き合いで李粛と一緒に徐州に来た訳であるが、こちらでも厚遇されているとまでは言えないのが現実だった。
そうやって李姓一族にスポットライトが当てられているところで、徐栄配下の武将の張勲が現れ報告してくる。
曰く、曹操軍が徐州に向けて兵を南下させているとの事だった。
呂布がそれを聞いていた時だった。
背後から何かの爆音が響き渡ったかと思えば、一瞬にして辺り一面を煙が覆い隠した。
あまりに突然で突発的な出来事だった為に、徐州軍は一時騒然となる。が、徐州軍に混乱は無く、李粛の指示によって徐州兵はすぐさま防衛態勢を整えていった。そんな中、呂布達だけが取り残されたかの様に立ち尽くしていた。その中でいち早く動き出したのは李家の者達である。
長男が次兄を連れて、呂布のそばにやってきた。
長兄の李粛だけはその場を離れようせずにいたが、それも致し方ないだろうとも思う。彼は呂布陣営では冷遇されているが決して役立たずではないからだ。と言うより、この兄弟は全員優秀過ぎではなかろうか。
呂布達がそう思った瞬間、さらに爆発が起こる。呂布達はそれに巻き込まれそうになったが、何とか李訓が李粛を担いだ事で直撃は避けられた。
それでも李訓が爆風に煽られて体勢を崩すのは必然であると言えるだろう。
だが李訓は踏み止まってみせる。それどころかその風の流れを読んでいた様に自ら風に流される事で威力を殺し、最小限の被害に留めただけでなく李粛を抱えたまま華麗に着地を決めてみせた。
まさに超人技。呂布には到底出来ない事を平然とやってみせる李粛の兄李訓に、思わず呆気に取られてしまった。
そこに、高順が駆けつけてきた。李訓を見て高順は顔をしかめる。
李訓を睨む高順の目には怒りが込められていた。だが、その目から怒り以外のものが溢れ出している事に気付き、高順がなぜここに来たのかを悟った呂布は、同時にこの場にいるべきではない事も同時に理解する事になった。
そうしている間にも李克は冷静さを失っていない。いやむしろこの状況を待っていたかのように、迎撃を命じた。
先程までの狼籍ぶりなど嘘の様な見事な判断であったと言えよう。まさに名将と呼ぶに相応しい人物である事は疑う余地が無いのだが、残念ながらその才覚を発揮する前に呂布は自らの主を救うべきであったかもしれないと悔やんだ。李粛と共に戦場に出て来たものの、結局戦える機会を得られなかった事に苛立っていた臧覇はすでに戦闘状態に突入している為動こうとしていたが、高順の方がわずかに早く動いた。陳宮も同様に反応しようとしたところを、今度は高順の制止が入った。ここで呂布が出しゃばっても意味がないと言いたいらしい。高順は自分が助けに入るつもりだろうが、確かに呂布が手を出すにしてもその相手はこの乱戦の先陣を切る事になるだろう李訓と対峙する事になり、場合によってはそこで一騎討ちになる可能性も捨てきれない。そうなれば間違いなく敗北は目に見えている。呂布が勝てる見込みの無い相手ではないが、今はそれよりも他に優先して対処すべき事があり、その状況であれば高順の判断は正しかった。
呂布は臧覇や李儒らと手分けしながら迎撃に当たる事になった。陳宮も李儒と組んで動く。ただ高順は李粛の元へ向かう様でそちらへ行ってしまったので、高順と行動を共にするのが自分だけとなってしまったのが少々不安ではあったが、高順にも呂布の考えと同じ考えがあるらしく、呂布もそれに従う事に決めていた。
それに李粛も軍師である李儒もそれぞれ自分の兵を率いる立場なので、おそらくこちらに手出しをしてこない可能性の方が強かった。
もっともこの二部隊の動きを見て徐州軍を分断、または連携させて各個撃破を狙う曹操の策である事は呂布であっても分かる事だったので、その思惑通りになってくれてもらわなければ困るくらいなのだが。
とにかく今考えるべきは、李克から下された命に従い迎撃に向かってきた李一族の次男李訓を討つことである。
李訓率いる部隊は曹操軍の中でも精鋭であり、しかも曹操の親衛隊に匹敵すると言われる騎馬隊が中核となっていた。その戦力で真っ先に攻めてくると思っていただけに予想外と言えば予想外の奇襲であったが、よく見ると馬上から弓矢を放つ事も無く整然と行軍してきた事が窺える。
それはまるで徐州軍がこちらを迎え撃つ構えを見せている事を察知して、敢えて攻撃してくる様な感じだった。
実際李粛達の部隊に動揺は無く、呂布の率いていた部隊の損害も無いに等しいので迎え撃とうとしていた事もあながち間違いでは無いので違和感を覚える程のことでもなかったのだろうが、それでも不自然だと言わざるを得ないのも事実である。
そもそもあの爆音は何だったのだろうか? そんな疑問もあったのだが、考える間もなく李訓からの矢の雨を受ける事となった。
呂布隊はすぐに防御態勢を取ったが、他の部隊がどうなっているかまでは分からないので確認したかったところだったが、呂布はそれどころではなかった。李訓が一騎打ちを仕掛けてきたのだ。
それも呂布に向けて一直線に攻め込んでくるのでは無く、まずは様子見といった程度なのか自軍の兵士達の間をすり抜けて来たのである。そうすれば自ずと敵味方問わず注目せざるを得ない。だがそれすらも囮だったのか、突如として反転すると呂布めがけて突撃を敢行する。これには驚いた。まさかここまで鮮やかに切り返されるとは思わなかったし、それだけに警戒心を刺激されてしまい完全に後手を踏んでしまったのだから、やはりこの李訓と言う男は侮れない存在であると言っていいだろう。
とは言え高順ならば確実に受けられるはずだったのだが、どういうわけかその一撃だけは避けるしかなかったらしい。それでもかろうじて初太刀は回避できただけで充分と言える。李訓はそのまま方向転換をしてから再び呂布に向かい駆け出すと見せかけると呂布の後方、すなわち李家の兵の方へ向かったため呂布は追撃しようとしたのだが、今度はそこへ高順からの声が掛かる。どうやら今のは罠であったらしく、それを教えてくれようとしていたらしい。だがその声に被さるように悲鳴が上がり、振り返った瞬間その正体が判明した。なんの事はない。その一瞬の隙を突いて斬り込んだ李訓が李家の次兄、王甫を仕留めただけである。
長兄である李粛はその武勇を持って知られた武将ではあるが、次兄の李成も同じ事が出来るはずで、呂布の目から見るとそこまで恐ろしいと感じるほどの強さではない。しかしそれも、あくまでも個人的な見解の話であって戦場における評価としては兄より弟の方が強いとされている。特に李粛の場合、その強さに反して華麗さを前面に押し出して敵を魅了する戦い方を得意としている事から、その点に関して言えば王甫の方が優れているとも言えるかもしれない。だがそれを言ってしまえば末弟である李俊もそうだ。こちらは武に偏っていて、戦場での武勇に秀でた存在ではあるものの、それ以外でも何かをやりかねない底知れなさが呂布には感じられるが、実際にその底を見せられた事がない以上、その凄みを知るのは呂布だけだと思っている。だからこそ王敏は油断していたとも言えなくはないが、少なくとも今は目の前に現れた敵に対処しなければならない事には変わりなかった。
幸いにも呂布の元に高順がいるおかげで混乱は少ないのだが、逆に言えばその二人しかいないというのが大きな問題になっていた。
呂布から見て、李克軍、曹操軍のどちら側でもない呂布にとって、どちらと敵対している場合でもない。つまりどちらか一方と手を組むなり敵対するなりしないと行動が決められないため動きにくいのである。
本来であればそういう状況を見越した上で軍師陣が対応を考えてくれるのだが、残念ながら今回は呂布軍のみでの対処が余儀無くされていた。
何しろ今、李粛の部隊が合流したとはいえ呂布軍と高順達以外の呂布の兵は呂布が連れて来てすぐに戦闘に参加してしまった事もあり、李克の部隊は手薄になっているのだ。その事を承知している李克は兵をまとめて呂布の元へ駆けつけようとしているが、李粛とその兵がそれを阻んでいる状態なのだ。もちろんその逆もありえるので迂闊に近づく事も出来ないので、現状呂布達は動けないでいる。
こうなるともう個人の能力だけが頼りとなり、呂布自身はもちろん高順に李粛まで呂布に合わせるつもりが無いとしか思えない。
ただこれは予想出来なかった事態ではなく、李粛との一戦に関しては呂布だけでなく高順も予想出来ていた事でもある。それでも防ぐどころか避けて見せたあたり、さすがと言えるだろう。ただその後の行動までは予測できなかった様だ。李則に向かって行こうとしていたのだが、そこで不意に呂布に向けて矢を放った者がいたのだ。呂布はそれを何とかかわしたが、それは高順を狙って射ったものなので当然李則に対しての攻撃が遅れてしまう事になる。結果としてこの一瞬の差は致命的なものとなり、呂布は背後に回り込まれた李則の槍に貫かれてしまう事になった。
高順も反応していたが既に遅かったのと、その矢を避けたり叩き落としたりする事によって、そちらへの対処が後手に回ってしまう事が明白な為に回避行動に移るのを止めざるを得なかったのだが、ここで問題が発生した。
突然李典と楽進が現れて、そのまま李訓の援護射撃を開始したのである。
そのせいで李粛の部隊と対峙する呂布は高順一人に頼る形となってしまった。これでは呂布一人で複数の部隊を相手どる事になってしまう。
高順の腕は信頼しているが、この状況下にあって不安が消え去る事は無かった。
李徽の部隊を相手に呂布は劣勢に立たされ、それを助けようにもこの二部隊の挟撃を受けて手が出せないという有様だった。
しかもその間に徐州の呂布軍は全滅してしまうのではないかと思われる程に、矢や刃を交えていく。
元々李家の兵士達は他の董卓軍が攻めて来れば戦う事は覚悟していたものの、今回呂布と戦う気は全く無かったのだろう。それ故に士気が低く、対呂布を想定した戦術なども持っていない。そのためか次々と討ち取られ、ついには李粛も撤退を決意して逃げ始めたが李訓が追いすがって斬殺。残るのは呂布と、そこに援軍に来た徐栄のみとなった。
ただ、それでもなお戦況は悪化の一歩を辿るだけであり好転する兆しは一切見られない。と言うよりは打開策など全く浮かんでこないと言うのが実情である。
李家の二人が加わってくれたのは良い事ではあったが、それによってこの混戦はいよいよ手に負えなくなる。
そんな状況において、ようやくこの場で指揮系統を確立し、この乱戦に楔を打ち込んだ者がいた。
徐栄である。
しおりを挟む

処理中です...